婚約解消 Sideサイラス
その日サイラスは自室で書類の整理をしていた。
すぐそばの書棚ではジョシュアが作業をし、部屋の隅にはノックスが控えている。
サイラスは最近兄の処理している書類の中で簡単な物を代わりに担当していた。
王家の王子たちは周りからは武のアンセルと知のサイラスと言われている。その言葉の通り、対外的には王太子であるアンセルが武力に優れ、第二王子のサイラスが知に優れていると思われていた。
(兄上が武力だけだなんてことはないのにな)
兄をよく知るサイラスとしてはアンセルこそが知略に長けていると思う。対して自分は単に学問としての知識を蓄えるのが得意なだけだった。
しかし当のアンセル自身が周りにそう思うように仕向けている。
そして誰が真実を見抜けるのかを観察しているようだった。
サイラスの手元の書類は重要度としては低いが、責任者として承認するからにはしっかりと中身を吟味する必要があるだろう。
そんなことを思いながら、サイラスは手元の用紙にいくつかの書物の名前を書き記す。
あとで王宮図書館へと行って該当する本を借りてこようと思ったからだ。
そうやって書類に落とされていたサイラスの視線は、突然扉を開けて入ってきた人物へと向けられる。
「今いいか?」
遠慮もなく室内に入ってきたのはアンセルだ。元々行動が迅速なアンセルは、ちょっとしたことなら自分で動いてしまう。
サイラスに側近を使えと言っていたのもアンセルだが、当の本人がこれだった。
若干の呆れを込めたサイラスの視線を、しかしアンセルは気にすることなく黙殺する。
「突然ですね。何かありましたか?」
サイラスがヒラリと手を振ると心得ているジョジュアが部屋を出て行った。同様にノックスも、一礼すると扉の外側へと移動する。
そうして室内には兄弟二人だけになった。
「サイラス、おおよそのことは私も把握しているが、これはちょっと予想外だったぞ」
そう言って渡されたのは一枚の書類だ。
さしてたくさんの文章が書かれているわけではないそれは、さっと目を通しただけでも内容を把握することができる。
「……これはどういうことですか⁉︎」
しかしその内容は、サイラスにとって予想だにしないことであり、決して受け入れられないことだった。
常日頃荒げることのないサイラスの声が室内に響き渡る。
「どうもこうも、書かれているままだ」
動揺するサイラスをよそに応接セットのソファに座ると、アンセルは勝手に紅茶を入れ始めた。
書類の確認をするサイラスが、常に紅茶を入れるための用意をしていることを知っていたからだ。
「嘘だ……誰がこんなことを……」
「信じたくない気持ちはわかるが、それは正式な書類だ。誰かが偽造したわけではない」
そう言ったアンセルの言葉がサイラスの耳を素通りする。サイラスの視線はずっと、手元の書類に釘付けのままだった。
信じたくないその書類には『婚約解消願』と書いてある。
つまり、クロエがサイラスとの婚約解消を願い出た書類ということだ。
それはサイラスにとってはあまりにも突然のことだった。
「全然予兆はなかったのか?」
「先日のオーブリー邸でのお茶会以降、クロエ嬢は体調を崩して寝込んでいます」
「ということは、あながち間違った内容ではないということか」
アンセルはそう言うと、書類をなかったことにするかのように握りしめていたサイラスの手からその紙を奪い取る。
「王族との婚約は簡単には解消できない。しかし例外があることは、お前も知っているな?」
「……はい」
アンセルの問いにサイラスが小さく返事をした。
元々貴族の婚姻にはどうしても家同士の力関係が関わってくる。そうなれば、当然家格の下の者から家格の上のものに対して婚約の解消なんて申し出ることはできない。
しかし王族相手だけ特例が認められていた。
それは、婚約相手が著しく健康を害したり心を病んでしまった時だ。
王族の婚姻相手は求められる役割が多い。
もちろん、婚約者に選ばれる者はそういった適性も考慮される。しかし時には釣り合う相手がいなかったり、諸々の事情でいささか適性が乏しい者が選ばれることもあった。
そしてそれが悲劇をもたらしたことが、実際に過去にあったのだ。
その当時、とある令嬢が王子妃として望まれて王族に輿入れした。しかし本人が望まぬその地位を妬んで嫌がらせをする令嬢が現れる。
そして悲劇が起こった。
度重なる嫌がらせに病んだ王子妃が、自ら命を絶ってしまったのだ。
それは防げたであろう事件だった。
以来、王族は輿入れする令嬢の健康には慎重になった。心も体も健やかであること。それが最低限の条件になったのだ。
そして同時に、たとえ王族相手であっても病んでしまった場合は婚約を辞退することが許されるようになった。
つまり、今回クロエは自身の健康を理由にサイラスの婚約者を辞退したいと申し出たことになる。
「もしクロエ嬢の体調が回復しないというのであれば、婚約解消を断ることはできない。わかるな?」
アンセルの言葉を、サイラスは頭では理解できても心が受け入れられない。
「……サイラス」
再度呼びかけられても答えられず、サイラスは目の前が真っ暗になるような気持ちをどうすることもできなかった。
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