クロエの決意
泣いて泣いて泣いて。
目が溶けるくらい泣いて。
その間、今までは入室を許していたサラやローガンすら拒んで、クロエは寝室にこもった。
心配した両親とヒューゴがどれだけ扉の向こうで言葉を尽くしても、クロエはその扉を開かなかった。
とうとうヒューゴが領地にいるガルドまで呼ぶと言ったけれど、それでもクロエは誰とも会うことができなかった。
それだけ、誰にも邪魔されずに自分を見つめる時間が必要だったからだ。
そしてさらに数日経った頃に、クロエはついに決意した。
ドレッシングチェストの前に立つクロエの背後から、少し黄色みを帯びた陽の光が差し込んでいる。
目の前の鏡をのぞき込めば、長いまつ毛に彩られたバーミリオン色の瞳が痛々しいほどに赤く充血していた。
目の下には隈ができ、ろくに食事も取れなかったせいか頬が少し痩けている。
顔色はいまだに良くないが、しかしその瞳には力があった。
(後悔は、しないわ。もう決めたのだから)
鏡の前には大ぶりの鋏が置かれている。その鋏を右手に取り、クロエは一まとめにした自身の髪の束を左手で掴んだ。
一度ギュッと目を閉じ、深く深呼吸をする。
そしてゆっくりと目を開ければ、鏡越しに見つめ合うその瞳には固い意志がうかがえた。
「クロエ・マディソンは、今この時から生まれ変わるのよ」
そう呟いて、クロエは右手に持った鋏で髪の束を挟むと、一気にそのハンドルを握った。
ふわりと広がった髪が顔の周りにまとわりつき、軽やかに舞う。
黄みを帯びた鮮やかなバーミリオン色の瞳には、何かを振り切ったような強さが感じられた。
「何者にも折られないくらいに、強くならなければいけないわ」
そっと伸ばした右手が触れた鏡の表面はひんやりとしていて、クロエの心をなだめていく。
見つめ合うその瞳に決意をこめて、クロエは自分自身に誓った。
♢♢♢
数日ぶりに部屋から出てきたクロエを、家族も使用人も驚きを持って迎えた。
「ガルドお兄さま。わざわざここまで来させてしまい、ごめんなさい」
家族の中に長兄の姿を見つけ、クロエはそう声をかけた。
辺境から王都までは、馬車なら三日、馬を駆るなら一日かかる。
ガルドは鍛えられた騎士とはいえ、今ここにいるということはそれこそ夜通し馬を走らせて来たのだろう。
「クロエ……その髪はいったい……」
日頃何事にも慌てることのないガルドの、いつになく狼狽えた態度に、クロエは少しのおかしさを感じて笑う。
「みんなに話したいことがあるの。時間をもらえるかしら?」
クロエの問いかけに「否」という者はいない。そして家族全員が、広間に集まった。
「このところずっと、心配をかけてしまってごめんなさい」
家族全員がソファに腰を下ろし、紅茶が配られたところでクロエは切り出した。
室内には家族だけでなく、専属侍女のサラと主治医のローガンにも同席してもらう。散々迷惑をかけてしまった彼らにも、理由を話す必要があると思ったからだ。
「クロエ、いったい何があったんだ?」
「そうよ。話してもらわないとわからないわ」
心配と焦りを顔に浮かべた両親にそう問いかけられて、クロアはまず何から話すべきかを考える。
「ヒューゴからは、クロエがオーブリー邸でのお茶会から戻ってきてから体調を崩したと聞いているが、原因はリリアン嬢か?」
クロエは辺境にいたガルドがそこまでの理由を把握していることに驚いた。そして同時に、辺境伯家には王都のタウンハウスと領地のカントリーハウスとの間に特別な連絡手段があることを思い出す。
基本的に王都と各領地との連絡は手紙で行うのが主流だが、こと辺境に関しては距離を理由に急を要する連絡が遅れれば被害が拡大するからだった。
「ヒューゴ兄さま、鷹を飛ばしたの?」
クロエの問いかけにヒューゴが目を逸らす。
その態度でも答えは明白だった。
辺境伯家で言うところの『鷹』は特別な訓練を受けた連絡用の鳥だ。
足元に暗号化した手紙を括りつけて飛ばすことができる。
(鷹を私的に使うことは褒められたことではないけれど、それだけ心配をかけてしまったということね)
だから、そのことについてクロエは何も言えなかった。
「それよりもクロエ、こうして家族を集めたということは、理由を話してくれるのか? それに、その髪のことも」
ヒューゴの言葉に皆の視線がクロエの頭に集まる。
ふと見れば他の誰よりも母の顔色が悪かった。
(艶やかで手入れの行き届いた髪は貴族令嬢の美しさの証。お母さまはそのことをよく知っているから……)
「もちろんよ。心の整理ができたから、ちゃんと、すべて話すわ」
そう言うと、クロエはゆっくりと話し始めた。
リリアンとサイラスがほぼ婚約前提の関係であったこと。
クロエの傷痕の責任をとってサイラスがその関係を解消したこと。
リリアンがいまだサイラスとの婚約を諦めていないこと。
そして何より、サイラスは責任感でクロエと結婚しようとしていることを。
「お父さま、お母さま、愚かにも私はサイラス殿下と思い合える関係になれたと思ってしまったの」
そう思わせるだけの行動を、サイラスが取り続けてくれていたから。
「貴族の令嬢は家門の繁栄のための結婚をする。たとえそれが好きな相手ではなくても。そんなこと、私だってわかっていたはずなのに」
そして、王族であるサイラスはそのことをより一層理解していただろう。
辺境伯家唯一の令嬢に傷痕を残した。
そのことが王家と辺境伯家との間でしこりにならないようにサイラスは行動したに過ぎない。
「もちろん、殿下の行いは正しいわ。私のためを思ってくれたのでしょう。でも……」
これはきっとクロエのわがままだ。
それはわかっていたけれど。
「私はお父さまとお母さまのような結婚をしたかったの」
「クロエ……」
父と母が驚いたようにクロエを見た。
「できれば愛し合える人と。そうでなかったとしてもお互いを支え合える人と」
両親は貴族同士としては珍しく恋愛結婚だ。
そもそも辺境伯家は恋愛結婚が多い。辺境という厳しい地において、信頼のできる家族、愛する家族がいることは生きることに直結する。
窮地に陥っても、生きて帰りたいという思いが強くなるからだ。
だから辺境伯家は無理に政略結婚を選んではこなかった。
とはいえ、クロエは令嬢だ。
戦いに出るわけでもない身としては、家の繁栄のための政略的な結婚はあり得ることだった。
「それに、私ではこれからの殿下のお力にはなれないわ」
辺境伯家が物理的に強い家だったとしても、王都の貴族社会での戦いはまた別。そして何より、傷痕という瑕疵のあるクロエでは、サイラスの足を引っ張ることはあっても力になることは難しいだろう。
「クロエ……あなた、サイラス殿下のことを愛してしまったのね」
母の声がクロエの耳にこだまする。
(愛して……?)
クロエは思ってもみない言葉を聞いたと思った。
けれど同時に、その言葉がストンと心の中に納まる。
(私はサイラス殿下を、愛してる……)
それは甘やかでありながら絶望を伴う気持ち。決して叶うことのない、想いだった。
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