クロエの慟哭
オーブリー邸のお茶会の日からクロエは寝込んだ。
体が辛く、ベッドから起き上がることもできない。そして食欲もなくなり、食べても吐いてしまった。
家族だけでなく使用人もみんな心配してくれたが、クロエにもどうすることもできなかった。
そして原因が精神的なものである限り、体に目にみえる問題はない。
ローガンもまた原因不明のクロエの不調に、診察するたびに悩ましげな顔をした。
クロエだけはその理由をわかっていたが、あの日あったことを家族の誰にも言うことはできなかった。
「……っう……」
食事ができなければ体力はあっという間に失われていく。
最初は起き上がることもできていたが次第に寝ている時間が増えていった。
しかし眠りすらも、クロエを楽にはしてくれない。
『あなたは傷もの令嬢よ』
眠りに落ちるたびに、夢の中にリリアンが出てきてクロエを蔑む。
招待されたお茶会に参加するたびに顔を合わせるリリアンから、今まで何度となく言われた言葉。
言われるたびにクロエの心を抉り続ける言葉だ。
「……っは!」
鋭く息を吐き出して、クロエは悪夢から目覚める。
喉がカラカラに乾いていた。
体を起こして背中にクッションを当てると、ナイトテーブルの水差しからコップに水を注いで一気に飲み干した。
体中が嫌な汗をかいていて気持ち悪い。
(サラを呼んで着替えを手伝ってもらおうかしら……)
そんなことをぼんやりと考えていたら、折り良く部屋の扉をノックしてサラが入ってきた。
「お嬢さま! 起き上がっていても大丈夫ですか? お腹は空いていませんか? ローガン先生をお呼びしますか?」
ベッドに駆け寄ってきたサラに矢継ぎ早にそう言われて、思った以上に心配をかけていることにクロエは気づく。
「そんなに一度に言われては答えられないわ」
「申し訳ございません」
少し微笑んでそう言えば、その笑みにサラがホッとしたような気配がする。
そしてクロエは、ふとサラ部屋に入ってきた時に開けた扉の向こうを見た。
寝室の隣はクロエの個室だ。
その個室のテーブルの上に、花瓶が置かれている。
「サイラス殿下からのお見舞いです」
クロエの視線の先を辿ったサラがそう答えた。
「今日はお花と一緒にお手紙も届いていました」
そう言って差し出されたのは、馴染みのあるサイラスの筆跡で宛名が書かれたクロエへの手紙。
「……ありがとう。恥ずかしいから、殿下からのお手紙は一人で読みたいわ」
「かしこまりました。では私は隣の部屋で控えておりますので、何かありましたらお呼びください」
サラが退出するのを見届けて、クロエは詰めていた息を吐いた。
(手が震えていたの、サラには気づかれなかったわよね?)
オーブリー邸でのお茶会の後、サイラスは突然先に帰宅したクロエのお見舞いに来てくれようとした。
しかしクロエはとてもではないがサイラスに会えるような精神状態ではなかったから、伝染病だといけないからと理由をつけて断っていたのだ。
それから数日。
サイラスは以前クロエが怪我をした時のように毎日花を贈ってくれる。
そして花にメッセージカードではなく手紙が添えられていたのは今日が初めてだった。
サラにはああ言ったが、クロエはサイラスからの手紙を読むのが恥ずかしいのではなく怖かった。
あの日クロエが二人の会話を聞いてしまったことをサイラスは知らない。
状況から考えるに、あれはリリアンがわざと聞かせたのだろう。サイラスの正当なる婚約者は自分なのだと言いたかったのかもしれない。
いずれにしても、リリアンはクロエからサイラスの婚約者の立場を辞退させたいのだ。
(きっと、殿下からは断ることはできないから……)
サイラスがクロエに婚約を申し込んだのが傷痕のせいなら、サイラスは絶対に婚約解消などしない。
それだけはクロエにもわかった。
(いつまでも眺めているわけにはいかないわね)
そう思い、クロエはゆっくりとサイラスからの手紙を開いた。
サイラスの手紙にはクロエを気遣う言葉が綴られている。
『体調は良くなっただろか』
『クロエの好きそうな花を贈ろう』
『お見舞いに行っても良いだろうか』
『元気になったらどこかに出かけるのを楽しみにしている』
書かれていた言葉は、とても優しい。
優しいけれど、それだけだった。
「ああ……」
クロエの口からため息のような掠れた声が漏れる。
サイラスは、あの日のことを何も尋ねない。
今まで何度も一緒にお茶会へと参加してクロエがあんな風に体調を崩したことがあっただろうか。
当然、そんなことは一度もありはしない。
そしてあの日は直前まで何もなかったのにサイラスが席を外した少しの間に状況が変わったのだ。
ましてや、会場はクロエを敵視しているリリアンの家。
特別な何かがあったと思わないのか。
そこまで考えてクロエはもう一度手紙に視線を落とす。
「ふふ……」
なぜか小さく笑いが溢れた。
そして同時に視界が滲んでいく。
「あなたにとっては、義務でしかないのね」
呟いた言葉は誰に聞かれることなく消えていった。
手紙を持っていた手に力が入ったのだろうか。
クシャリ、と紙が潰される。
(これが殿下の筆跡でなければ、誰からの手紙かもわからないわ。それとも、誰かに代筆させて書いてすらいないのかもしれないわね)
便箋に書かれた『クロエ』という名前を、別の誰かの名前に変えても成り立つ手紙。
まるで定型文のような言葉の数々。
クロエ個人へ向けた手紙というよりは、婚約者に宛てた正しい手紙だ。
これまでもそうだったのか、今となってはわからない。しかしそのことに気づくことすらなかった自分をクロエは嗤った。
きっとそれほどまでに、クロエはサイラスとの婚約が嬉しかったのだ。
(殿下は、私を見ていない)
その事実が、ゆっくりと、そしてとても深くクロエの心を傷つけていく。
ヒクッとクロエの喉が鳴る。
噛み締めた唇から息がもれ、いっそのこと声を上げて泣き喚きたかった。
しかし、隣室のサラの存在がクロエの理性を繋ぎ止める。
クロエは、家族を悲しませたくなかった。
傷痕が残り、今後が不安でしかないクロエとサイラスが婚約してくれたから、両親は間違いなく安堵しただろう。
(何が不満なの? 殿下はきちんと私を婚約者として扱ってくれているというのに)
頭ではわかっていることを、心が呑み込むことができない。
ボロボロとこぼれ落ちる涙が掛け布団に染みを作った。
(殿下はやはりリリアン様と婚約したかったのかしら)
その答えをクロエは知らない。
しかしリリアンは、これからも決してサイラスのことを諦めないだろう。
(私はこのまま殿下の婚約者でいていいの?)
千々に心が乱れて、クロエは喘ぐように息を吸った。
声を殺して涙をこぼす。
今のクロエにできることは、ただそれだけだった。
数多の作品の中から読んでいただきありがとうございます。
少しでも続きが気になりましたら、ブックマーク登録、評価などしていただけるととても励みになります。
よろしくお願いします。




