婚約
クロエが王都にあるタウンハウスへ来たのは数年ぶりだ。
春生まれということもあり、クロエは王都の社交シーズン真っ只中にデビューすることになる。
エスペランサ王国は王宮を中心にしてその周りに貴族の邸宅が立ち並び、さらにその外側に平民の街が広がっている。
貴族が住む街と平民街との間には双方の利用する商人の街が広がっており、それぞれを隔てるように街の入り口には門が設けられていた。
商人街の中でも貴族街側には主に彼らを対象とした大店の店が、そして平民街に向かって小規模な商店が軒を連ねている。街中で貴族と平民が交わることもあるが、商人街では自身の立場を笠に着て横暴な行動をすれば、たとえ貴族であっても罪に問われた。
そのため、街中は比較的平穏が保たれている。
マディソン辺境伯は貴族街の中でも商人街に近い場所に邸宅を構えている。
今回はクロエの交流会デビューということもあり、両親とヒューゴも一緒にタウンハウスまで来ていた。さすがに全員が辺境を留守にすることはできないため、ガルドが残っている。
そもそもガルドは辺境伯領の騎士学校に通っており、さらには最終学年ということもあって比較的時間に融通がつく。逆にヒューゴは秋から王都の学園に入学しなければならないので、このタイミングで王都へ来るのは都合が良かった。
「クロエの交流会は半月後よ。これから準備しなければならないことがたくさんあるの。しっかり働いてちょうだい」
そんな母の言葉に合わせて、領主家族を迎え入れたタウンハウスの使用人たちが一斉に動き出す。辺境領から一緒に移動してきた使用人たちもあっという間にその場に混じっていった。
「クロエお嬢さま、私もこの邸宅内のことを確認してまいりますので、しばしおそばを離れます」
クロエの専属侍女であるサラはもちろん辺境領から同行している。そしてタウンハウスでもクロエの侍女はサラに任せるつもりだ。
「私は部屋にいるわ。おそらくもう少ししたらサイラス殿下がいらっしゃるから、それまでに戻ってきてね」
交流会は半月後だが、クロエはその前にサイラスと約束をしている。サイラスはクロエが王都に来る日をあらかじめ確認しており、今日この後会いに来ることになっていた。
(慌ただしくしていても構わないと言っていたけれど、本当に良いのかしら?)
『顔を見るだけでいいから』
そう書かれた手紙を、クロエは大事にしまってある。
(最後にお会いしたのは殿下がマディソン領まで来てくださった時ね)
そう、まさしく婚約の申し込みをされたあの時だ。
数ヶ月前のことだが、クロエは今でもはっきりと覚えている。
結局あの後、クロエは両親と相談し、サイラスからの婚約の申し入れを正式に受けることに決めた。
返事をして以降、彼は今までよりも頻繁に手紙やプレゼントを送ってくれるようになり、会えなくても寂しくないくらいにクロエは満たされていた。
(今回の交流会のドレスも、殿下が手配してくれたのだわ)
そのドレスはすでにタウンハウスに届けられている。
サイラスの色でもあるプラチナブロンドのドレスは王都でも有名な仕立て屋が手がけた物だ。光沢のある糸で繊細に刺された刺繍が目をひく。
今の王都では、どちらかというとデコルテと背中が開いたドレスが流行していた。クロエとしては望ましくない流行ではあったが、だからといってどうすることもできない。
そんなクロエの気持ちに配慮したのか、サイラスから送られたドレスは開いたデコルテと背中の部分にレースが施され、首元までが覆われていた。
万が一にも背中が見えないデザインはクロエにとっても安心できる物であった。それに軽やかなレースは肌を覆っているという重たさを感じさせないように作られている。
ドレスを着せられたトルソーの目の前、テーブルに置かれたジュエリーボックスには一緒に贈られたアクセサリーがしまわれていた。
サイラスの瞳を彷彿とさせるブルーサファイアのイヤリングと、そろいの石のネックレスだ。
ドレスもアクセサリーもサイラスの色を纏うことを考えるだけで、クロエは鼓動が高鳴るのを感じた。
「クロエお嬢さま、サイラス殿下がいらっしゃいました」
席を外していたサラがいくぶん慌てた様子で戻ってくると、急いでクロエの身支度を整える。
そしてほどなくして、クロエの部屋へサイラスがやって来た。
「王都に来たばかりのところを邪魔してすまない。今日でないとなかなか時間が取れなかったので無理を言ってしまった」
そう言いながら、サイラスが少し申し訳なさそうな顔で入ってくる。
「こちらこそ慌ただしくしておりまして申し訳ございません」
そう返して、クロエは応接セットの椅子をすすめた。
王都のクロエの部屋は、辺境の自室の部屋よりも少し幼い感じがする。
最後にこの部屋を使用したのが数年前だから、家具たちもその頃のクロエの好みを反映しているせいだろう。
(早めにもう少し大人の雰囲気の物にしなければならないわ)
部屋の子どもっぽさを恥ずかしく感じ、クロエは心の中でそう思った。
とはいえもちろん、いたずらにお金をかけるつもりはない。カーテンやテーブルクロスなど、比較的変えやすいものだけ今の好みの物に変えるつもりだ。
そうやってクロエが内心落ち着かなく感じている内に、サラがお茶と茶菓子を用意すると部屋の隅に控える。
「ああ、もう届いていたんだね」
サーブされたお茶を一口飲んだあと、サイラスは先ほどまでクロエが眺めていたトルソーに視線を向けるとそう言った。
「はい。素敵なドレスとアクセサリーをありがとうございました」
顔を合わせてお礼が言えることを嬉しく思いながらクロエは微笑む。
「当日はこちらまで迎えに来ることが難しいから王宮での待ち合わせになってしまうのだが、大丈夫だろうか?」
「母も一緒に行きますから、大丈夫ですわ」
そもそも交流会デビューの時にすでに婚約が決まっていることは稀だ。当然他の令嬢たちも母親と参加するだろう。
それでも、サイラスは婚約したからにはエスコートもしっかりとしなければならないと思ってくれたのかもしれない。
その気持ちが、クロエは嬉しかった。
「おそらく当日まで、会うことは難しいと思う」
クロエは王子であるサイラスがどれほど忙しく過ごしているのかを詳しくは知らなかった。しかし、普通の貴族の少年よりもよほど忙しいだろうことは想像に難くない。
そしてそんな中でも会いに来てくれたことが、クロエの心を温める。
「承知いたしました。お忙しいでしょうから、無理をなさらないでください」
だからクロエは精一杯の気持ちで応えた。
「できるだけ、手紙を送ろう。当日にクロエ嬢をエスコートできるのを楽しみにしている」
そう言うとサイラスはほんのりと笑った。
サイラスはいつだってクロエの気持ちを慮ってくれる。だからクロエは、自分の心がどんどんサイラスに傾いていってしまうのを止めることができなかった。
(殿下は本当に素敵な方ね)
背中の傷痕という足枷がありながらこんなに幸せを感じられることに、クロエは感謝した。
そして、この時がある意味一番幸せだったのだと、後にクロエは思うことになる。
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