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第50話 雨の逆流

窓の外で雨が降り始めた。


十月の冷たい雨。事務所の窓ガラスに雨粒が当たっている。理帆はデスクの前に座ったまま、窓を見ていた。


雨粒が——上に向かって這い上がっていた。


最初は見間違いだと思った。風のせいだと思った。けれど違った。窓ガラスの表面を、雨粒が一粒、二粒、三粒、下から上に向かって移動している。重力に逆らって。まるで窓ガラスの向こう側にある何かが、雨粒を吸い上げているように。


理帆は立ち上がった。窓に近づいた。目を凝らした。外壁を伝う雨水も、一部が下から上に向かって滲んでいた。建物が——息を吸っている。雨を吸い込んでいる。


デスクの上を見た。書類の端が、微かに持ち上がっていた。紙が上に引かれている。微細な埃の粒子が、無音で天井に向かって漂っている。建物が息を吸い込んでいるのだ。空気を。雨を。埃を。この空間の中にあるすべてを。


理帆の体にも引力が働いていた。足が床に張りついている感覚が薄れ、体が微かに軽くなっている。上に引かれている。壁に引かれている。建物の呼吸が理帆を包み込んでいる。左手が一番強く反応していた。温度が上がっている。指先が脈打っている。壁と同期しようとしている。


理帆はデスクの図面に目を落とした。


図面の線が——脈動していた。


一本一本の線が、かすかに膨張と収縮を繰り返している。呼吸するように。壁の断面図の線が膨らみ、縮み、膨らみ、縮む。


理帆は事務所の中を見回した。


壁の前に、人が立っていた。


白い壁の前に、透明な人影が立っていた。一人ではない。二人、三人、四人。壁に沿って、等間隔に並んでいる。輪郭がぼんやりとしている。性別も年齢も分からない。けれどそこにいる。壁の中から半分だけ出てきたように、壁と一体化しながら、こちらを見ている。


甘い匂いが濃くなった。菊の匂い。壁の匂い。404号室の匂い。理帆の鼻腔が完全に開いていた。この事務所のすべての匂いが一斉に理帆に流れ込んでいる。コーヒー。紙。埃。コンクリート。菊。死者の気配。すべてが混ざり合い、ひとつの匂いになった。建物が息をしている匂い。


理帆は動けなかった。恐怖で動けないのではなかった。見ていたかったのだ。この人たちを。壁の中にいた人たち。声にならない声を上げ続けていた人たち。「見なかったことにされた」人たち。


一人の人影が、理帆に向かって口を動かした。声は聞こえない。けれど形は読めた。


「やっと見てくれた」


理帆の目に涙があふれた。やっと見た。やっと見ている。六歳のとき母に目を覆われ、振り返ることを許されなかったあの日から、理帆はずっと見ないようにしてきた。


今、理帆は見ている。


人影のうちの一人が——手を伸ばした。理帆に向かって。その手は招いているのか。助けを求めているのか。引き込もうとしているのか。判別できなかった。理帆の左手が反応した。無意識に、壁に向かって持ち上がった。白い左手。壁と同じ色の左手。その手が、人影の手に向かって伸びていく。六歳の廊下で母に引き戻された手が、二十年の時を超えて、もう一度壁に向かっている。


壁の中から声が聞こえた。二種類の声。


一つは「出て」。低くて、弱くて、途切れがちな声。壁の中から外に出ようとしている声。壁に閉じ込められた人の叫び。


もう一つは「いて」。低くて、甘くて、包み込むような声。壁の中に留まってほしいと言っている声。壁そのものの声。


宮内のメッセージが蘇った。「壁が呼んでるんじゃない。壁の中にいる人が呼んでるんだ。二つの声を間違えるな」。


理帆は左手を下ろした。


人影に触れなかった。代わりに、見た。目を逸らさずに。母の手で覆われることなく。自分の目で。壁の中にいる人たちを。上に向かって漂う埃を。逆流する雨を。


この事務所も息をしている。このビルも。あのビルも。梶原が設計したすべての建物が。


理帆は図面を丸めた。バッグに入れた。鍵をデスクの上に置いた。事務所の鍵。二年間使った鍵。


壁の前の人影たちが、理帆を見ていた。理帆が出ていくのを見ていた。一人だけ——佐々木健人かもしれない人影が、手を下ろした。そして微かに、頷いたように見えた。


理帆は事務所を出た。


階段を降りた。エントランスを出た。雨が降っていた。外に出て振り返った。事務所のビルの外壁を見上げた。雨は——普通に降っていた。上から下に。重力に従って。普通の雨。けれど外壁のコンクリートに、下から上に雨が滲んだ痕跡が残っていた。


理帆は傘を差した。駅に向かって歩き始めた。


雨の匂いがした。


理帆は足を止めた。雨の匂い。アスファルトに落ちた雨の、土と石と水が混ざった匂い。ビルの外で——壁のない場所で——匂いがする。鼻腔が開いている。壁に触れていないのに。左手を見た。雨に濡れた左手。白い指先。灰色の爪の線。左手は温かかった。雨の冷たさを感じていない。


……壁を持ち出してしまった。理帆の体が、壁そのものになりかけている。壁のある場所にいなくても、理帆の左手が壁の代わりをしている。だから匂いがする。左手が理帆の鼻腔を開いている。壁が理帆の中に住みついた。


もう見ないふりはしない。


振り返ることを許されなかった六歳の理帆は、もういない。今の理帆は振り返った。壁の中にいる人たちを見た。自分の手が描いた〇・五度のずれを見た。


すべてを見た上で、理帆は歩いている。壁から離れる方向に。けれど理帆の体の中に、壁の脈動がまだ残っている。心臓の鼓動に重なっている。左手に刻まれている。


呪いは——もう理帆の中にあるのかもしれない。

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