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第49話 実験室

十月の第三週。理帆は一人で梶原設計事務所に入った。


鍵はまだ返していなかった。梶原は不在だった。ここ数日、梶原の姿を見た者はいないと小峰が最後の連絡で言っていた。事務スタッフもいない。誰もいない事務所。午後四時。窓から差し込む光が、デスクの上を斜めに照らしている。埃が光の中を漂っていた。


事務所に入った瞬間、匂いが洪水のように理帆を包んだ。コーヒーの匂い。紙の匂い。そして——甘くて重い匂い。菊の匂い。404号室の匂い。この事務所の壁から、あの匂いが染み出していた。以前はここまで強くなかった。梶原がいなくなって以来、壁が匂いを放出し始めたのかもしれない。抑えていた蓋が外れたように。


理帆は事務所の壁を見回した。白い壁。石膏ボードにクロスを貼った、普通の壁——に見える壁。


梶原の言葉が引っかかっていた。「この事務所にも声がある」。理帆は自分のデスクの下に潜り込んだ。壁の根元を見た。巾木の接合部分。巾木を指で押した。わずかに動いた。浮いている。


理帆は工具箱からカッターを取り出し、巾木を丁寧に外した。クロスの下の石膏ボードが露出した。ボードの表面に、小さな穴が開いていた。直径五ミリほどの穴。壁に沿って等間隔に三つ。工具で丁寧に開けられている。


理帆は穴にスマートフォンのライトを当てた。穴の奥に空間がある。石膏ボードを二重に張り、その間に意図的に空洞を作っている。ビルの三百ミリの壁と原理は同じだ。周波数測定アプリを起動した。穴に近づけた。数値が揺れた。十七ヘルツ。十八ヘルツ。十八・七ヘルツ。


……ビルと同じだ。


事務所の壁にも、インフラサウンドを発生させる構造が埋め込まれていた。


理帆はここで二年間働いていた。毎日八時間以上、この壁の前に座っていた。宮内も。小峰も。梶原自身も。全員が、この壁の中のインフラサウンドに曝されていた。


宮内が壊れたのは、ビルのせいだけではなかった。理帆の左手の冷えが始まったのは、このビルに配属される前からだったのかもしれない。事務所で二年間——気づかないうちに、体は壁に馴染まされていた。入社初日から。


梶原にとって、事務所は実験室だった。日常的にインフラサウンドに曝すことで、感受性を選別していた。宮内は反応したが耐えられなかった。理帆は反応し、耐えている。その差を、梶原は二年間かけて観察していた。


理帆は立ち上がった。自分のデスクに戻った。デスクの上に、先週まで作業していた図面が広げてある。あのビルの四階の改修図面。


図面を見下ろしたとき、理帆は凍りついた。


壁の角度が——ずれている。


〇・五度。ほとんど目に見えないずれ。けれど理帆は見えた。壁の線が、垂直から〇・五度だけ傾いている。理帆が引いた線だ。理帆が自分で引いた線が、梶原のパターンと同じ角度でずれている。


理帆は過去の物件の図面を思い出した。梶原設計の壁はすべて、垂直から微かにずれていた。その微かなずれが、空間に無意識の不安を生む。〇・五度の傾きが、人間の平衡感覚を微かに乱す。


理帆の図面に、同じパターンが混入していた。


いつから。先週描いた。意識的にずらしたわけではない。垂直に引いたつもりだった。けれど手が——左手が〇・五度だけずれた線を「正しい」と判断していた。ペンを持つのは右手だ。けれど定規を当てるのは左手だった。白くなった左手。壁の温度を保持している手。その手が定規を持ったとき、〇・五度だけ傾けていた。壁の角度を、理帆の手を通じて図面に刻んでいた。


理帆はずれた線を見つめた。〇・五度の傾き。その傾きを——美しいと感じた。


一瞬だった。一瞬だけ、その線に梶原の設計の美しさを見た。空間に微かな不安を生む線。人の無意識に触れる線。完璧な垂直線にはない、生きた線。梶原の言葉が蘇った。「設計の呼吸」。あの言葉が嘘ではなく、理帆自身の実感として胸に落ちた——一瞬だけ。


理帆はペンを置いた。左手が震えていた。

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