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第48話 レッテル

十月に入って、理帆の信用は崩れた。


梶原は素早かった。理帆が事務所を出た翌日から、業界の繋がりを使って動いていた。建築士会の知人、ゼネコン時代の上司、リノベーション業界の関係者。梶原が二十年かけて築いたネットワークは広く、深かった。理帆が三ヶ月かけて集めた証拠は、梶原が三日で無力化した。


理帆の耳に入ってきたのは、すべて間接的な情報だった。ゼネコン時代の先輩から「大丈夫か」という電話。大学の同期から「なんか噂が」というメッセージ。噂の中身は一貫していた。「梶原設計の久住さん、精神的に不安定になっている」「上司を根拠のない疑惑で告発しようとしている」「過労で判断力が落ちている」。


レッテルは正確に貼られていた。理帆が調べた内容——インフラサウンドのデータ、事故率の統計——には一切触れずに、理帆の「精神状態」だけが問題として流布されていた。梶原は理帆の主張を否定する必要すらなかった。理帆という人間の信頼性を壊すだけでよかった。


理帆は建築士会への報告書を提出した。二十ページのクリアファイル。受理はされた。けれど担当者の目が、すでに「そういう人」を見る目だった。「調査には時間がかかります」。その「時間」が、理帆の訴えを風化させるための時間であることは明白だった。


小峰からは連絡がなくなった。拓海からは何度かメッセージが来た。「話そう」「心配してる」「俺が悪かった」。理帆は既読だけつけて返信しなかった。


十月の第二週。理帆のアパートのインターホンが鳴った。


ドアを開けると、佐々木節子が立っていた。六十七歳の女性。白髪を丁寧にまとめている。手に紙袋を持っていた。コートの襟を合わせている。十月の風が冷たかった。節子のコートから、かすかに菊の匂いがした。理帆は息を止めた。外では何も匂わなかったのに。節子の身に纏っているものだけが、匂いを持っている。仏壇の花の匂い。死者の匂い。壁の匂い。節子の身体には、息子を失った三年半の歳月が染みついていて、その匂いだけが理帆の閉じた鼻腔を開く。


「久住さん、突然ごめんなさい。連絡先は、前にいただいたお手紙の住所から」


理帆は節子を部屋に入れた。テーブルにお茶を出した。手が震えた。誰かが理帆を訪ねてきたのは、何週間ぶりだっただろう。


節子は紙袋から書類の束を取り出した。


「健人のことを調べてくださっていると聞きました。あのマンションの管理会社の方から、建築士会に報告が出されたと」


節子は書類をテーブルの上に広げた。健人の診療記録のコピー。主治医の所見。入居後の体調変化の時系列。節子が三年半かけて集めていた記録だった。丁寧にファイリングされている。日付順に並べられ、付箋が貼られている。


「息子が死んでから、ずっと集めていました。誰かに渡せる日が来ると思って」


理帆は書類に目を落とした。手が震えていた。健人の診療記録の中に、一行だけ目に留まった。「左手の末端冷感および変色。循環器系に異常なし」。


……やはり。


「一人じゃなかったんですね」


節子が言った。理帆は顔を上げた。


「久住さん、私でよければ力になります。息子の記録がお役に立つなら。証言も、法的な手続きも。何でもします」


理帆の目に涙が溜まった。生きている人間で、初めて——本当の意味で味方になってくれる人が現れた。理帆のデータを信じるのではなく、理帆の痛みを知っている人。壁の中にいる人の家族。


「ありがとうございます」


声が震えた。節子は微笑んだ。透明な目。三年半泣き尽くした目。お茶を飲んだ。——味がした。節子が座っているこの部屋で、理帆のお茶に味がした。壁のない自宅で、初めて味覚が戻った。壁の匂いを纏った人がいるだけで。死者の家族がいるだけで。理帆はその事実を、誰にも言わなかった。

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