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第47話 聞こえる?

梶原は椅子から立ち上がった。


窓のほうに歩いた。背中を理帆に向けたまま、窓の外を見ていた。午後の日差しが梶原のジャケットの肩に落ちている。


「久住さん、ひとつだけ——正直に言うわね」


梶原の声が変わった。穏やかさが消えていた。知的な抑制が消えていた。残っていたのは——恐怖だった。


「最近、自分の設計した部屋にいると声がするの。壁の中から」


理帆は梶原の背中を見つめた。


「この事務所もそう。この壁の中にも、声がある。私が設計した空間すべてに、声が溜まっている。最初は他人の声だった。入居者の声。死んだ人の声。でも最近——私自身の声が聞こえる」


梶原が振り返った。その顔を見て、理帆は息を飲んだ。


梶原の目に、恐怖があった。


この人が恐怖を見せるのを、理帆は初めて見た。いつも落ち着いていて、すべてを掌握していた人。その人の目に、子供のような恐怖が浮かんでいた。梶原の頬がこけている。目の下に隈がある。理帆は自分の顔を見ているようだった。健人の最後の写真を見ているようだった。壁に近い人間は、みな同じ顔になる。


「……聞こえる?」


梶原が事務所の壁を見た。白い壁。石膏ボードにクロスを貼った、普通の壁——に見える壁。


梶原は壁に近づいた。右手を伸ばし、壁に触れた。


指が——沈んだ。


理帆は目を疑った。梶原の指先が、壁の表面に触れた瞬間、クロスの表面が梶原の指を飲み込むように凹んだ。一瞬だった。梶原が手を引くと、壁は元に戻っていた。理帆の左手が反応した。テーブルの下で、左手が温度を上げた。脈動が指先を走った。壁が梶原の指を受け入れた瞬間、この事務所の空間全体に微かな震えが走り、理帆の左手がそれを受信した。


「……今、沈んだ?」


理帆は立ち上がった。壁に近づいた。右手で同じ場所に手を当てた。固い。普通の壁だ。沈まない。左手を当てた。——温かかった。壁が温かかった。右手では冷たい壁が、左手では温かい。あのビルと同じだ。左手だけが壁に受け入れられている。


「あなたには沈まないのね。でも——温かいでしょう。左手は」


梶原が理帆の左手を見ていた。白くなった指先。灰色の爪の線。梶原の目が、それを認識している。梶原は最初から知っていた。理帆の左手の変化を。


「父の手帳の未解読ページがあるの。最後の数ページ。筆跡が乱れすぎて、私にも読めなかった。でも最近——少しだけ読めるようになった。壁の中の声を聴いていると、父の文字が読めるようになる」


梶原はデスクに戻り、手帳の最後のページを開いた。


「ここに書いてあるの。『設計者自身の生贄化の工程』。養分が足りなくなったとき、壁は設計者を求める。父がそうなった。——そして私もそうなりかけている」


理帆は手帳を見下ろした。最後のページ。震える筆跡。ほとんど判読できない。けれど一行だけ、はっきりと読める文字があった。


《壁は、作った者を最後に食べる。》


理帆は顔を上げた。梶原を見た。


梶原は微笑んでいた。恐怖を湛えた微笑みだった。設計者としてすべてを支配してきた人間が、自分の設計したものに呑み込まれようとしている。黒幕が——もっと大きな何かの駒に過ぎなかった。


「だからあなたが必要なの、久住さん。あなたが柱になれば、壁は私を求めなくなる。あなたが壁と共鳴し続ければ、壁は安定する。私も——助かる」


理帆は梶原を見つめた。長い時間、二人は向かい合っていた。理帆の左手が温かかった。この事務所の壁の脈動を拾っている。壁の中の声が——梶原にだけ聞こえている声が——理帆の左手を通じて、かすかに理帆にも届き始めていた。音ではない。温度の変化。左手の温度が微かに波打っている。脈動のリズムで。壁の呼吸が、左手を介して理帆の体に流れ込んでいる。


「……梶原さん、それは脅迫ですか。それとも、懇願ですか」


梶原は答えなかった。目が揺れていた。七歳の子供が壁に手を当てて泣いた日から、この人はずっと壁のそばにいた。


理帆はバッグを手に取った。


「帰ります」


梶原は止めなかった。理帆が個室を出るとき、背後で梶原が壁に手を当てる気配がした。振り返らなかった。


事務所を出た。ビルのエントランスを抜けた瞬間、匂いが消えた。コーヒーの香りも、紙の匂いも、すべて消えた。九月の午後の空気が無臭の壁になって理帆を包んだ。左手だけが温かかった。この事務所の壁の記憶を、まだ保持していた。


理帆は歩きながら考えた。


梶原は恐怖していた。自分が作ったものに。父と同じ道を歩んでいることに。梶原は加害者であると同時に、次の犠牲者でもあった。


黒幕が——怯えている。


理帆は立ち止まった。振り返った。事務所のビルが見えた。窓ガラスに午後の日差しが反射していた。あの窓の向こうで、梶原が壁に手を当てている。


壁は、作った者を最後に食べる。


理帆は前を向いて歩き出した。左手を握った。温かい手。白い手。壁の記憶を持つ手。この手が、理帆をまだ壁の側に繋ぎ止めている。

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