第51話(最終話) 息をしている
十二月。
理帆は梶原設計事務所を辞めていた。拓海とは別れた。連絡は取っていない。宮内からは一度だけメッセージが来た。「報告書、見た。お前はすごい」。理帆は「ありがとうございます」と返した。
建築士会への報告は、まだ審査中だった。節子の証言と健人の診療記録が加わり、調査は正式に開始されていた。結果が出るまでには時間がかかると言われた。壁は、まだ呼吸している。
梶原の消息は途絶えていた。
十一月の半ば、理帆は一度だけ梶原の事務所を訪れた。鍵はもう持っていなかったが、ドアは開いていた。誰もいなかった。デスクの上に書類が散乱していた。コーヒーカップが洗われないまま置いてあった。父の手帳は見当たらなかった。壁に触れた。事務所の白い壁に、左手のひらを当てた。
温かかった。体温に似た温度。三十六度くらいの、人の肌の温もり。
「設計者の生贄化」が完了したのかもしれない。壁が梶原を取り込んだのかもしれない。あるいは暖房の余熱が壁に残っているだけかもしれない。理帆の左手は、壁と同じ温度だった。区別がつかなかった。左手が壁に溶け込んでいるのか、壁が左手に溶け込んでいるのか。境界が消えていた。
理帆は手を離した。それ以上触れなかった。
十二月。理帆は小さな設計事務所に転職した。住宅リフォームが中心の、地味な事務所だった。所長は六十代の穏やかな男性で、理帆の経歴を見て「梶原設計にいたの。すごいね」と言った。理帆は曖昧に笑った。
新しい仕事場で、理帆は設計を続けていた。
不思議なことがあった。理帆が設計した空間には、何も起きなかった。壁は垂直だった。天井高は規定通りだった。ペンは転がらなかった。インフラサウンドはなかった。完璧な静寂。何も異常のない、正しい建物。壁は壁であり、床は床であり、天井は天井だった。
そこで働く人々が言った。
「なんか、この建物、つまんないですね」
理帆はその言葉を聞いて、微笑んだ。つまらない建物。何も感じさせない建物。壁が呼吸しない建物。それが理帆の設計だった。梶原のパターンを排除し、壁の中に空洞を残さなかった。「無」の建築。息をしていない建物。
安全で、正しくて、誰も傷つけない。けれどそこにいる人は何も感じない。建物と人のあいだに、何の対話もない。
節子とは定期的に会っていた。月に一度、健人が好きだったという喫茶店で。喫茶店では——コーヒーの味がした。節子がいると、味覚が戻った。壁がなくても。節子の身に纏った、仏壇の菊の匂いが、理帆の閉じた感覚をほんの少しだけ開く。死者の家族が近くにいるだけで、理帆の体は壁に触れたときと似た反応を示した。理帆はそれを節子に言わなかった。言えるわけがなかった。
夜、自宅に帰ってから、理帆は図面を見返した。
壁の角度が〇・五度ずれていた。
また。
理帆は消しゴムを手に取った。ずれた線を消そうとした。消しゴムが線に触れた。——左手が止まった。
ずれた線を、美しいと感じた。
梶原のパターンなのか。理帆独自の「設計の呼吸」なのか。壁の中の何かが理帆の手を通じて図面に侵入し始めているのか。それとも二年間の訓練で身についた、建築士としての感覚なのか。区別がつかなかった。
消せば「無」の建築になる。つまらない建物。何も起きない空間。安全で、正しくて、誰も傷つけない。けれど——息をしていない建物。
残せば「呪い」の建築になるのかもしれない。壁が呼吸する建物。人の無意識に触れる空間。美しくて、危うくて、人を変える可能性がある。けれど——生きている建物。
「人を壊す設計」と「何も感じさせない設計」のあいだに、第三の道はあるのだろうか。壁が息をしながら、けれど人を傷つけない設計。壁の中の声を聴きながら、けれど壁に呑み込まれない生き方。
理帆には、まだ分からなかった。
消しゴムを置いた。図面を閉じた。
左手を見た。十二月の夜。暖房のない部屋。右手は冷えていた。左手は温かかった。白い指先。灰色の線は中指まで到達している。ビルを離れて二ヶ月経っても、左手は壁の温度を保っている。もう戻らないのかもしれない。この手は、もう完全には理帆の手ではないのかもしれない。けれど理帆はこの手で設計を続けている。〇・五度のずれを描き、消し、また描く手。壁を知った手。壁を離れた手。壁の記憶を持ったまま、垂直線を引こうとする手。
窓の外を見た。十二月の夜。街が広がっていた。無数のビルが立ち並んでいる。オフィスビル、マンション、商業施設、病院、学校。コンクリートと鉄骨で作られた無数の箱が、夜の街に光を灯している。
そのすべての建物が、理帆には——かすかに、息をしているように感じられた。
吸って、吐いて。吸って、吐いて。
壁の中に、声がある。聞こえない声。聞こうとしない声。聞こえすぎる声。
建物は、息をしている。
理帆は窓を閉めた。机に向き合った。新しい図面用紙を広げた。左手で定規を取った。温かい左手。白い左手。壁の記憶を持つ左手。ペンを走らせた。一本の線。まっすぐな線。垂直な線。——〇・五度、ずれていなかった。理帆はその線を見つめた。まっすぐな線。正しい線。けれどそこには何もなかった。息をしていない線。
次の線を引いた。




