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第45話 父の手帳

梶原はデスクの引き出しを開けた。


中から古い手帳を取り出した。革の表紙が擦り切れている。角が丸くなっている。何十年も使い込まれた手帳だった。


「これは父のものよ」


梶原はテーブルの上に手帳を置いた。丁寧に。壊れやすいものを扱うように。


「父は建築士だった。小さな設計事務所を営んでいた。住宅がメインで、大きな仕事はなかった。けれど父の設計した家に住んだ人は、みんな『居心地がいい』と言っていた。父には特別な感覚があった。空間の声を聴く感覚が」


梶原の指が手帳の表紙を撫でた。


「私が七歳のとき、自宅で亡くなった。首を吊った」


理帆は息を止めた。インタビュー記事の一行——「幼少期に父を亡くした」。自殺だったのだ。自分が設計した家で。


「父の設計した家で、父が死んだ。壁の内側で。母が見つけた。私は学校にいた。帰ってきたら、家の前に救急車が停まっていて、母が泣いていた。それが——私の原体験」


梶原の声は平坦だった。何度も語った話を語り直しているような、磨耗した声だった。角が取れて滑らかになった声。けれどその滑らかさの下に、七歳の子供の震えが残っている。


「父は特殊な技法を持っていた。この手帳に書いてある。建築の空間設計を使って、人の精神に影響を与える技法。天井高の調整、廊下幅の操作、壁の空洞による音響効果。父はそれを『空間の調律』と呼んでいた。人が安らげる空間を作るための技法だと」


梶原は手帳のページをめくった。古い紙が擦れる音がした。ページには細かい文字と図面のスケッチが書き込まれている。理帆は建築士として、その図面の精度に目を見張った。手描きなのに、寸法の正確さが尋常ではない。


理帆の左手が、手帳に向かって伸びていた。紙の表面に触れたい。この手帳の中に残った父の手の温度を確かめたい。——止めた。左手を膝の上に戻した。この手で触れたものが壁の温度に変わることを、理帆は知っていた。


「けれど父は途中でこの技法を使うのをやめた。手帳の途中から、記述が変わるの。技法の記録から、観察の記録に変わる。『壁が聞いている』『空洞に声が溜まる』『養分を求めている』。父の筆跡が乱れ始めている。最後のページには——」


梶原は手帳を特定のページで開き、理帆に向けて置いた。


理帆は文字を読んだ。震える筆跡。インクが滲んでいる箇所がある。


《壁に養分を与えなければ、壁は設計者を求める。設計者自身が柱になる。》


理帆の左手が、テーブルの下で痙攣するように動いた。「柱」の文字を目で読んだ瞬間、左手の温度が一段上がった気がした。壁が——この事務所の壁が、この言葉に反応している。あるいは、理帆の体が反応している。


「父はこの技法を使うのをやめた。壁に養分を——つまり、人の苦しみを供給するのをやめた。けれど壁はすでに作られていた。供給が止まった壁は、代わりに設計者自身を求めた」


「……お父さんの死は」


「建物による『回収』だった可能性がある。父が自ら命を絶ったのか、壁が父を引き込んだのか。境界が曖昧なの。自殺と、壁による回収の区別がつかない。けれど父は、自分が設計した部屋の中で死んだ。壁の中の空洞に向かい合う位置で」


梶原は手帳を閉じた。


「私はそれを、子供の頃からずっと考えてきた。父はなぜ死んだのか。建築は人を殺せるのか。壁の中にあるものは何なのか。答えを探して建築を学んだ。父の手帳を読み解いた。大学で環境心理学を学び、音響工学を学び、父が経験で見つけたものを科学の言語に翻訳した。そして——父の技法を科学で証明した」


梶原の声が、初めて少しだけ熱を帯びた。


「迷信じゃないの。インフラサウンドが人体に与える影響は論文で実証されている。空間の寸法が心理に及ぼす効果も研究されている。父が経験的に見つけた技法を、私は科学的に体系化しただけ」


「体系化して——人を殺すために使っている」


理帆は言った。声が震えなかった。自分でも驚くほど、平坦な声だった。


梶原は理帆を見つめた。長い沈黙があった。事務所の空調の音だけが低く鳴っている。——あの低い音。ビルの壁の脈動と、同じ周波数帯。理帆の耳がそれを拾っている。この事務所にも、インフラサウンドがある。

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