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第44話 事務所の空気

梶原設計事務所に着いたのは、木曜日の午後二時だった。


九月の日差しが強かった。事務所のビルは駅から徒歩七分の、六階建ての小さなビル。梶原設計が三階のワンフロアを借りている。理帆がこのビルに通い始めたのは入社直後からで、もう二年以上になる。エントランスの自動ドアが開くと、階段ホールの空気が顔に触れた。知っている空気だ。冷房と紙とコーヒーの匂い。


——匂い。理帆は足を止めた。匂いがした。ビルの外では何も感じなかった。駅前の金木犀も、道路の排気ガスも、何も感じなかった。なのにこの建物に入った瞬間、鼻腔が開いた。冷房の機械的な匂い。紙の匂い。コーヒーの匂い。すべてが鮮明に立ち上がった。あのビルと同じだ。壁のある建物に入ると、嗅覚が戻る。この事務所にも——壁がある。


三階に上がった。事務所のドアを開けた。白い壁。大きな窓。観葉植物。竣工写真が並ぶ廊下。コーヒーの香りがした。梶原がいつも飲んでいるブレンド。この匂いを理帆は好きだった。この事務所に入るたびに、ここが自分の居場所だと感じた。


梶原の赤ペンで添削された図面。「ここの納まり、もう少し考えてみて」と言われて三日かけてやり直した場所。今日はその匂いが、理帆の胃を重くした。匂いが鮮明であることが、この事務所の壁にも何かがあることを意味している。


受付に誰もいなかった。小峰は現場に出ている。宮内は休職中。事務スタッフは午前で上がっている。理帆と梶原の二人きり。


梶原の個室のガラスの仕切りが開いていた。梶原はデスクの向こうに座っていた。髪をまとめ、黒いジャケットを着ている。いつもの梶原。デスクの上に湯気の立つコーヒーカップが二つあった。理帆の分も用意されている。


「久住さん、座って」


梶原が椅子を示した。理帆はバッグを膝の上に置いて座った。クリアファイルがバッグの中にある。けれど今日は取り出すつもりはなかった。拓海がすべてを伝えた以上、証拠を見せることに意味はない。


「体調はどう?」


梶原の声は穏やかだった。この声にずっと守られてきた。この声が「大切な資質よ」と言った。この声が「設計の呼吸」と嘘をついた。コーヒーの匂いが鼻腔に届いている。この事務所にいると、匂いがある。味覚もおそらく戻っている。理帆の体はすでに、この建物にも反応している。


「梶原さん、単刀直入に聞きます」


理帆は梶原の目を見た。梶原の瞳は黒くて、深くて、底が見えない。


「あの壁は何ですか。三百ミリの壁。過去の物件すべてに共通する構造。インフラサウンドを発生させる空洞。あれは何のためのものですか」


梶原は微笑んだ。否定しなかった。驚きもしなかった。まるでこの質問をずっと待っていたかのように、椅子の背にもたれ、理帆を見た。怒りも焦りもなかった。拓海から告発の情報を受け取った人間の反応ではなかった。もっと深い場所から来る、静かな感情だった。


「やっぱりあなただったわ」


梶原が言った。


「気づく人は、たまにいるの。宮内くんもそうだった。でも正面から聞いてきた人は、あなたが初めて。みんな気づいても、聞かないの。聞けば答えが返ってくるのが怖いから。あなたは——聞きに来た」


梶原の微笑みの中に、理帆は複数の感情を見た。感嘆。安堵。そして——ほんの微かな、寂しさ。この人はずっと一人で抱えてきたのだ。壁の秘密を。父の死を。告解室の意味を。


——それも、操作の一部なのだろうか。理帆は自分の共感を疑った。梶原への同情が芽生えかけるたびに、それが梶原の計算なのか本心なのか分からなくなる。その区別のつかなさが、この人の最も恐ろしい部分だった。

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