第43話 善意の通報
三日後の水曜日、梶原から電話があった。
「久住さん、明日の午後、事務所に来てもらえるかしら。少し話がしたいの」
梶原の声は穏やかだった。いつもの梶原だった。けれど理帆の背筋に冷たいものが走った。
「何の話ですか」「現場のことよ。進捗の確認と、今後のスケジュール。それから——久住さんの体調のことも、少し心配していて」
体調。理帆は「分かりました」と答え、電話を切った。
体調を心配している。梶原が理帆の体調を心配する理由はひとつしかない。誰かが梶原に話したのだ。
拓海だ。
理帆はスマートフォンを取り出し、拓海に電話をかけた。三コールで出た。
「拓海、梶原さんに何か話した?」「……ああ」
拓海は否定しなかった。理帆は目を閉じた。
「理帆、怒るのは分かる。でも聞いてくれ。俺は理帆のためにやったんだ。梶原さんに連絡したのは昨日だ。理帆が思い込みで告発しようとしてること、誤解を解いてもらおうと思って。梶原さんも理帆のことを心配してたし。『久住さんが疲れているのは分かっています。少し休ませたほうがいいかもしれませんね』って」
「疲れている」。「休ませたほうがいい」。梶原の言葉が、拓海の口を通して理帆に届いた。梶原は理帆を「疲れている人」として処理しようとしている。精神的に不安定なスタッフ。思い込みで上司を疑っている。休ませれば落ち着く。そういう物語を、拓海の善意を使って構築した。
「拓海、あのクリアファイルの中身、梶原さんに話した?」「中身は見てないよ。ただ——理帆が梶原さんの設計に問題があると思ってること、告発しようとしてることは言った。梶原さんは驚いてたけど、怒ってはなかった。むしろ心配してた。『久住さんは真面目すぎるのかもしれないわね』って」
真面目すぎる。壁の声を聴く人間を「真面目すぎる」と評する。梶原の言葉選びは完璧だった。
「拓海」「うん」「もう連絡しないで」
沈黙があった。
「理帆——」「お願い。しばらく一人にして」
電話を切った。
理帆はソファに座ったまま、天井を見ていた。暗い部屋。電気はつけていない。九月の夜。窓の外で虫が鳴いている。虫の声が聞こえる。匂いはしないが、音は聞こえる。壁が奪ったのは嗅覚と味覚だ。聴覚は——むしろ鋭くなっている。壁の脈動を拾うために。
生きている人間は、誰も味方にならなかった。
拓海は善意で裏切った。小峰は善意で沈黙した。宮内は壊れた。三人とも悪人ではない。三人とも、自分の正しさの中で行動している。誰も間違っていない。誰も悪くない。けれど結果として、理帆は一人になった。
理帆は左手を見下ろした。暗い部屋の中で、左手が白く浮いていた。右手は闇に沈んでいるのに、左手だけが微かに光っている。壁と同じ色。壁の中にいる人たちの肌と、同じ色。
生きている人間は味方にならない。けれど死者は——壁の中にいる人たちは、理帆を呼んでいる。
理帆は目を閉じた。明日、梶原に会う。梶原の事務所に行く。梶原と、一対一で話す。拓海が教えてしまった以上、もう証拠を隠す意味はない。ならば正面からぶつかるしかない。
理帆はクリアファイルをバッグに入れた。二十ページの報告書。答えを聞く覚悟は、できていた。




