第42話 俺たちがどうにかできる話じゃない
翌日、ビルの五階で小峰と二人になった。
午後四時。施工業者が帰った後の旧事務室。窓の外は曇り空だった。小峰はデスクで施工記録の入力をしていた。理帆は隣のデスクに座り、クリアファイルを広げた。
ここでは——ビルの中では——空気に匂いがあった。コンクリートと金属と、微かに甘い残香。五階まで上がっても、404号室の匂いが漂っている。鼻腔が開いている。世界に輪郭がある。
「小峰くん、少し話を聞いてほしいんだけど」
理帆はすべてを話した。壁の構造。インフラサウンドのデータ。過去八件の物件の共通点。事故率の統計。マッチポンプの構図。佐々木健人のこと。宮内のこと。話し終えるまでに二十分かかった。小峰はほとんど口を挟まなかった。
「……で、久住さんはどうしたいんですか」
小峰の声は静かだった。いつもの軽い調子ではなかった。
「告発したい。建築士会に。梶原さんのやってることを止めたい」
小峰は椅子の背にもたれた。天井を見上げた。額に薄く汗が滲んでいた。
「久住さん、正直に言っていいっすか」「うん」「俺たちがどうにかできる話じゃなくないっすか」
理帆は黙った。
「インフラサウンドの話は分かります。データも見せてもらったし、壁の構造がおかしいのも分かる。でも、それを建築士会に持っていって、梶原さんを告発するって——俺、入社一年目っすよ。久住さんだってまだ三年目でしょ。梶原さんは業界で二十年やってる人です。建築雑誌にも載ってる。俺たちが何か言ったって、誰が信じるんすか」
小峰の言葉には、悪意がなかった。あるのは諦めに似た現実認識だった。
「久住さん、俺は久住さんの味方です。でも——すみません、正直に言います。俺、この仕事辞めたくないんです。梶原設計にいたいんです。梶原さんに楯突いて、辞めさせられたら、俺のキャリアは終わりです」
小峰は理帆の目を見ていた。申し訳なさそうな、けれど正直な目だった。嘘がない目。
「俺にできることがあったら言ってください。でも、告発に名前を連ねるのは——すみません。無理です」
理帆は頷いた。「分かった。ありがとう、正直に言ってくれて」
小峰は少しだけ安堵した顔をした。拓海と同じ顔だった。善意の人間が「何もしない」を選んだときの顔。理帆はその顔を二度見たことになる。三度目はないだろう。もう誰にも頼まない。
旧事務室を出た。廊下を歩いた。四階への階段を降りかけて、足を止めた。あの壁の方向から、かすかな振動が伝わってきた。壁の呼吸。吸って、吐いて。左手が温かかった。壁が近い。体が反応している。壁に触れたい。触れれば味覚が戻る。嗅覚が鮮明になる。今日まだ何も味わっていない体が、壁を求めている。
理帆は階段を降りず、エントランスに向かった。今日はもう壁に近づかない。エントランスを出た瞬間、世界から匂いが消えた。九月の湿った空気。金木犀が咲いているはずの季節。何も感じない。鼻腔が閉じた。体から壁の温もりが引いていく。左手だけが温かい。左手だけが、ビルの記憶を保持している。




