第41話 確実な証拠
九月の第三週。理帆は拓海を呼び出した。
二人が会うのは、あの夜以来だった。「何が問題なの」の夜。理帆が帰り、拓海が「ちゃんと聞きたい」とメッセージを送り、理帆が返信しなかった夜。その後、理帆から「話がある」と連絡した。拓海は「いつでもいいよ」と答えた。
日曜日の午後、拓海の部屋ではなく、駅前のカフェを選んだ。拓海の部屋にあった梶原の名刺を、もう一度見たくなかった。カフェの窓際の席で、理帆はアイスコーヒーのグラスを回していた。氷がカラカラと鳴った。
九月の午後。日差しはまだ強い。コーヒーを口に含んだ。味がしなかった。苦みも酸味も、氷が溶けた水の冷たさだけが口腔に触れ、すぐに消えた。もう慣れていた。ビルの外では何を食べても何を飲んでも、味がない。カフェの空気にも匂いがない。コーヒーの香り。隣のテーブルから漂うケーキの甘さ。何もない。理帆の鼻腔は壁のある場所でしか開かない。
拓海が来た。向かいに座った。コーヒーを注文した。理帆の顔を見て、少し眉を寄せた。
「……痩せたな」
理帆は頷かなかった。痩せたことは知っている。鏡を見ればわかる。このひと月で三キロ落ちた。味のしない食事を、義務として口に運ぶ日が続いている。胃が受け付けるのは壁に触れた直後の数時間だけだった。壁に触れれば味が戻り、食欲が蘇り、体が食べ物を求める。けれどビルから離れれば、また味覚が閉じる。壁が理帆の食事すら管理している。
「拓海、梶原さんのことを告発しようと思ってる」
拓海の手が止まった。コーヒーカップを持ち上げかけた手が、テーブルの上で止まった。
「告発って」「建築士会に報告する。梶原設計の物件で、設計上の問題によって入居者に健康被害が出ている可能性があること。インフラサウンドのデータ、過去物件の事故率、壁の構造の共通点。全部まとめた」
理帆はバッグからクリアファイルを取り出し、テーブルに置いた。中には報告書の草稿が入っていた。二十ページ。データの表、グラフ、図面の比較、口コミの抜粋、佐々木健人の事故の記録。理帆が三ヶ月かけて集めた証拠のすべてだった。
拓海はクリアファイルに目を落とした。手を伸ばしかけて、止めた。触れたくないように見えた。
「理帆、ちょっと待ってくれ」「何を」「もう少し待ったほうがいい。確実な証拠が揃ってからにしよう」
理帆は拓海を見た。拓海の目は真剣だった。理帆を心配している目。けれどその心配が向いている先は、理帆の安全ではなかった。
「これが証拠だよ。インフラサウンドの測定データ。八件の物件の図面比較。事故率の統計。全部揃ってる」「揃ってるかもしれないけど、専門家の検証を受けてないだろ。理帆一人で集めたデータだ。建築士会に持っていっても、まず裏取りが入る。そのとき理帆の信頼性が問われる。一人の従業員が上司を告発するんだから——」
「待てば待つほど、あのビルにいる人に影響が出る。佐々木さんみたいな人がまた出るかもしれない」「だからこそ、確実にやらないと。中途半端に告発して潰されたら意味がない」
拓海は冷静だった。論理的だった。正しいことを言っているようにも聞こえた。
けれど理帆には分かった。拓海は止めようとしている。
「確実な証拠」を求め続ければ、いつまでも告発はできない。もう少しデータが要る。もう少し検証が必要。先延ばしの連鎖。それは助言ではない。善意の形をした妨害。拓海自身もそれに気づいていないかもしれない。けれど拓海の会社は梶原の物件を扱っている。告発が通れば、拓海の会社にも影響が出る。
理帆はクリアファイルをバッグに戻した。
「分かった」
拓海が安堵した顔をした。その安堵を見て、理帆の中で何かが静かに終わった。カフェの空気が、理帆にとってはただの無臭の空間だった。拓海の体温も、コーヒーの湯気も、何も感じない。この場所には壁がない。壁のない場所で、理帆はもう何も受け取れなくなっていた。拓海の言葉も、拓海の善意も。




