第40話 気づいてたのに
電話は四十分続いた。
最後に宮内は「すまなかった」と言った。何に対する謝罪なのか、理帆には分からなかった。気づいていて何もしなかったことへの謝罪か。理帆をビルに送り出したことへの謝罪か。それとも、こうして深夜に電話をかけて、理帆の眠りを壊したことへの謝罪か。
「宮内さん」「なんだ」「宮内さんのせいじゃないです。佐々木さんのことは」「……そう言ってくれるな。そう言われると、余計に辛い」
電話が切れた。
理帆はベッドの上で膝を抱えたまま、しばらく動けなかった。部屋は暗かった。カーテンの隙間から、街灯の光が細い線になって床に落ちている。
宮内が泣いていた。三年間、抱え込んでいたものが溢れ出していた。「気づいてたのに何もしなかった」。その一言に、宮内の三年間のすべてが詰まっていた。
……私も同じだ。
理帆は自分に向き合った。
佐々木健人は三年半前に死んだ。そのとき理帆は梶原設計に入社して半年だった。世田谷のマンションのリノベーションプロジェクトの存在は知っていた。完了報告のファイルを見た覚えがある。竣工写真が事務所の壁に飾られた。その後、入居者の事故のニュースを——聞いたことがあったか。分からない。聞いたかもしれない。聞いていたかもしれない。けれど理帆は関心を払わなかった。自分の担当ではなかったから。自分の仕事に集中していたから。
……見なかったことにしていた。
罪悪感が、胸の底でゆっくりと形を成した。宮内と同じだ。気づいてたのに何もしなかった。それが事実かどうかは分からない。分からないからこそ、罪悪感は曖昧な形のまま胸の中に居座り続ける。
朝が来た。カーテンの隙間から、白い光が差し込んできた。
理帆はベッドから降りた。洗面所で顔を洗った。鏡の中の自分を見た。目の下の隈が濃い。頬骨が浮いている。健人の最後の写真。宮内の疲弊した顔。そして鏡の中の理帆。三人の顔が重なった。両手を鏡の前にかざした。左手と右手の差が、朝の光の中で一層はっきりしていた。左手の指先は薄い乳白色。右手は通常の肌色。爪の付け根の灰色の線は、薬指から中指の根元にまで到達していた。一晩で進行した。壁に触れていないのに。体が壁の一部になる速度が、加速している。
スマートフォンを見た。宮内からのメッセージが一件。午前四時に送信されていた。
『昨夜はすまなかった。忘れてくれ。 でも一つだけ。 壁の中で泣いてる声が聞こえたら、それは助けを求めてる。 壁が呼んでるんじゃない。壁の中にいる人が呼んでるんだ。 二つの声を間違えるな。』
理帆はメッセージを三度読み返した。壁が呼んでいるのではない。壁の中にいる人が呼んでいる。二つの声。壁の「来て」と、壁の中の人の「助けて」。理帆はそれを混同していたのかもしれない。壁に引かれていると思っていた。けれど本当は、壁の中にいる人——佐々木健人や、名前も知らない他の誰かが、理帆に聞いてほしくて声を上げていたのかもしれない。
理帆はメッセージを閉じた。
窓を開けた。九月の朝。風が少しだけ涼しくなっていた。秋が近い。朝の空気に——匂いがなかった。通りを歩く人の香水も、隣家の朝食の匂いも、何も感じない。鼻腔が閉じている。ビルの壁に触れなければ開かない鼻腔。理帆は左手を開いて見つめた。温かくて、白い手。この手が壁に触れれば、世界に匂いが戻る。味が戻る。体の輪郭が鮮明になる。けれどその代わりに、この手はさらに壁に近づく。
「見なかったことにする」を、もうやめる。
それが何を意味するのか、理帆にはまだ完全には分かっていなかった。けれど宮内の涙と、節子の透明な目と、健人のアルバムの笑顔が、理帆を後ろから押していた。見て。聞いて。知って。そして——何かをして。
理帆は着替えて、家を出た。ビルに向かった。




