第39話 成功作
宮内はしばらく泣いていた。電話の向こうで、嗚咽が断続的に聞こえた。理帆は膝を抱えたまま、黙って聞いていた。宮内が泣き止むのを待った。
三分ほどして、宮内の呼吸が落ち着いた。鼻をすする音。咳払い。
「……すまん。取り乱した」「いいです」「まだ聞いてくれるか」「聞きます」
宮内は深く息を吸った。
「前に言ったな。俺は『柱』になれなかったって。あれの意味を、もう少し話す」
理帆は頷いた。電話だから見えないことは分かっていたが、頷いた。
「梶原さんは物件ごとに、担当者を選んでる。感受性が強い人間を。空間の異常に反応する人間を。俺は世田谷のマンションでそれに該当した。最初は嬉しかった。梶原さんに認められたと思った。特別扱いされてると思った」
理帆の胸が軋んだ。同じだった。梶原に「空間の変化に敏感ね」と言われたとき、理帆も嬉しかった。
「壁に手を当てたとき、脈動を感じた。お前と同じだ。最初は怖かった。でもそのうち——馴染んできた。壁の呼吸を聴くのが日課になった。現場に行くと、まず壁に手を当てる。それが挨拶みたいになった」
挨拶。理帆は自分も同じことをしかけていたことに気づいた。四階の壁の前を通るとき、手を伸ばしかける。もう「しかける」ではなかった。手を当てている。毎朝。壁に触れてから、一日が始まる。触れないと、体の輪郭がぼやけたままで、味覚が戻らない。
「でも、俺の体がもたなかった。三ヶ月で手の痺れが取れなくなった。耳鳴りが止まらなくなった。夜、眠れなくなった。壁の音が大きくなりすぎて。聴きたくないのに聴こえる。閉め出せない。壁が俺の中に入り込んで、出ていかなくなった」
佐々木健人の最後のSNS投稿が脳裏に浮かんだ。「壁の音が大きくなってきた」。宮内も同じ言葉を使っている。
「そのとき梶原さんが言ったんだ。『この建物は、あなたを喜んでいない。あなたは合わない』って。俺は現場から外された。別の業務に回された。それっきりだ。世田谷のマンションには二度と行かなかった。行けなかった」
宮内の声が少しだけ安定してきた。泣き終わった後の、澄んだ声。
「俺は『失敗作』だったんだ。壁と共鳴する感受性はあったが、壁に耐える強さがなかった。壁が俺を受け入れなかった。俺の体が壁に負けた」
「……宮内さんの手は、白くなりましたか」
理帆は聞いた。予定にない質問だった。けれど聞かなければならなかった。
「手? ……ああ。左手が、しばらく冷たかった。指先の感覚がなくなった。色は——白かったかもしれない。正直、あの頃はそこまで気にする余裕がなかった。なんで聞く」
「私の左手が、白いんです」
沈黙があった。長い沈黙。
「……どのくらい」
「指先から。爪の付け根に灰色の線が出ています。薬指まで広がっています。右手には出ていません」
宮内が息を吐いた。低い、長い息。
「俺のときは冷たかっただけだ。色までは変わらなかった。お前のほうが——深い」
「『成功作』は」
理帆は聞いた。聞きたくなかった。けれど聞かなければならなかった。
「お前だよ、久住」
宮内の声が静かだった。
「お前は壁に触って、脈動を感じて、二種類の脈動を聞き分けて、手の色が変わって、それでもまだ立ってる。俺はそこまでもたなかった。壁がお前を受け入れている。お前の体が壁に耐えている。——いや、耐えてるんじゃない。共鳴してる。壁と同じ周波数で振動し始めてる。そういう人間を、梶原さんはずっと探してた」
「柱」の意味が、少しだけ形を持ち始めた。壁と共鳴できる人間。壁の中の声を受信し、壁に自分の声を返せる人間。壁と同じ温度になれる人間。壁と同じ色になれる人間。
「お前があのビルに配属されたとき、梶原さんの顔を見たか」
理帆は考えた。覚えていない。配属の日、梶原は普段通りだった——と思う。
「俺は見た。梶原さんがあんなに喜んでるの、見たことなかった。目が光ってた。お前がビルに入って、最初のリアクションを見たとき——お前が空気の重さに反応して、廊下を見回したとき、梶原さんが微笑んだんだ。ほんの一瞬。すぐに消えた。でも俺には分かった。見つけた、っていう顔だった」
理帆は目を閉じた。初日。エントランスの空気。重くて、動かなくて、肺の底に沈む空気。あのとき理帆は確かに反応した。体が空間の異常を感じ取った。梶原はそれを見ていた。そして左手の冷えも——初日から。すべて見られていた。
「お前、気をつけろ。梶原さんがお前をあのビルに配属したのは、俺が駄目だったからだ。俺は合わなかった。でもお前は——お前は『合う』んだと思う」
宮内の声が、最後にもう一度震えた。
「あの人があんなに喜んでたの、見たことないんだ。十年一緒に働いて、一度も見たことない笑顔だったんだ。それが——怖い」




