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第38話 午前三時

電話が鳴ったのは、午前三時だった。


九月の第二週。理帆は浅い眠りの中にいた。壁の脈動が体の中で再生されていて、眠りと覚醒の境界が曖昧だった。吸って、吐いて。吸って、吐いて。ビルの壁のリズムが心拍に重なり、どちらが自分の鼓動か分からなくなる。そんな夜が続いていた。左手は布団の上に出ていた。布団の中に入れると温かすぎるのだ。左手だけが体の他の部分より一、二度高い。その温度差が布団の中で際立つ。


スマートフォンの振動で目が覚めた。画面を見た。宮内。画面の光が暗い部屋を照らした。その光の中で、理帆は自分の左手を見た。指先が白く浮き上がっていた。夜ごとに、白さが増している気がした。


「……もしもし」「久住か」


宮内の声は、理帆が知っている声ではなかった。低くて、掠れていて、音の輪郭がぼやけていた。酔っているのかと思った。けれど違った。酔っている人間の声にはどこかに弛緩がある。宮内の声には弛緩がなかった。張り詰めたまま、壊れかけている弦のような音だった。背後は静かだ。深夜の部屋の空気が、電話越しに伝わってくる。


「宮内さん、どうしたんですか。今——」「知ってるか。俺、休職した」


理帆は体を起こした。ベッドの上で背筋を伸ばした。暗い部屋の中で、スマートフォンの光だけが宮内の声を灯している。左手が、無意識に壁を探していた。ベッドのヘッドボードに触れた。木の表面。冷たい。壁のような温かさはない。指先が、木の下に脈動を探して、見つけられずに戻った。


「先週から。もう現場に出られなくなった。手が震えて。図面が読めなくなった。文字が揺れるんだ。線がまっすぐ見えない。水平線が傾いて見える。スケールを当てても、数字が信じられなくなった。三百ミリが三百ミリに見えない」


水平線が傾く。理帆が最初にビルで感じた「傾き」と同じだ。水平器は水平を示すのに、体が傾く。三百ミリの壁。あの壁の寸法すら信じられなくなっている。宮内はあれを三年間、抱えてきたのか。


「病院に行った。MRIも撮った。異常なしだと。体には何も問題ないと。精神科にも行った。適応障害だと。薬を出された。飲んでる。でも効かない。薬で治るのは脳の問題だ。俺の問題は脳じゃない。あのビルが——世田谷のマンションが、まだ俺の中にいる。三年経っても出ていかない。壁が俺の中に残ってる」


宮内の声が震えた。喫茶店で会ったときの、抑制された宮内とは別人だった。あのときはまだ表面を保っていた。今は表面が剥がれている。


「久住、聞いてくれ。今日、言わなきゃいけないことがある。前に会ったとき、全部は言えなかった。言う勇気がなかった。でも今夜——今夜は言える。朝になったら、また言えなくなる。朝になると、見なかったことにする力が戻ってきてしまうから」


理帆は黙って聞いていた。ベッドの上で膝を抱え、スマートフォンを耳に押し当てた。左手でスマートフォンを持っている。左手の温かさが、スマートフォンの背面に伝わっている。画面の端が微かに曇った。左手の体温が、機器にすら影響を及ぼし始めている。


「俺は気づいてた」


宮内の声が、一段低くなった。


「世田谷の物件のとき、気づいてた。壁の異常も、インフラサウンドも、入居者の体調不良も。お前より先に、全部気づいてた。気づいてて——何もしなかった」


沈黙。電話の向こうで、宮内が息を吸い込む音が聞こえた。


「梶原さんに報告した。報告して、『設計の呼吸』だと言われて、それで終わりにした。終わりにしたんだ。俺は。梶原さんの言葉を信じたんじゃない。信じたふりをしたんだ。信じたほうが楽だったから。そうすれば、俺は何もしなくていいから。考えなくていいから。壁のことも、音のことも、入居者のことも、全部梶原さんの責任にして、自分は手を引ける」


理帆の胸が痛んだ。信じたふりをした。見なかったことにした。六歳の理帆が母の嘘に合わせたのと同じだ。拓海の「たまたまじゃない?」に「そうかも」と答えたのと同じだ。宮内も——同じだった。


「それで——佐々木って男が死んだ」


宮内の声が割れた。泣いていた。


「世田谷のマンションで、入居者の男が屋上から飛んだ。俺が気づいてたのに。壁のことも、音のことも、全部知ってたのに。何もしなかった。梶原さんの言葉の後ろに隠れて、何もしなかった。あの男が死んだのは——俺のせいだ」


理帆は何も言えなかった。暗い部屋の中で、自分の左手が白く光っているのが見えた。佐々木健人も、こういう夜を過ごしていたのだろうか。暗い部屋で、白くなった手を見つめていたのだろうか。

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