第37話 見ないふり
帰り道、電車の中で窓に映る自分の顔を見ていた。
拓海の「何が問題なの」が、頭の中で繰り返されていた。あの言葉は拓海のものだった。けれど同時に、三ヶ月前の理帆のものでもあった。
このビルに来た最初の日。エントランスの重い空気を「古いビルだから」と流した。足音を「配管の音」と名づけた。冷気を「空調の問題」と片づけた。壁の脈動を感じたとき、手を離した。監視カメラの映像を見たとき、「不法侵入」と書いた。
理帆もずっと「何が問題なの」の側にいた。見なかったことにする。聞かなかったことにする。六歳の自分が身につけた技術を、二十年間磨き続けてきた。母の嘘に合わせた日から、理帆はずっと「合わせる」側の人間だった。拓海の「たまたまじゃない?」に「そうかも」と答えた。梶原の「設計の呼吸」に頷いた。宮内の警告を聞き流した。
……私は拓海を責められない。
拓海がやっていることは、理帆がずっとやってきたことと同じだ。目の前にある異常を、合理的な説明で覆い隠す。「入居率が高い」「アンケートは好評」「いい人だと思った」。数字と印象で真実を上書きする。理帆が「インフラサウンドで説明できる」と安堵したのと、構造は同じだった。そしてもうひとつ。理帆は拓海との関係の中でも「見ないふり」をしていた。
拓海が理帆の話を本当には聞いていないこと。拓海が理帆の恐怖を「疲労」に変換すること。拓海が理帆の世界に入ってこられないこと。それらすべてを、理帆は知っていた。知っていて、見なかったことにしていた。拓海の優しさの表面だけを受け取り、その下にある無理解を見ないようにしていた。
けれど今の理帆は、もう「合わせる」側に戻れなかった。壁の声を聞いてしまった。脈動を感じてしまった。佐々木節子の透明な目を見てしまった。健人のアルバムの写真を見てしまった。一度知ったことは、知らなかったことにはできない。
電車が駅に着いた。改札を出た。夜の空気が生温かった。九月の風。虫の声がどこかから聞こえていた。
自宅に着き、玄関の鍵を開け、靴を脱いだ。暗い部屋。電気をつけなかった。暗いまま、ソファに座った。
拓海の部屋にあった梶原の名刺を思い出した。白い名刺。上質な紙。梶原設計事務所。梶原は拓海に会った。拓海の感覚に触れた。拓海を「普通の側」に引き留めた。梶原にとって拓海は、理帆を「普通の側」に繋ぎ止めるアンカーだった。そのアンカーを取り込むことで、理帆の帰る場所を塞いだ。
……それとも、考えすぎだろうか。
拓海は不動産会社の営業だ。梶原設計の物件を扱うのは業務上の自然な流れかもしれない。食事に誘われたのも、ビジネス上の付き合いかもしれない。梶原が意図的に拓海に接触したのか、たまたま仕事で繋がったのか、理帆には判断できなかった。その判断できなさが、最も怖かった。陰謀なのか偶然なのか分からない。分からないまま、拓海を信じることも、疑うことも、どちらも選べない場所に理帆は立っている。
拓海が「おかしくなった」のか。拓海は最初からこういう人間で、理帆が「見なかったことにしていた」だけなのか。梶原の影が拓海を変えたのか。それとも拓海はもともと「何が問題なの」と言う人間で、理帆がそれを知りながら愛していたのか。どちらの答えも、理帆を傷つける。
答えは出なかった。
理帆は暗い部屋で、壁を見つめていた。自宅の壁。白いクロス。何も聞こえない。何も感じない。けれど今夜、この壁の向こうに拓海の部屋がないことが、理帆には寂しくなかった。寂しくないことが、一番悲しかった。
スマートフォンの画面が光った。拓海からのメッセージ。『さっきはごめん。理帆の話、ちゃんと聞きたい。今度ゆっくり話そう』
理帆はメッセージを読んだ。読んで、画面を暗くした。返信はしなかった。拓海は優しい。本当に優しい人だ。けれどその優しさは、壁の声が聞こえない人の優しさだった。理帆が必要としているのは、壁の声が聞こえる人の言葉だった。そしてそんな人は、梶原と宮内と——壁の中にいる死者だけだった。
暗い部屋で、理帆は左手を見た。暗くてもその白さが分かった。右手を横に並べた。明らかに色が違う。左手は月明かりの中で、壁のように白く光っていた。




