第36話 何が問題なの
洗面所から戻った理帆は、テーブルに座り直した。
パスタはまだ温かかった。フォークを手に取った。食べなければならない。普通に食べて、普通に話して、普通に帰らなければならない。パスタを口に運んだ。味がしなかった。トマトソースの酸味も、バジルの香りも、にんにくの辛みも。何も感じない。フォークの金属の感触だけが、口の中にある。……やっぱりだ。
拓海の部屋では味がしない。先月、ビールの味がしなかったのと同じだ。あのとき理帆は、安堵が味覚を取り戻したのだと思った。違った。壁に触れたときだけ味覚が戻る。壁のない場所では、味覚が消える。
パスタの味は——あのビルの壁に手を当てれば、今夜食べたパスタの味が、明日になって口の中に蘇るのだろう。壁が味覚を管理している。壁に触れなければ、理帆は何も味わえない体になりつつある。
理帆は黙ってパスタを食べた。味のないパスタを。拓海は「うまくできたろ」と笑った。「うん」と理帆は答えた。嘘だった。味が分からない。
「拓海、梶原設計の物件で、入居者が体調を崩すことがあるって聞いたことない?」
できるだけ軽い調子で聞いた。拓海はビールを飲み干しながら首を傾げた。
「体調? いや、聞かないな。入居者アンケートは概ね好評だよ。リノベーションのクオリティが高いって。窓が大きくて明るいとか、空間が使いやすいとか」
窓が大きくて明るい。竣工写真と同じだ。壁の中のものを隠す明るさ。
「ただ——」
拓海が少し考える顔をした。
「世田谷のマンションは、前に一件あったな。入居者が亡くなったって。でもそれはリノベーション前の話だし、事故物件だからそういう履歴はあるだろ」
リノベーション前ではない。リノベーション後だ。佐々木健人が亡くなったのは、梶原が「再生」した後だ。拓海は時系列を間違えている。間違えているのか、梶原にそう説明されたのか。
「拓海、あの人の物件で、リノベーション後にも事故が起きてるの。何件も」
理帆は言った。もう軽い調子ではなかった。
拓海の表情が変わった。笑顔が消え、少し困ったような顔になった。
「理帆、それって……前に言ってた話? 壁がどうとか、音がどうとか」「違う。データの話。過去の物件の入居者の精神疾患発症率が、周辺平均の三倍。リノベーション後の死亡事故が五件。物件の取得価格が異常に安い。マッチポンプなの。事故物件を作って、安く買って、また事故を起こさせてる」
拓海は黙って理帆を見ていた。しばらくして、ビールの缶をテーブルに置いた。
「理帆、それ、本当の話か?」「本当の話。自分で調べた」「でもさ、結果的に物件は再生されてるんだから、何が問題なの?」
理帆の胸の中で、何かが折れる音がした。
「入居率は高い。退去率は低い。内装のクオリティは高い。入居者のアンケートも好評。事故物件を使えるようにしてるわけだから、社会的にも意味があるだろ。事故が起きてるっていうけど、事故物件にはもともとそういうリスクがあるわけで——」
「人が死んでるの」
理帆は遮った。声が震えていた。
「佐々木健人っていう三十二歳の男の人が、屋上から飛び降りて死んだ。壁の声を聞いて、部屋から出られなくなって、最後に屋上から落ちた。その人のお母さんに会った。六十七歳の女の人。息子の写真を見せてくれた。笑ってる写真と、笑えなくなった写真。その人が死んだ建物を、梶原さんが設計した。その人の左手も——白かった」
最後の一言は、理帆自身も予期していなかった。口から出た瞬間、テーブルの下で左手を握りしめた。
拓海は何も言わなかった。テレビの野球中継の歓声だけが部屋に響いていた。
「……理帆、お前最近、ちょっとおかしいぞ」
拓海の声は優しかった。心配している声だった。けれどその優しさの下に、理帆は別のものを聞いた。距離。拓海が一歩引いている。理帆の言葉を、理帆の正気を疑い始めている。
「おかしいのは私じゃない」「分かってる。分かってるけど、壁の声とか、マッチポンプとか、そういう話を聞くと——」「信じてない」「信じてないんじゃなくて——」
拓海は言葉を探していた。理帆を傷つけないように、けれど本音を隠さないように。
「理帆がそう感じてるのは分かる。でも俺は梶原さんと会って、普通の人だと思った。むしろいい人だと思った。お前のことを本当に大切にしてるように見えた。そういう人が、人を殺すような設計をするってのは、俺にはちょっと……」
理帆は立ち上がった。バッグを手に取った。
「帰る」「理帆——」「ごめん。今日は帰る」
玄関で靴を履きながら、理帆の目に涙は出なかった。泣けなかった。昨夜あれだけ泣いたのに、今は涙が出ない。代わりに胸の中に、氷のように冷たい塊があった。
拓海が悪いのではない。拓海は普通の人だ。普通の感覚で、普通に判断している。梶原と会って、いい人だと思った。物件の入居率を見て、すごいと思った。それは正常な反応だ。
正常な世界にいる人間には、壁の中の声は聞こえない。




