第35話 名刺
九月に入った。
残暑が続いていた。ビルの中は相変わらず冷えている。外との温度差が体を混乱させる。エントランスを出ると汗が噴き出し、中に入ると汗が引く。理帆の体は二つの気候のあいだを行き来していた。けれど最近、ビルの外の暑さのほうが「異常」に感じるようになっていた。体の基準温度が、ビルの冷気のほうに寄っている。
拓海との関係も、二つの温度のあいだにあった。箱根の旅行は三度目の延期になっていた。会う頻度は月に二回程度にまで減っていた。電話はする。メッセージも送る。けれど会話の中身が薄くなっている。理帆はビルのことを話さない。拓海も聞かない。お互いに触れない領域が広がっていて、その領域の外側だけで言葉を交わしている。
九月最初の土曜日、拓海の部屋で夕食を食べた。拓海が作ったパスタ。トマトソースの匂いが部屋に広がっている——はずだった。拓海はキッチンでソースを煮詰めながら「いい匂いだろ」と笑った。理帆は頷いた。匂わなかった。鼻腔が何も拾わない。先月まではかすかに感じていた。今日は何もない。拓海の部屋の空気は、理帆の嗅覚にとって無臭の空間になっていた。
テレビがついていた。野球中継。理帆はソファに座りながら、自分の鼻腔の空白を意識していた。この部屋には匂いがない。いや、匂いはある。拓海は「いい匂い」と言った。ないのは理帆の嗅覚だ。壁のない空間で、理帆の鼻は機能を停止する。あのビルの中でなら——壁の近くでなら——匂いは鮮明に立ち上がる。菊の匂い。コンクリートの匂い。甘くて重い404号室の匂い。壁が理帆の嗅覚の鍵を握っている。
拓海のダイニングテーブルの上に、名刺入れが置いてあった。革製の名刺入れ。蓋が半分開いていて、中の名刺が見えている。理帆は何気なく目をやった。
一枚の名刺が、他の名刺より少しだけ飛び出していた。白い名刺。上質な紙。右下に小さなロゴ。見覚えのあるロゴだった。
梶原設計事務所。
理帆の箸が止まった。
「拓海、この名刺——」
拓海はテレビを見ながらビールを飲んでいた。「ん?」と理帆の視線を追い、名刺入れを見た。
「ああ、梶原さんの。先月もらった」「先月?」「うちの会社で扱ってる物件の件で、直接お会いしたんだ。食事もした。すごい人だな、梶原さん。話が面白いし、建築のことめちゃくちゃ詳しいし」
理帆の指先が冷えた。パスタの湯気が顔に当たっているのに、指先だけが凍えている。右手の指先。左手は——温かいままだった。左手だけは常に温かい。壁の温度を保存している手。
「食事って、いつ」「八月の頭。新宿のイタリアンで。梶原さんが誘ってくれてさ。理帆の仕事ぶりをすごく褒めてた。『久住さんは大切なスタッフです。彼女のパートナーにお会いしたいと思っていました』って」
理帆はフォークをテーブルに置いた。右手の指先が白くなっていた。寒さのせいではない。
「……梶原さんが、拓海に会いたいと言ったの?」「そう。嬉しくない? 理帆のこと認めてくれてるってことだろ」
拓海は笑っていた。屈託のない笑い方だった。何もおかしいと思っていない。梶原に食事に誘われたことを、パートナーとして誇りに思っている。理帆はその笑顔を見ながら、腹の底が冷えていくのを感じた。
「なんで教えてくれなかったの」「え?」「八月の頭って、一ヶ月以上前じゃん。なんで言わなかったの」
拓海は少しだけ間を置いた。
「言おうと思ってたんだけど、最近理帆忙しそうだったし、ビルのことで頭いっぱいみたいだったから。タイミングが合わなかっただけだよ」
タイミングが合わなかった。嘘ではないだろう。拓海にとっては些細な出来事だったのだ。仕事で取引先の関係者と食事をした。それだけのこと。拓海にとっては。
「拓海の会社で、梶原設計の物件を扱ってるの?」「うん。三件くらいかな。世田谷のマンションと、中央区のオフィスビルと、もうひとつ。全部リノベーション物件。梶原さんがうちに声かけてくれたんだ。入居率が高いんだよ、梶原設計の物件は。事故物件なのに。すごくない?」
入居率が高い。事故物件なのに。……そうだろう。壁がインフラサウンドで人を誘い込む。「ここが自分の場所だ」と思わせる。入居したら出たくなくなる。入居率は上がる。退去率は下がる。そして人が壊れていく。数字は嘘をつかない。入居率という数字の裏に、何人の人間が壊れたかを、数字は語らない。
理帆は立ち上がった。
「どうした?」「トイレ」
洗面所に入り、鍵をかけた。鏡の中の自分を見た。顔色が悪かった。頬骨が浮いている。目の下の影が濃い。両手を鏡の前にかざした。右手と左手。並べると違いは明らかだった。左手の指先が白い。爪の付け根の灰色の線が、小指から薬指まで広がっている。右手にはない。左手だけ。壁に馴染んだ手だけ。……梶原さんは拓海にも触っている。
梶原は理帆の周囲を固めている。仕事上の上司としてだけでなく、恋人を通じて、私生活にまで手を伸ばしている。拓海の会社が梶原の物件を扱っている。拓海は梶原と食事をした。梶原の話を「面白い」と思った。梶原の物件を「すごい」と思った。理帆の安全地帯に、梶原の影が入り込んでいた。




