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第34話 鏡像

翌日、ビルに行かなかった。


初めてだった。体調が悪いわけではない。仕事を休む連絡もしなかった。ただ、行けなかった。昨夜の記憶が、まだ体の中にあった。行けなかった——もうひとつの理由があった。ビルに行けば壁に触れる。壁に触れれば左手が温かくなる。味覚が戻る。匂いが鮮明になる。体が完全になる。そしてまた少し、左手が白くなる。爪の灰色の線が伸びる。壁の一部になっていく。今日だけは、その進行を止めたかった。


午後、自宅のソファに座って天井を見ていたとき、梶原のことを考えた。


梶原の過去のインタビュー記事を読んだことがある。建築雑誌の小さな記事だった。「事故物件リノベーションの第一人者」という見出しで、梶原の経歴が簡潔にまとめられていた。記事の中に、一行だけ、梶原の私的な背景に触れた箇所があった。


「幼少期に父を亡くした経験が、建物と人の関係に関心を持つきっかけになったという」


理帆はその一行を読んだとき、何も感じなかった。建築家が個人的な経験を動機にするのは珍しくない。けれど今、その一行が新しい意味を帯びて蘇った。


幼少期に父を亡くした。自宅で。


……梶原さんも、同じだ。


梶原もまた、家の中で人の死に触れた子供だった。建物の中で、死が起きた。壁の向こうで、誰かがいなくなった。理帆と同じだ。隣の部屋と自分の家という違いはあるが、構造は同じだ。建物の中の死を、子供の体で受け止めた。


理帆は「見なかったことにする」を選んだ。記憶を封印し、壁の声を無視し、二十年間背を向けて生きてきた。梶原は——壁に向き合うことを選んだ。建物と死の関係を研究し、事故物件に特化した設計者になった。壁の声を聴くのではなく、壁の声を設計するようになった。


鏡像だ、と理帆は思った。同じ原体験から、正反対の方向に歩いた二人。理帆は逃げ、梶原は近づいた。理帆は壁を避け、梶原は壁を作った。


そして梶原は理帆を採用した。


面接でポートフォリオを見せたとき、梶原は「この窓の配置、面白いわね」と言った。理帆の空間感覚を認めた。「空間の変化に敏感ね」。「大切な資質よ」。あのとき梶原が見ていたのは、理帆の建築士としての能力ではなかった。理帆の体質を見ていたのだ。建物の壁に反応する体質。六歳のとき団地の廊下で壁の声を聴いた体質。壁と共鳴できる体質。左手が壁に向かって伸びる体質。


……梶原さんは知っていた。最初から。


梶原自身が同じ体質を持っている。父の死んだ家の壁で、幼い梶原も何かを聴いたのだろう。その経験が梶原を建築家にし、壁の中に「声の柱」を設計する人間にした。そして梶原は、同じ体質を持つ人間を探している。物件ごとに。「柱」になれる人間を。壁の声を聴き、壁と共鳴し、壁に取り込まれていく人間を。宮内はそれに耐えられなかった。佐々木健人は耐えられず、屋上から落ちた。


理帆は——まだ耐えている。まだ壁の外側にいる。けれど壁の声は日に日に近くなっている。自宅にいても聞こえるようになった。体が周波数を記憶し、再生している。左手は壁を離れても壁の温度を保っている。もし梶原が理帆の体質を見抜いていたなら、面接の時点で理帆はすでに「柱の候補」だった。二年間の勤務は、テスト期間だったのかもしれない。そしてこのビルへの配属が、本番だった。


理帆はソファから立ち上がった。窓を開けた。八月の熱気が部屋に流れ込んだ。蝉の声。車の音。日常の音。


スマートフォンを取り出した。拓海の番号を表示した。


電話をかけたかった。「怖い」と言いたかった。「助けて」と言いたかった。二十年間、誰にも言えなかった言葉を、拓海に言いたかった。けれど理帆は知っていた。拓海に言っても、拓海には分からない。壁の声を聴いたことのない人間には、この恐怖は伝わらない。


「たまたまじゃない?」と言われるか、「疲れてるんだよ」と言われるか。理帆の恐怖を理解できる人間は、二人しかいなかった。梶原と、宮内。壁の声を聴いた者だけが、この孤独を分かち合える。


その構図自体が、罠だった。恐怖を共有できる相手が、恐怖の原因を作った人間と、恐怖に敗れた人間しかいない。理帆はどちらにも助けを求められない。


理帆はスマートフォンをテーブルに置いた。電話はかけなかった。


窓から見える空は青かった。八月の空。雲がゆっくり東に流れている。このビルにも、あのビルにも、同じ空が広がっている。壁の中にいる人たちには、空は見えない。


理帆は窓を閉めた。明日はビルに行く。行かなければならない。左手が温かかった。ビルのない日曜日なのに、左手だけが壁の温度を保っている。壁から二十四時間以上離れているのに。……行きたいから行くのか。行かなければならないから行くのか。もう分からない。

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