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第33話 聞かせないために

理帆はベッドから起き上がった。


深夜三時。キッチンに行き、水を飲んだ。コップを持つ左手が温かかった。水を注ぐ蛇口の金属に左手が触れたとき、金属が温かく感じた。右手で触ると冷たい。左手だけが、すべての表面を壁の温度で受け取っている。水が喉を通る音が、静かな部屋に響いた。冷たい水が胸の中に落ちていく感覚が、やけに鮮明だった。体の輪郭が、いつもより明確に感じられる。記憶が体を通り抜けた後の、剥き出しの感覚。


ソファに座り、壁を見つめた。自宅の壁。白いクロスが貼られた石膏ボードの壁。何も聞こえない。何も感じない。普通の壁だ。けれど二十年前、団地の壁は普通ではなかった。あの壁は——。


理帆は今、建築士の知識を持っている。六歳のときには理解できなかったことが、今なら分かる。あのマンションはRC造だった。鉄筋コンクリートの壁で隣戸が仕切られている。コンクリートの壁は音をよく伝える。隣室の振動が壁を通じて伝わることは、物理的に説明できる。けれど理帆が感じたのは音ではなかった。空気の震えですらなかった。壁そのものが何かを訴えていた。六歳の理帆にはその内容が分からなかった。ただ壁が「ある」ことだけが、異様な重さで胸に落ちてきた。


今なら分かる。あの壁は「告解」を収集していた。


隣の部屋で死んだ人の苦しみが、壁に染み込んでいた。コンクリートの壁が——あのビルの三百ミリの壁と同じように——死者の声を蓄えていた。壁の中に、声が残っていた。おとなりさんの声が、お引っ越しの後も、壁の向こうで震えていた。あの「こんにちは」と言ってくれた人。笑うと目尻に皺ができた人。その人の最後の苦しみが、壁の中にあった。


六歳の理帆に向かって、聞いてほしいと訴えていた。建物が、六歳の理帆にそれを聞かせようとしていた。そして六歳の理帆の左手は、壁に向かって伸びていた。今と同じように。二十年前から、左手は壁に向かっていた。


……だから母は目を覆った。


理帆の目から涙が落ちた。母は花を見せたくなかったのではない。壁の向こうからの声を、娘に聞かせたくなかったのだ。理帆が壁の声を聴いてしまうことを、母は本能的に知っていた。娘が壁に反応する体質を持っていることを、母は——もしかしたら言葉にはできないまま——感じ取っていた。目を覆えば壁が見えなくなる。見えなくなれば聞こえなくなる。母の手は、壁と娘のあいだに割り込んだ遮蔽物だった。


母の指が震えていたのは、恐怖だけではなかった。必死だったのだ。娘を壁から引き剥がすことに。あの爪が額に食い込む力は、母のすべてだった。左手が壁に触れそうになっていたことを、母は見ていたのかもしれない。


あの日の母は、宮内と同じことをしていた。「壁に触るな」。「あまり深入りするな」。壁の向こうにあるものから、理帆を遠ざけようとしていた。宮内は言葉で。母は手で。方法は違うが、意図は同じだった。


そして理帆は、あの日の母の手を——二十年かけて振り払った。


あのビルの壁に手を当てたとき、理帆は母の手のない世界に初めて足を踏み入れた。壁の声を遮る者がいない場所に。六歳の自分が聞こうとして聞けなかった声を、今の理帆は聴いている。脈動を感じている。壁の呼吸を受信している。左手は壁と同じ温度になり、壁と同じ色に近づいている。母が必死で切り離した接続を、理帆は自分から復元している。……母さんが守ろうとしたものを、私は自分から壊しに行っている。


涙が止まらなかった。声を出して泣いた。最後に声を出して泣いたのはいつだったか思い出せなかった。拓海の前では泣かなかった。梶原の前でも。宮内の前でも。誰の前でも泣かなかった。六歳のとき母の前で泣かなかったように。泣きながら、理帆はようやく正面から見つめていた。白い壁。花。母の手。振り返ることは許されなかった。あのとき理帆は振り返らなかった。


そしてそれ以来、ずっと振り返らずに生きてきた。見なかったことにして。気づかなかったふりをして。壁の声を無視して。建築士になったのは空間を理解したかったからだと思っていた。けれど本当は、あの壁の正体を知りたかったのかもしれない。六歳の自分が聞きかけた声の意味を、大人になった自分の知識で解読したかったのかもしれない。


けれど壁は、ずっと理帆を見ていた。

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