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第32話 母の指

花が置かれた四日目の朝。


母と一緒に廊下を歩いていた。幼稚園に行く途中だった。うわばきのつま先でタイルの目地をなぞりながら、線を踏まないように歩く遊びをしていた。左足、右足。乾いた音。母の手が背中にあった。急いでいるのに歩調を娘に合わせている、あの手のひら。朝の廊下は静かだった。


他の住人はもう出勤した時間だ。蛍光灯の光が白い壁を照らしている。どこまでも同じ色の壁。塗り直されたばかりの、つるりとした表面。理帆は壁の匂いが好きだった。ペンキの匂い。新しいものの匂い。——今なら分かる。あの「好き」は、壁への親和性の最初の兆候だったのかもしれない。


廊下の突き当たりに近づいたとき、母の手が変わった。背中から持ち上がり、理帆の目を覆った。


五本の指のあいだに、薄く光が差した。視界が肌色の縞模様になった。指の隙間から、菊の白が覗いている。花弁の先が茶色く縮れ始めていた。花束の根元から水が染み出して、コンクリートの床に小さな影を落としていた。菊の匂いが濃くなっていた。三日目の匂い。甘さの底にある、静かな層。その匂いを嗅いだ瞬間、理帆の左手がかすかに動いた。壁に向かって。


なぜ隠すのか分からなかった。花なら毎日見ている。昨日も一昨日も、この前を通った。


母の指先が震えていた。爪の先が額の皮膚に食い込むほど、強く。痛い、と思った。けれど痛いと言えなかった。母の指が震えていることのほうが、額の痛みより重かった。母は足を速めた。理帆の肩を抱き、廊下を早足で通り過ぎた。うわばきのゴム底がタイルを擦る音だけが響いた。


振り返ることは許されなかった。


——理帆はベッドの上で目を開けた。記憶が鮮明だった。二十年以上前のことが、昨日のことのように胸の中にある。けれどここからが、理帆がずっと封印していた部分だった。母が目を覆ったあの瞬間、理帆が本当に感じていたこと。


母が目を覆ったとき、理帆は花を見ていなかった。花ではなく、壁のほうを見ていた。


左側の壁——隣の部屋との境になっている壁が、かすかに動いた気がした。音はない。振動もない。目に見える変化は何もない。ただ、壁の奥に何かがいた。


壁が、こちらを見ていた。


母の手が目を覆っているのに、理帆には分かった。壁の向こうに、声にならない声がある。花の向こうに、まだ誰かがいる。聞こうとしなくても耳に届く、低い、低い、うねりのようなもの。それは音ではなかった。空気の震えですらなかった。壁そのものが、何かを訴えていた。おとなりさんの声だと、六歳の理帆は思った。お引っ越ししたはずのおとなりさんが、まだそこにいる。壁の向こうで、何か言っている。悲しい声。


助けを求めているのか、誰かに聞いてほしいのか。聞こうとすれば聞こえる気がした。あと少しだけ壁に近づけば。あと一歩だけ踏み出せば——。そのとき左手が動いた。母に覆われた目の下で、六歳の左手が壁に向かって伸びていた。指先が、壁の表面に触れそうになっていた。


母が理帆を引っ張った。強く。ほとんど引きずるように。左手が壁から引き離された。理帆はつまずきかけた。うわばきのゴム底がタイルに引っかかる感触。母は振り返らなかった。理帆も振り返れなかった。母の手の力が、言葉より強く「振り返るな」と言っていた。


その夜から、理帆は壁に近い側のベッドで眠れなくなった。壁に背中を向けると、壁の視線を感じた。見られている。六歳の言葉では説明できなかったが、体は分かっていた。母は何も聞かず、ベッドの位置を窓側に変えてくれた。


翌週、引っ越した。母は何も説明しなかった。「新しいお家だよ」と言っただけだった。理帆は「うん」と言った。うんと言って、それ以上聞かなかった。聞いてはいけないと分かっていた。母があの日の廊下を二度と歩きたくないことを、六歳の理帆は理解していた。


新しい家に移ってから、理帆は隣の部屋のことを忘れた。壁の声のことを忘れた。花のことを忘れた。忘れたのではない。記憶の底に沈めた。母がそうしたように。見なかったことにした。何もなかったことにした。それが理帆の「見ないふり」の起源だった。

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