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第31話 菊の匂い

夢を見た。


白い壁の夢。長い廊下。蛍光灯の光を吸い込んだ白い壁が、どこまでも同じ色で続いている。天井も白い。床のタイルだけが、薄い灰色をしている。うわばきを履いている。つま先がタイルの目地をなぞっている。左足、右足。線を踏まないように歩いている。目地のあいだに小さな砂粒が挟まっている。爪先で弾くと、乾いた音がする。タイルの冷たさが足の裏に伝わってくる。


母の手が背中にある。温かくて、少し湿っている。急いでいるのに歩調を合わせてくれている手のひら。買い物に行くときとは違う。病院に行くときとも違う。指先に迷いがある。行かなければならないけれど、行きたくない場所に向かっている手だった。


廊下の奥に、花があった。白い菊。


目が覚めた。


八月の深夜だった。エアコンの風が肌に当たっている。理帆は天井を見つめたまま、しばらく動けなかった。汗が額を流れている。心臓が速い。夢の残像が、瞼の裏に張りついている。エアコンのモーター音が低く唸っている。その低さが——ビルの壁の脈動を一瞬だけ思い出させた。白い壁。母の手。うわばき。菊の白。……あの廊下だ。


理帆は鼻腔の奥に残っている匂いに気づいた。菊の匂い。甘くて、少し重い匂い。夢の中の匂いが、目覚めた後も残っている。——この匂いだ。


佐々木家の玄関で嗅いだ匂い。そして404号室の匂い。三つの匂いが重なった。菊と、壁と、夢の廊下。すべて同じ匂いの変奏だった。死者のいる場所の匂い。花が供えられる場所と、声が閉じ込められる場所が、同じ匂いを放っている。


理帆は目を閉じた。記憶が、開こうとしている。二十年以上閉じ込めていた記憶の蓋が、ゆっくりと持ち上がっている。蓋を押さえていた重石が、この数ヶ月で少しずつ削り取られていた。壁の脈動。冷気。佐々木節子の家の仏壇。白い菊。あの花の匂いが、理帆の中の何かを叩いた。花の匂いではなく、花がある場所の記憶を。廊下と花と壁が結びついた記憶を。


マンションの廊下に、花があった。


理帆は六歳だった。母と二人で暮らしていた。東京郊外の団地。五階建ての四階。長い廊下の端から二番目の部屋。廊下は外に面していて、夏は風が通り、冬は冷えた。洗濯物を干す人がいて、自転車が並んでいて、夕方には夕飯の匂いが漂っていた。隣に住んでいたのは、独り暮らしの男性だった。名前は覚えていない。三十代くらいだったと思う。すれ違うと「こんにちは」と言ってくれた。声が小さい人だった。笑うと目尻に皺ができた。


理帆が「こんにちは」と返すと、少し嬉しそうにしていた。ときどき廊下で缶コーヒーを飲んでいた。理帆が通ると缶を持ち上げて、乾杯するみたいにしてくれた。六歳の理帆はそれが好きだった。ある時期から、その人を見なくなった。缶コーヒーの人がいない。廊下がその分だけ静かになった。


ある日、隣の部屋のドアの前に花が置かれた。白い菊と、セロファンに包まれた淡い花束。花の根元から水が染み出して、コンクリートの床に小さな影を落としていた。六歳の理帆には、花がそこにある理由が分からなかった。誰かの誕生日だろうかと思った。けれど大人たちの様子がおかしかった。


エレベーターの前で目を伏せる。廊下を早足で通り過ぎる。花の前を通るとき息を止める。誰も花に触らない。誰も花を片づけない。花弁の先が茶色く縮れ始めても、花束の根元から水が染み出して床に影を作っても、誰も手を出さない。三日。花の数は増えない。減りもしない。ただ少しずつ枯れていく。菊の甘い匂いが、日ごとに変わっていった。


最初は清潔な甘さだった。二日目には重さが混じった。三日目には、甘さの底に別の層があった。腐敗ではない。もっと静かなもの。花が水を失い、内部から何かを放出し始める匂い。その匂いを、六歳の理帆は嫌いではなかった。


三日目に、理帆は母に聞いた。「おとなりさん、お花もらったの?」


母の顔が変わった。表情が消えた。一瞬だけ、母の目が遠くなった。それから、理帆の髪を撫でて言った。「お引っ越ししたの」


嘘だと分かった。六歳でも分かった。お引っ越しした人のドアの前に、花は置かない。大人たちが息を止めて通り過ぎる場所は、お祝いの場所ではない。けれど理帆は「そうなんだ」と言った。母が怖い顔をしていたから。母を怖がらせたくなかったから。母の嘘に合わせることが、六歳の理帆にできる唯一の優しさだった。


それが「見なかったことにする」の始まりだった。

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