第30話 あの人だった
節子が立ち上がり、棚からアルバムを持ってきた。
「これが健人です。マンションに引っ越す前の写真」
理帆はアルバムを受け取った。ページをめくった。旅行の写真。友人との食事の写真。健人は笑顔の多い人だった。目元が柔らかく、頬にふっくらとした丸みがある。次のページ。マンション入居後の写真。半年後。頬の丸みが消えていた。目の下に影がある。けれどまだ笑っていた。
最後の写真。亡くなる一ヶ月前に撮られたもの。節子と二人で、近所のレストランで。健人は笑っていた。けれど目が笑っていなかった。頬骨が浮き出て、首が細くなっていた。宮内に似ている、と理帆は思った。あの疲弊した目。抵抗する力が尽きかけている目。写真の中の健人の左手がテーブルの上に置かれていた。右手よりわずかに白い。
理帆はアルバムのページを戻した。入居前の健人の顔を、もう一度見た。丸顔。柔らかい目元。全身がぼんやりと——。手が止まった。
全身がぼんやりと白っぽく映っている。
監視カメラの映像だった。404号室の前に二時間立ち続けた人影。画質が粗く、顔は判別できない。全身がぼんやりと白っぽく映っている。あの人影の体格。丸みを帯びた肩。やや猫背の立ち姿。
目の前のアルバムの中の健人と——。
……あの人だ。
理帆はアルバムを膝の上に置いたまま、動けなかった。監視カメラの映像が脳裏に再生される。午前二時十四分。404号室の前に立つ人影。二時間、微動だにせず。そしてフェードアウトするように消えた。あれは佐々木健人だった。世田谷のマンションで壁の声を聞き、「ここが自分の場所」だと言い、屋上から落ちた人。その人が、死んだ後もあのビルの404号室の前に立っていた。……なぜ。このビルにいるの。世田谷のマンションで亡くなった人が、なぜこのビルに。
答えは、壁の中にあった。三百ミリの壁。すべての物件に共通する構造。壁が繋がっている。物理的にではなく、何か別の次元で。梶原が設計した壁の中の空洞が、物件と物件をつなぐ回路になっている。声の柱。健人の声——健人の苦しみは、世田谷の壁に吸い込まれ、回路を通じてこのビルの壁にも流れ込んでいる。
「久住さん?」
節子の声で我に返った。理帆は顔を上げた。
「すみません。息子さんの写真を見て……少し」「似ている人がいましたか」
節子は静かに聞いた。理帆は少し迷って、答えた。
「はい。仕事先のビルで……見かけた人に、似ていました」
嘘ではなかった。監視カメラの映像の中で、見かけた。生きている人ではなかったけれど。
帰り道、理帆はビルに寄った。
寄るつもりはなかった。駅に向かっていたのに、気づいたら足がビルに向かっていた。日曜日の夕方。誰もいない。鍵を使って中に入り、四階に上がった。あの壁の前に立った。左手を当てた。
壁が温かかった。左手と同じ温度。壁に触れた瞬間、口の中に味が広がった。何の味でもない。ただ味覚という感覚そのものが、スイッチが入ったように鮮明になった。午後に節子の家で飲んだお茶の味が、今になって口腔の奥に蘇った。玄関の菊の匂いが、鼻腔に戻ってきた。あの甘い匂い。——あの甘い匂い。404号室の匂いと同じだ。菊の匂いと、壁の匂いが、同じ成分を含んでいる。花と壁。死者への供え物と、死者を収容する構造物。
脈動があった。いつもの呼吸。吸って、吐いて。けれど今日は、もうひとつの音があった。脈動の合間に、別の振動。前に感じた不規則な脈動——「触るな」の声とは違う。もっと細い振動。かすかで、途切れがちで、弱々しい。
泣いている。
壁の中で、誰かが泣いている。
理帆は壁に耳を当てた。コンクリートの冷たさが右の頬に触れた——冷たかった。左の掌は温かいのに、右の頬は冷たい。壁は理帆の右半身には冷たく、左半身には温かい。左半身だけが壁に受け入れられている。目を閉じた。泣き声の輪郭が、少しだけ鮮明になった。声ではない。音ですらない。けれど悲しみの振動が、壁を通じて理帆の骨に伝わってくる。
……健人さん?
返事はなかった。泣き声は止まらなかった。壁の奥から、三年半前に壁に吸い込まれた悲しみが、まだ震えていた。
理帆は壁から顔を離した。頬にコンクリートの粉が付いていた。右頬は冷たかった。左手は温かかった。階段を降り、ビルを出た。八月の夕暮れ。蝉の声。夕焼けがビルの壁を橙色に染めている。あのビルの窓ガラスにも夕日が映っていた。一瞬だけ、窓が温かく見えた。
帰りの電車で、理帆は窓に映る自分の顔を見た。頬の肉が落ちていた。目の下に影がある。……健人さんの、最後の写真に似てきている。
理帆は左手を上げ、窓に映る自分の手を見た。電車の照明の下で、左手の指先が右手より白く見えた。爪の付け根の灰色の線が、両手を並べると明らかに違っていた。
理帆はその事実を受け止めた。受け止めて、目を閉じた。電車の振動が、壁の脈動と同じリズムで体を揺らしていた。




