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第29話 息子の変化

佐々木健人の母親に連絡を取ったのは、八月の第三週だった。


SNSのアカウントに残されたプロフィールから辿り、健人の実家の住所を特定した。手紙を書いた。建築士として事故物件のリノベーションに携わっていること、息子さんが入居していたマンションの調査をしていること、もしお時間があれば話を聞かせていただきたいこと。三日後に電話があった。佐々木節子。六十七歳。声は落ち着いていたが、薄い膜を一枚隔てたような響きがあった。大切なものを仕舞い込んでいる人の声だった。


土曜日の午後、健人が育った家を訪ねた。世田谷の住宅街にある二階建ての一軒家。玄関に花が置いてあった。白い菊。仏花だ。玄関で靴を脱ぐとき、理帆は足を止めた。菊の匂い。甘くて、少し重い匂い。どこかで嗅いだことがある。——どこで。この匂いの記憶が、理帆の中の何かを叩いた。404号室の匂いとは違う。もっと古い記憶。もっと奥にある場所の匂い。思い出せなかった。白い花弁の甘さだけが、鼻腔の奥に残った。


居間に通された。仏壇の前にテーブルがあり、お茶が用意されていた。仏壇の写真の中で、三十代の男性が笑っていた。目元が柔らかい人だった。


「健人のことを聞きたいと、お手紙にありましたね」


節子は膝の上で手を組んでいた。


「息子さんがマンションに入居されてからの変化について、教えていただけますか」


節子は少し考えるように目を伏せ、それから話し始めた。


「最初は残業が増えただけだと思いました。新しい部署に異動したばかりで、忙しいのだろうと。電話しても元気そうでしたし。ただ——入居して三ヶ月くらいから、電話の声が変わりました」「どのように」「遅くなったんです。話すテンポが。言葉を選んでいるというよりも、言葉が出てくるまでに時間がかかるようになった。それと、会話の途中で黙ることが増えました。こちらが話している最中に、ふっと意識が別の場所に行く感じ」


理帆はノートにペンを走らせながら、自分の手が微かに震えていることに気づいた。会話の途中で意識が別の場所に行く。理帆にも覚えがあった。拓海と話しているとき、ビルのことを考えている自分。ここにいるのに、ここにいない。


「半年くらいで、眠れなくなったと言いました。夜中に目が覚める。耳鳴りがすると」「耳鳴り」「低い音だと言っていました。ずっと鳴っている。けれど病院に行っても異常はないと言われたそうです」


低い音。十八・七ヘルツ。人間の可聴域の下限を僅かに上回る周波数。聞こえるか聞こえないかの境界。健人はそれを「耳鳴り」と認識していた。


「そのあと、独り言が増えました。電話をしていると、私に話しかけているのか、独り言なのか分からなくなることがありました。あとで聞くと、『ごめん、部屋と話してた』って」


部屋と話していた。壁が話しかけてくる。理帆はペンを置いた。


「最後の——亡くなる一ヶ月くらい前、健人が言ったんです。『あの部屋にいると落ち着く』って。会社を休んで、ずっと部屋にいると。私が心配して『実家に帰ってきなさい』と言ったら、少し怒ったんです。健人が私に怒ることなんて、それまでほとんどなかったのに。『ここが俺の場所なんだ』って」


ここが自分の場所。口コミサイトに書かれていた言葉と同じだった。


節子の目に涙はなかった。泣き尽くした後の、透明な目だった。三年半のあいだに、何度この話をしたのだろう。何度この記憶を辿り直したのだろう。


「最後に会ったのは、亡くなる二週間前でした。痩せていました。目の下に隈がありました。でも笑っていました。『大丈夫だよ』って。あの笑い方が——」


節子は言葉を切った。お茶を一口飲んだ。湯飲みを置く手が、かすかに震えていた。


「大丈夫じゃない人の、大丈夫という顔でした」


理帆は手帳を見下ろした。書き留めた言葉の列。残業が増えた。眠れなくなった。独り言が増えた。部屋にいると落ち着く。ここが自分の場所。怒り。痩せた。隈。笑っていた。大丈夫。……私と同じだ。順番まで同じだ。理帆は自分の変化を振り返った。あのビルに通い始めてからの三ヶ月。最初は残業が増えた。次に眠れなくなった。壁に話しかけるようにはなっていないが——手を当てている。脈動を聴いている。ビルにいると落ち着く、とまでは思っていないが——ビルにいると味覚が戻る。匂いが鮮明になる。体の感覚が完全になる。ビルから離れることが、体の感覚を失うことと同義になりつつある。段階がひとつずつ、ずれて重なっている。健人より遅いペースで、同じ道を歩いている。


「佐々木さん、ひとつだけ教えてください。息子さんは、マンションの壁を触ることがありましたか」


節子は少し驚いた顔をした。


「ありました。最後のほうは、壁に手を当てて目を閉じているのを見ました。何をしているの、と聞いたら、『聞いてるんだよ』と。何を聞いているのとは、怖くて聞けませんでした」


理帆は膝の上で手帳を閉じた。左手の指先を見た。爪の付け根の灰色がかった線。朝は薄かった。今、少しだけ濃くなっている気がした。壁に触れていないのに。このビルにも、あのビルにも、壁のない佐々木家の居間にいるのに。


「もうひとつ——息子さんの手に、何か変化はありませんでしたか」


節子は首を傾げた。


「手……。そういえば、最後のほうは手が白かったです。血の気がないというのか、冷え性なのかと思いましたけど。片方だけ——左手だけ」


理帆は右手で左手を握った。温かい左手。白くなりつつある左手。健人も同じだった。左手だけ。

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