第28話 壁が話しかけてくる
口コミサイトの書き込みを辿っていったのは、八月の第二週だった。
小峰が見つけた不動産口コミサイトに、理帆は何度もアクセスしていた。梶原設計が手がけた物件の口コミ。夜、自宅のベッドの中でスマートフォンの画面をスクロールする。そのほとんどは短い感想文だった。「きれいになった」「日当たりが良い」「駅から近い」。リノベーション後の印象を、一行か二行で書いたもの。けれどいくつかの書き込みは、違う色をしていた。
「夜になると壁から音がする。管理会社に言ったが原因不明」「四階は近づきたくない。理由は分からないけど、体が拒否する」「このビルにいると、ここから出たくなくなる。最初は居心地がいいのかと思ったけど、違う」
理帆はこれらの書き込みを読むたびに、自分の日記を読んでいるような感覚に陥った。見知らぬ人間が、理帆と同じことを感じていた。同じ壁の前で、同じ冷気に包まれ、同じ衝動に引かれていた。この人たちは今、どうしているのだろう。壁の声から離れられたのだろうか。
世田谷のマンションの口コミに、ひとつだけ長い書き込みがあった。投稿日は四年前。ハンドルネームは「kento_s」。
「入居して半年。最近、壁が話しかけてくる気がする。最初は水道管の音だと思ってた。でも違う。声だ。何を言ってるかは分からない。でも聞いてると落ち着く。おかしいのは分かってる。でもここにいると、他のどこよりも安心する。ここが自分の場所だって思う」
理帆は画面を見つめたまま、しばらく動けなかった。「壁が話しかけてくる」。「聞いてると落ち着く」。「ここが自分の場所」。理帆が壁に手を当てたとき感じた脈動。あの「来て」の声。そしてビルから離れたくないという引力。この人も同じだった。同じ段階を踏んでいた。同じ順番で、同じ場所に向かっていた。
kento_sの他の書き込みを探した。不動産サイトには一件しかなかったが、ハンドルネームで検索すると、SNSのアカウントが見つかった。本名は佐々木健人。三十二歳。会社員。世田谷のマンションに入居していた。プロフィール写真は、友人との食事の様子。笑顔。目元が柔らかい人だった。アカウントの最後の投稿は三年半前だった。「最近眠れない。でも会社は休めない。壁の音が大きくなってきた」。それ以降、更新は止まっていた。止まったまま、三年半。
理帆はニュースアーカイブを検索した。佐々木健人。世田谷。マンション。検索結果の一覧が表示された。指がスクロールを止めた。記事が出た。三年半前の地域ニュースの短い記事。
「世田谷区のマンションで、入居者の男性(32)が屋上から転落し死亡。自殺とみられる」
五行の記事だった。名前は伏せられていた。年齢と性別と、死に方だけが書かれていた。五行。三十二年間生きた人間の死が、五行で片づけられていた。
理帆はラップトップの画面を閉じた。目を閉じた。佐々木健人。三十二歳。壁の声を聞いていた人。ここが自分の場所だと思っていた人。そして、屋上から落ちた人。
画面に映っていた口コミの文字が、瞼の裏で形を変えた。「壁が話しかけてくる」。その言葉を打ち込んだ指がある。画面を見ていた目がある。声を聞いていた耳がある。キーボードの前に座っていた体がある。その体が屋上の縁に立ち、落ちた。壁の声が「ここが自分の場所だ」と思わせ、そのまま建物の最上部から地面に返した。建物が人を抱き込み、建物が人を手放した。それはデータではなかった。人だった。
理帆はベッドに横になった。天井を見ていた。白い天井。安全な天井。けれど理帆の頭の中には、佐々木健人の最後の投稿が繰り返されていた。「壁の音が大きくなってきた」。大きくなった音は、最後にどうなったのか。もう聞こえなくなったのか。それとも、音の中に入っていったのか。




