第27話 養分
その夜、理帆は自宅のテーブルに集めたデータを広げていた。
表計算ソフトの数字。過去の入居者の口コミ。物件の取得価格。事故の記録。そして、リノベーション後の事故間隔の推移。グラフにすると、パターンはさらに明確だった。
最初の事故の後、二年から三年の空白期間がある。その期間中、入居者の体調不良の報告は減少する。建物が「落ち着いている」時期。そして三年を過ぎると、再び体調不良の報告が増え始め、やがて事故が起きる。
壁の中にある何かが、人の苦しみを吸い取っている。吸い取って、しばらくは満たされる。そしてまた空腹になる。梶原はそのサイクルを知っている。知った上で、壁を設計し、空洞を残し、人を住まわせている。……養分。
理帆は自分がその言葉を使ったことに気づき、吐き気がした。人の苦しみを養分と呼んでいる。建物を生き物のように語っている。けれどデータがそれを示している。
数字は感情を持たない。数字は嘘をつかない。そして数字が語っている物語は、建物が人の精神を蝕み、その苦しみで何かを養っているという、理帆が最も認めたくない真実だった。
スマートフォンが鳴った。梶原からだった。
「久住さん、明日の打ち合わせの件で確認したいことがあるの。今、少しいい?」
梶原の声は穏やかだった。いつもの梶原だ。知的で、落ち着いていて、理帆を安心させる声。この声に、理帆はずっと守られてきた。この声が「大切な資質よ」と言ってくれた。今、理帆の目の前には、この声の持ち主が設計した建物で起きた五件の死亡事故のデータがある。
「はい、大丈夫です」
理帆は普通に答えた。声が震えていないか確認した。震えていなかった。普通に打ち合わせの話をした。来週の施工業者との日程調整。四階の配管工事のスケジュール。壁の断熱改修の見積もり。梶原の声を聞きながら、理帆はテーブルの上のデータに目を落としていた。
死亡件数:五。
その数字の上に、梶原の穏やかな声が重なっている。この声が「大切な資質よ」と言った。この声の持ち主のもとで、人が死んでいる。
壁の断熱改修。梶原はあの壁を「改修する」と言っている。本当に改修するのか。空洞を埋めるのか。それとも——空洞を残したまま、表面だけを新しくするのか。聞くべきだった。
「あの壁の空洞はどうしますか」と。けれど理帆は聞けなかった。聞けば、梶原は答えるだろう。美しい言葉で、合理的な説明で。「設計の呼吸」だと。そしてその答えを聞いた自分が、また信じてしまうかもしれないことが怖かった。梶原の言葉には、理帆の判断を溶かす力がある。
「久住さん、最近よく頑張ってるわね。このプロジェクト、あなたがいないと回らないわ」
電話の最後に、梶原がそう言った。理帆の胸が——温かくなりかけた。反射的に。条件反射のように。褒められると温かくなる。梶原に認められると安心する。二年間かけて刷り込まれた反応が、まだ体に残っている。……まだ効いている。この人の言葉が、まだ私に効いている。
電話を切った後、理帆は画面に戻った。データを見つめた。
宮内は「柱になれなかった」と言った。梶原は物件ごとに「柱」を探している。感じやすい人間を。空間の変化に反応する人間を。
理帆は過去八件の物件それぞれについて、梶原設計のスタッフの異動記録を調べた。入退社のタイミング。各物件の担当者。あった。どの物件にも、リノベーション開始時に採用され、完了後一年以内に退職した人間がいる。名前はすべて違う。在籍期間は一年半から二年。理帆と同じだ。
……私の前にも、「柱」の候補がいた。そしてみんな消えた。
理帆はラップトップを閉じた。部屋の照明が目に刺さった。白い天井。正しい高さ。安全な部屋。けれどもうこの部屋は安全ではなかった。安全だと感じられなくなっていた。どこにいても、あのビルの壁が理帆を引いている。データの中に、あのビルの心拍が聞こえる。数字の列が、壁の中の脈動と同じリズムで並んでいる。
理帆は布団に入った。目を閉じた。
暗闇の中で、壁の呼吸が聞こえた。吸って、吐いて。吸って、吐いて。ここは自宅だ。壁はない。けれど聞こえる。体が記憶している。あの周波数を、体が再生している。
左手だけが温かかった。布団の中で、左手だけが。右手は体温通りの温度なのに、左手は一度か二度高い。壁の温度を保存している。体が、あの壁の一部になりつつある。眠れなかった。




