第26話 余分な二分間
月曜日、ビルの階段を上っていた。
三階から四階へ。いつもの非常階段だ。コンクリートの壁に囲まれた、薄暗い空間。蛍光灯が踊り場ごとに一本。靴音が壁に反響する。八月の外気は三十五度を超えているが、階段室の中は涼しい。涼しいのか、冷たいのか。最近はその区別がつかなくなっていた。あの甘くて重い匂いが、階段室にも漂っている。
以前は四階でしか感じなかった匂いが、今は建物全体に薄く広がっている。あるいは理帆の嗅覚が、どこにいてもその匂いだけを拾い上げるようになっている。三階の踊り場を通過した。図面にない扉が、壁と同じ灰色で沈黙している。その扉を横目に見ながら、階段を上った。一段、二段、三段。踊り場。折り返し。一段、二段、三段。足元を見ていた。靴と階段のコンクリート。いつもの視界。いつもの手すりの手触り。何も変わらない。
四階の防火扉を開けた。
廊下に出た。蛍光灯の光。リノリウムの床。見慣れた四階の廊下——。理帆は足を止めた。
壁の掲示板に、紙が貼ってある。「3F」と手書きで書かれた案内図だった。三階のフロア案内。
……三階?
理帆は振り返った。防火扉の横に階数表示がある。「3」。三階だった。
三階から上がったのに、三階にいる。
理帆は時計を見た。八時四十二分。三階の踊り場を通過したのは——時計は見ていなかったが、いつもなら一分もかからない。踊り場から四階の防火扉まで、階段を二十段上がるだけだ。けれど体感では、もっと長く歩いていた。二分。いや、もっとかもしれない。階段の段数を数えていなかった。いつもと同じように上がった。同じリズムで、同じ速度で。ただ、着いた先が違った。
理帆はもう一度階段に戻った。三階の踊り場。灰色の扉。階段を上がる。一段ずつ、今度は数えながら。一、二、三、四、五、六、七、八、九、十、十一、十二、十三、十四。踊り場。折り返す。一、二、三、四、五、六、七、八、九、十、十一、十二、十三、十四。防火扉。開ける。四階だった。「4」の表示。四階の廊下。
二十八段。いつもと同じ段数で、今度は正しい階に着いた。
さっきは何段上がったのか。数えていなかった。体の記憶では、同じだけ上がったはずだった。同じ段数、同じリズム、同じ時間——けれど違う階に着いた。……余分な二分間、私はどこを歩いていたのか。
三階と四階のあいだに、もうひとつの階がある。ある、わけがない。建物の構造上、階と階のあいだに空間は存在しない。スラブとスラブのあいだには配管や配線が通る天井裏があるだけだ。人が歩ける空間はない。けれど理帆は歩いた。二分間、どこかを歩いた。三階から出発して三階に着くまでの、余分な二分間を。
科学では説明できなかった。インフラサウンドでも、空間設計のトリックでも。
理帆は四階の廊下に立ったまま、自分の靴を見下ろした。靴底に、何かが付着していた。しゃがみ込んで確認した。白い粉。コンクリートの粉末。踊り場の壁は塗装されたコンクリートだが、この白さは新しいコンクリートの粉に見えた。まるで、まだ乾ききっていない壁のそばを歩いたかのような。
……あの二分間、壁の中にいた?
理帆は靴底の粉を指先で擦り取った。左手で。白い粉が指に残った。親指と人差し指で擦ると、きめ細かい粒子が崩れた。新しいコンクリートの粉末。壊れかけの古いコンクリートの粉とは感触が違う。これは打設して間もない、まだ水分を含んだコンクリートの粉だ。
……証拠だ。体がどこか別の場所を歩いた証拠。科学の層の外側にあるもの。データでは捕捉できない層。あの余分な二分間に、理帆の足は確かにどこかを踏みしめていた。そしてそのどこかは、まだ作られている最中の場所だった。壁の中で、何かが成長している。
左手の指先に白い粉が残っていた。左手の肌の色と、粉の色が、ほとんど同じだった。先日、壁に触れた後に左手が白くなったことを思い出した。あのときは十秒で戻った。今、粉の下の左手の肌は——少しだけ白かった。指先だけ。爪の付け根の灰色がかった線が、前より長くなっている。もう見間違いではなかった。
建物が意志を持っている。理帆を招き入れ、迷わせ、戻した。戻してくれた。あの「触るな」の脈動——警告の声が、理帆を正しい階段に引き戻したのかもしれない。
だとすれば、建物の中には二つの意志がある。理帆を壁の中に引き込もうとする意志と、理帆を壁の外に押し出す意志。そして今のところ、押し出す側が勝っている。今のところは。




