第25話 数字が語ること
八月に入っていた。
理帆は自宅のダイニングテーブルで、ラップトップに向かっていた。画面には表計算ソフトが開かれている。梶原設計が手がけた過去八件の物件について、入居後のデータを集めていた。不動産登記簿、事故物件情報サイト、保健所の公開データ、ニュースアーカイブ。使えるものはすべて使った。平日は現場の仕事があるから、調査は夜と週末に限られた。
拓海との箱根旅行はまた延期した。「来月にしよう」と理帆は言った。拓海は「分かった」と答えた。それだけだった。以前なら「大丈夫?」と聞いてくれた。最近は聞かなくなった。聞いても理帆が本当のことを言わないと分かったのだろう。
表計算ソフトの列に、数字を入力していく。物件名。竣工年。梶原設計によるリノベーション年。リノベーション後の入居者数。入居者のうち精神疾患を発症した人数。事故件数。死亡件数。一件ずつ、慎重にデータを確認しながら入力した。
情報源が曖昧なものは除外した。噂や推測は入れない。公的記録と報道記事だけを使う。感情ではなく事実で語らせる。ゼネコン時代に叩き込まれた習慣が、今になって役に立っていた。
数字を並べ終えたとき、理帆は椅子の背に体を預けた。
……おかしい。
梶原設計が「再生」した物件の入居者における精神疾患の発症率は、周辺地域の平均の三倍を超えていた。不眠、鬱、パニック障害。診断名は様々だが、発症時期はほとんどが入居後六ヶ月以内に集中している。
事故率はさらに顕著だった。転落、急性心不全、自殺。八件の物件で、リノベーション後に発生した死亡事故は合計五件。築年数と規模が同等の一般的なビルやマンションと比較すると、有意に高い数字だった。ただし——パターンがあった。
事故と事故のあいだに間隔がある。最初の事故はリノベーション完了から一年から一年半後に起きている。次の事故は、さらに二年から三年後。間隔が長くなっている。まるで——。……満腹になっている。
理帆は自分の思考に震えた。建物が人を食べて、満腹になって、次の食事までの間隔が延びている。馬鹿な。建物は食べない。建物に意志はない。けれどデータはそう語っていた。事故の間隔が規則的に延びている。偶然ではない。偶然にしては、あまりにもパターンが美しすぎた。
もうひとつ、気になる数字があった。物件の取得価格だ。梶原設計が物件を取得する際の価格が、市場価格を大幅に下回っていた。事故物件だから安いのは当然だ。けれど安すぎる。市場価格の四割から五割。通常の事故物件の値引き率を考慮しても、異常に安い。なぜこれほど安く取得できるのか。答えは理帆の手元のデータの中にあった。
梶原が「再生」した物件で事故が起きる。物件の資産価値がさらに下がる。所有者は手放したくなる。そこに梶原が再び現れ、安値で取得する。「再生」する。また事故が起きる。また安くなる。……マッチポンプだ。
火をつけて、消火して、また火をつける。事故物件を作り、再生し、また事故を起こさせる。そのサイクルの中で、梶原は物件を安く手に入れ、リノベーション費用を上乗せして転売する。ビジネスモデルとしては完璧だった。
冷徹で、合理的で、隙がない。……梶原さんらしい。その思考が浮かんだこと自体が、理帆を震えさせた。梶原の手法に「らしさ」を感じている。合理的で無駄がないことに、設計者としての一貫性を認めてしまっている。尊敬していた人間の方法論が、人の命を消費するシステムだったと分かっても、なお「らしい」と感じる自分が怖かった。
けれど梶原は壁の空洞を残している。インフラサウンドを止めていない。動線を修正していない。「再生」後も人は体調を崩し、事故が起きる。梶原はそれを知っている。知った上で、壁を残している。
理帆はラップトップの画面を閉じた。テーブルの上に額を伏せた。目を閉じると、数字の列が瞼の裏に浮かんだ。発症率。事故率。死亡件数。取得価格。……梶原さんは人を殺している。設計で。
左手がテーブルの表面に触れていた。温かかった。いつも温かい左手。壁と同じ温度になった手。テーブルの木の表面に触れていても、指先が壁の記憶を再生している。木の表面の下に脈動を探している。ない。ここには壁はない。それなのに左手だけが、何かを探し続けている。




