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第24話 柱になれなかった

金曜日の夜、宮内から連絡が来た。


『話がある。明日、会えるか』


理帆は「はい」と返した。これまでの宮内なら、仕事の話は事務所でする。休日に個人的に会いたいというのは初めてだった。


土曜日の昼、駅前のチェーンの喫茶店で落ち合った。宮内はすでに座っていた。ブラックコーヒーが目の前にある。湯気は立っていなかった。だいぶ前から来ていたのだろう。理帆が向かいに座ると、宮内は少しだけ笑った。疲れた笑い方だった。頬骨の下の影が深い。首筋に、神社の御守りの紐が見えていた。


喫茶店の空気は軽かった。エアコンの風と、コーヒーの匂いと、他の客の会話。理帆は自分が無意識に壁を探していることに気づいた。この喫茶店の壁は薄い石膏ボードだ。脈動はない。匂いもない。壁の向こうには配管と断熱材と隣のテナントがあるだけだ。コーヒーを一口飲んだ。味がしなかった。


「久住、お前はインフラサウンドを見つけた。すごいと思う」


唐突な切り出しだった。理帆は黙って頷いた。


「俺も気づいてた。あの壁のことも、音のことも」


宮内はコーヒーカップを両手で包んだ。冷めたコーヒーから温もりを得ようとする仕草だった。七月の午後に、寒そうに見えた。


「前に言いかけただろ。『このビル、前の担当のときもこうだった』って。あれは本当だ。三年前、世田谷のマンションを担当した。あのときも同じことが起きた。壁の振動。足音。冷気。視界の端の影。俺は梶原さんに報告した。そしたら——」


宮内は一度口を閉じた。コーヒーを一口飲んだ。喉仏が動いた。


「『設計の呼吸よ』って言われた。お前と同じだ。同じ言葉で、同じ説明を受けた」


理帆は黙っていた。知っていた。昨日、ファイルを見た。けれど宮内の口から聞くのとは重さが違った。


「俺はそれを信じた。信じたかったから。梶原さんは尊敬してたし、この仕事にやりがいを感じてた。でも世田谷の物件が終わったあと、体調を崩した。眠れなくなった。耳鳴りが止まらなくなった。壁に触れた手の痺れが、一ヶ月経っても消えなかった」


宮内の右手がテーブルの上に置かれていた。指先がかすかに震えている。三年前の痺れがまだ残っているのか、それとも今この瞬間の緊張なのか。理帆は自分の左手を見た。温かい左手。壁と同じ温度になる左手。宮内は壁に触れた痺れが一ヶ月消えなかったと言った。理帆の左手はもう痺れていない。痺れを通り越して、馴染んでいる。宮内より、もう一段階深い場所にいる。


「そのとき梶原さんが言ったんだ。変なことを」


宮内は理帆の目を見た。


「『この建物は、あなたを喜んでいない』って。『あなたは合わない』って」


理帆は眉を寄せた。建物が人を喜ぶ。人が建物に「合う」「合わない」。それは設計の話ではない。もっと——。


「意味が分からなかった。でも今なら分かる」


宮内の声が低くなった。周囲の客の会話が遠くなった。喫茶店のBGMが薄れた。宮内の言葉だけが、理帆の耳に直接届いた。


「俺は『柱』になれなかったんだ」


柱。理帆は繰り返した。「柱」。建築用語としての柱ではない。宮内の声のトーンが、その言葉に別の意味を込めていた。


「何の柱ですか」「分からない。分からないが、梶原さんはそれを探している。物件ごとに、誰かを。感じやすい人間を。空間の変化に反応する人間を。俺はダメだった。体を壊した。だから梶原さんは俺を現場から外した。最近現場に来ないのはそのせいだ。お前を——」


宮内は言葉を切った。コーヒーカップを持ち上げ、また置いた。


「お前を見つけてからは、俺はもう必要ないんだ」


……私を。


理帆の胸の中で、梶原の言葉が反響した。「空間の変化に敏感ね」。「大切な資質よ」。面接で「この窓の配置、面白いわね」と言われたとき感じた喜び。ゼネコンでは誰にも認められなかった自分を、梶原だけが認めてくれた。あの喜びの正体は何だったのか。理帆の感受性を認めたのではない。理帆の感受性を利用できると判断したのだ。


宮内は壁に触れた痺れが消えなかった。理帆は壁に馴染んだ。壁が理帆を受け入れた。宮内は「合わなかった」。理帆は——合っている。


「宮内さん、梶原さんの過去の物件、全部見ました。全部に同じ構造がありました」「知ってる」


宮内は短く答えた。


「だから言ったんだ。『図面をよく見て』って。俺が直接言えば、梶原さんに気づかれる。お前が自分で見つけるしかなかった」


宮内はポケットから煙草の箱を取り出し、また戻した。禁煙中なのかもしれない。指先がまだ震えていた。


「あまり深入りするなと言った。でもお前はもう深入りしてる。壁に触ったんだろう。脈動を感じたんだろう。二種類の」


理帆は頷いた。


「片方はお前を呼んでる。もう片方は止めようとしてる。止めてるほうの声が聞こえるうちは、まだ間に合う。聞こえなくなったら——」


宮内は言葉を切った。コーヒーカップの底を見つめていた。


「俺と同じになる」


理帆は黙っていた。宮内と同じ。体を壊し、壁から拒絶され、現場から外される。それが「間に合う」ということなのだ。宮内にとっては。けれど理帆の体は宮内と違う反応をしている。壁に拒絶されていない。むしろ——受け入れられている。左手が温かくなる。味覚が戻る。匂いが鮮明になる。壁が理帆に何かを返している。宮内には返さなかったものを。


喫茶店を出たのは午後三時だった。七月の日差しが目に刺さった。宮内は駅の改札で「気をつけろ」と言って、反対方向のホームに消えた。


背中が以前より小さく見えた。理帆は改札の前に立ったまま、しばらく動けなかった。人の流れが理帆を避けて通り過ぎていく。……梶原さんは、最初から私を選んでいた。面接のポートフォリオ。「面白いわね」。入社してからの二年間。そしてこの物件への配属。すべてが——。


理帆はスマートフォンを取り出した。梶原の連絡先を表示した。電話をかけるべきだと思った。問い詰めるべきだと思った。けれど指は画面に触れなかった。画面の上で、指が止まっている。聞いてしまったら、答えを受け取らなければならない。その答えが、理帆が知りたくないものだったら。前にも同じことを思った。


宮内のメッセージ『図面をよく見て』に返信しようとして、指を止めたとき。あのときと同じだ。聞けない。聞けば、もう戻れなくなる。


理帆はスマートフォンをポケットに戻した。改札を通り、ホームに降りた。電車を待った。吊り革を掴み、窓の外を見た。七月の街が流れていく。あのビルが、どこかの方向にある。見えないけれど、理帆の体はその方向を知っていた。左手が、かすかに温かくなった。ビルの方向を、手が指している。

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