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第23話 壁のシミ

翌日、理帆は出勤前にビルに寄った。


朝七時。現場の作業開始は九時だ。誰もいないビルに一人で入るのは、もう慣れていた。慣れていることの異常さにも、慣れていた。四階の廊下を歩き、あの壁の前に立った。三百ミリの壁。昨日、梶原の八件の物件すべてに同じ構造があることを知った。その知識が、壁の見え方を変えていた。


以前はこのビル固有の異常だった。今は、梶原という人間が意図的に作り出した構造物だ。理帆はスマートフォンを取り出し、壁の表面を撮影した。


以前から壁のコンクリートには薄い染みがあった。水漏れの跡だと思っていた。茶色がかった不定形の輪郭。警備室の壁にも似たような染みがあった。古いビルにはよくあること。先週も同じ場所を通ったが、カメラを向けたのは初めてだった。


撮影した画像を拡大した。染みの形を確認する。


……先週と違う。


理帆はスマートフォンのアルバムを遡った。先月、壁のクラックを記録したときに背景として映り込んでいた染みの画像がある。二枚を並べて比較した。染みの輪郭が変わっていた。先月は楕円に近い形だった。今は——何かに似ている。丸みを帯びた上部と、下に向かって細くなる形。


……顔?理帆は首を振った。パレイドリア。人間の脳は不定形のパターンに顔を見出す習性がある。雲やシミや木目に顔が見えるのは、脳の錯覚だ。けれど染みの形が変わっていることは事実だった。


水漏れが進行したのか。壁の内部の水分が、コンクリートの表面に滲み出す経路が変化したのか。あるいは、壁の内側にあるものが、表面に近づいてきているのか。


理帆は日付と時刻を記録し、正面からもう一枚撮影した。定点観測にする。毎日同じ角度から撮れば、変化を客観的に記録できる。科学的な手法だ。壁に近づいたとき、かすかに匂いを感じた。湿ったコンクリートの匂い。


それと——もうひとつ。あの甘い匂い。404号室の匂い。けれど今日はもうひとつ別の層があった。甘さの下に、塩のような匂い。汗に似ているが、もっと古い。長い時間をかけて壁の中に浸透した、人間の体液のような匂い。


理帆は一歩下がった。匂いは消えた。鼻の奥に残像だけが残った。あの匂いはインフラサウンドでは説明できない。音は匂わない。壁の染みが形を変えることも、超低周波音とは無関係だ。科学で説明できる層の外側に、別のものがある。理帆はそれを認めるしかなかった。


五階に上がり、旧事務室に入った。小峰がすでに来ていた。コンビニのコーヒーを片手に、スマートフォンを見ている。


「久住さん、おはようございます。あ、そうだ。昨日ネットで見たんですけど、このビルの口コミ」


「口コミ?」


「不動産サイトの。前の入居者が書いたやつ。『夜になると壁から音がする』『四階は近づきたくない』とか。


あと——『このビルにいると、ここから出たくなくなる』ってのもありました」


理帆の背筋が冷えた。「ここから出たくなくなる」。自分が感じていたことと同じだ。あのビルの引力は理帆だけのものではなかった。このビルにいた見知らぬ人間も、同じものに引かれていた。


「あと、別の物件のも見つけたんですよ。梶原設計がやった世田谷のマンション。そこの口コミにも似たようなこと書いてあって。『リノベーション後も何かが変わらない』『壁の近くにいると落ち着く、けど落ち着きすぎて怖い』って」


壁の近くにいると落ち着く。理帆は自分の左手を見た。壁に触れると温かくなる左手。壁の近くにいると味覚が戻り、匂いが鮮明になる体。


あの口コミを書いた人間も、同じことを経験していたのだ。壁が体の感覚を取り戻してくれるという錯覚——いや、事実。けれどそれは、壁が最初に奪ったものを返しているだけではないのか。


……梶原さんの物件は「再生」されていない。形を変えて、同じことが続いている。


「小峰くん、そのページのURL、送ってもらえる?」


「いいっすよ」


小峰はスマートフォンを操作した。理帆のスマートフォンにURLが届いた。

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