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うちの愛生ちゃん  作者: 横溝 啓介
1年2学期
121/125

芦ノ湖解禁

読んで下さる皆様、心より感謝致します。


ゆっくりと物語を進めますので、気長にお付き合い頂ければ幸いです。

二月下旬の市川家――リビングには、異様な緊張感が漂っていた。

原因は一人。市川明宏(中二)。

釣りに人生をかけかけている男である。


「……フッ」


タブレットの画面には、延々と流れる釣り動画。キャストフォーム、ルアーの軌道、水面のざわめき。

毎日。

毎日。

毎日。

イメージトレーニングに明け暮れてきた。

朝も見る。帰宅後も見る。風呂上がりにも見る。

もはや視聴履歴は、“おすすめ”が全てトラウト動画に侵食されるレベルである。

そして――

ついに、その日が迫ってきた。


次の日曜日。三月一日。

そう。

芦ノ湖、解禁。


「……来る」

静かに呟く明宏。


その瞳には、メラメラと情熱の炎。

(今年こそ……)

(ヒレピンのネイティブレインボー……)

(50アップ……!)

握りしめる拳。

その姿は、まるで獲物を狙う狩人――ではない。

ただの、本気すぎる釣り吉少年である。


「今年は違う……」

「今年の俺は、違う……」


去年も同じことを言っていた気がするが、本人は覚えていない。

脳内ではすでに。

キャスト――

ヒット――

ドラグ音――

銀色の魚体が水面を割る――完璧なシミュレーションが完成している。

一方その頃。リビングの隅では。


「……また釣り動画見てる」

愛生が呆れ顔。


「解禁前はああなるよね」

圭介は慣れた様子で苦笑する。


明宏の目は、確かに燃えている。しかしそれは狩人の目ではない。

ただの、釣り解禁前テンションMAX中学生の目である。

三月一日、午前五時。

市川家は早朝からバタつくことになる。それを、まだ誰も本当の意味で理解していなかった。


ハッハッハッハッハッ!!

市川家のリビングに、高らかな笑い声が響き渡る。

その笑いはもはや人間のそれではない。どこかの悪代官か、あるいは釣りバカ将軍である。


「圭介、どうしたにょん?」

花音が首をかしげる。

状況が一ミリも読めていない顔だ。


「あ、お兄ちゃん壊れた」

愛生、即断即決。


「兄者、その笑い……芦ノ湖解禁、策ありでござるな」

明宏、無駄に察しが良い。

すると圭介、ビシッと立ち上がり、どこからともなく武家モード。


「ひかえ〜! ひかえおろう!」

なぜか時代劇テンションである。


「愛生と明宏、ひかえぬか〜!」

「え、なんで私まで?」

「巻き添えでござるな」

「花音ちゃんはひかえなくていいからね」

一瞬で甘い。

花音だけ特別扱い。最近あからさまである。


そして圭介、胸元からスッと取り出したのは——

「この免許が目に入らぬか〜!!」

ダダーン!!

紋所のように掲げられたそれは——船舶免許。


明宏、ジーッと凝視。

「ヤッター! 圭ちゃん、船舶免許取ったんだ!」

「お兄ちゃん、これでアヒルさんやカモさんに抜かされなくなるね」

愛生、的確に過去をえぐる。


そう。去年の芦ノ湖。

手漕ぎボートでゼーゼー言いながらポイント移動する圭介を、スイスイ泳ぐカモが追い抜いていったあの日。

しかも二羽。並走。余裕のドヤ顔。


だが今年は違う。

「そうなのだ!!」

圭介、再び悪代官ボイス。

「今年からはエンジンボートに乗れるのだ!!」

ドヤァァァ。


花音、ぽかーん。

「なんのこっちゃにょん」

説明ゼロである。


「圭ちゃん、格好良すぎ」

明宏、全力で持ち上げる。もはや太鼓持ち。


「しかも〜、ジャジャン!!」

さらに取り出されたのは——

「魚探!!」

まだ箱に入った新品ピカピカ。

無駄に神々しい。


「どうだ。兄ちゃんやりましたって感じだろ?」

顔が完全に優勝者。


その瞬間。

「圭ちゃーーん!!」

明宏、感極まって突撃。 ガバッ。

「最高のお兄ちゃんだぜ!!」


成人男性、弟に抱きつかれる兄。

(……やっぱり、妹に抱きつかれる方が断然いいよな)

圭介、心の声が正直すぎる。


愛生は冷静に一言。

「お兄ちゃん、顔引きつってる」


花音は最後まで状況が飲み込めず、

「船が速くなるってことにょん?」

たぶんそれで合ってる。


「そっか〜、船が速くなっちゃうかもしれないね〜」

圭介、満面の笑み。声のトーン、三割増し。視線、花音ロックオン。

甘い。とにかく甘い。

砂糖を直接流し込んだレベルで甘い。


(あれ……?)

愛生の胸に、もやもやが発生する。

(なんか最近……花音ちゃん、ポジション強くない?)

可愛くて愛されキャラの妹ポジション。

それは長年、愛生が不動のセンターを務めてきた場所。


(わ、私だって……)

心の中で立ち上がるもう一人の愛生。

(私だって花音ちゃんに負けないくらい、超絶可愛いもん!)

無言のセルフ主張。


しかし現実は——

「花音ちゃんはひかえなくていいからね」

さっきの一言が脳内リピート。

ぐぬぬ。


その空気をぶった斬るように圭介が宣言する。

「よし、3月1日は男2人で初エンジンボート釣りだな」

バンッとテーブルを叩く。

「ラジャー!」

明宏、なぜか敬礼。完全に部隊。


すると。

「ちょっと待って、私も行く」

スッと前に出る愛生。


「えっ、愛生も行くの?」

圭介、ちょっと動揺。

「3月の芦ノ湖って、と〜っても寒いよ?」

声のトーンがやや現実的になる。


「私がいなきゃ、お兄ちゃんはな〜んにも出来ないから」

腕組み、ふん。

「仕方なくついて行ってあげる」

仕方なく、を強調。

しかし目はやる気満々。


圭介、心の声。

(はぁ〜、子守りが1人増えた……)

だが同時に、

(……でも、ちょっと嬉しい)

口元、ゆるむ。

その様子を見逃さない愛生。

(よし、まだ私のポジションは安泰)

小さくガッツポーズ。


圭介は花音の方を向く。

「花音ちゃんは来ないでね。物凄く寒いから」

再び激甘ボイス。


花音はぽやっと笑う。

「かにょんは暖かくなったら一緒に芦ノ湖いくにょん」

語尾、安定のにょん。

「そのときは船速くしてくれるにょん?」

「も、もちろん!」

即答。

条件反射。

愛生、ジト目。

(甘い……甘すぎる……)


明宏、横でぽつり。

「圭ちゃん、将来振り回されるタイプだな」

「うるさい」

こうして——

エンジンボートに浮かれる兄。

釣りに燃える弟。

ポジション死守に燃える妹。

そして何も分かっていない最強天然。


3月1日、芦ノ湖。

「そうと決まったら!」

明宏、ビシッと立ち上がる。

「お年玉でロッドとスプーン買いに行かなくちゃ!」

目がキラキラしている。

完全に少年アングラーの目だ。


すると圭介、急に現実的モード。

「3月4月は虹鱒の成魚放流期間だから、基本的に管釣りタックルで放流魚釣りだよ」

夢をバッサリ。


「えっ?」

明宏、固まる。


「放流から数年芦ノ湖で生き残った、つわ者鱒とか、天然繁殖の鱒とか狙うんじゃないの?」

目が完全にハンター。


しかし圭介、笑いながら肩をポン。

「無理無理。だって俺も明宏も芦ノ湖で鱒釣った事ないじゃん」

致命的事実。沈黙。

「……」

「……」

レジェンド級のネイティブ狙い以前の問題だった。


「だからエンジンボートと魚探買ったんでしょ?」

明宏、反論。


「魚探、まだ使った事ないし」

圭介、さらっと爆弾投下。

「使い方も解んないのに魚なんて探せないよ〜」

ドヤ顔で言うセリフではない。


「えっ、それじゃ管釣りと同じじゃん!」

明宏、ツッコミ炸裂。


確かに。湖というフィールドは壮大だが、やることは“放流ポイントでキャスト”。

「エンジンボートに乗るのも初めてだし、湖底図も全く解らないから、放流ポイントで釣りだな」

圭介、あっさり現実路線。


さっきまでの“ヒレピン50アップを獲る男”の面影はどこへ。

「そっか〜……仕方ないけど、今回は練習だね」

明宏、急に素直。


「そうだな」

圭介、うなずく。

静かに燃え直す二人。


まずは——芦ノ湖で一匹釣る。目標、急に現実的。

エンジンボートと魚探を装備しながら、やることは放流魚。

だがそれでいい。

なぜなら二人はまだ——

芦ノ湖初心者だからである。

そしてたぶん当日、

魚探より先にカモを探すことになる。


そして運命の3月1日。

解禁日の 芦ノ湖 に、市川家三きょうだい、堂々到着。

車の外気温計——

マイナス3度。


「……こりゃ寒いなぁ〜」

圭介、ハンドルを握りながら遠い目。


一方その頃、ぬくぬく助手席。愛生、もぞもぞと上着を脱ぎ始める。

取り出したのは——貼るカイロ。

ぺたっ(胸に2枚)ぺたぺた(お腹に2枚)ぺたぺたぺた(肩に2枚)

ぺたっ(お尻に2枚)ぺたぺた(太ももに2枚)

「お兄ちゃん、背中」

命令口調。ぺたっ、ぺたっ(背中に2枚追加)

——完成。

愛生、貼るカイロ・フルアーマー形態。

全身ぽかぽか。

見えないところでモコモコ。

しかもウェアは全身ピンク。

サンリオ女子、釣り場でも可愛さは譲らない。


それを見た明宏がぽつり。

「愛生ってさぁ……爆発反応装甲みたいで戦車みたい」


「戦車!?」

愛生、即反応。

「もっと可愛く言ってよ!」

ツンツン。

「じゃあ……ピンクの重装備うさぎ?」

「……うさぎなら許す」

基準が謎。


一方、明宏は抜かりない。

汗で発熱するインナー。

チェストタイプの防寒ビブパンツ。

波を被っても濡れない極寒仕様ジャケット。

きょうだいで一番お金をかけてもらえる末っ子。

その特権、遺憾なく発揮。完全にプロの湖上戦闘装備。


そして圭介。

「ジャジャーン!」

誇らしげに見せるのは電熱ベスト。

「源蔵さんと三郎さんが、1枚余ってるからってくれたんだ」

ドヤ顔。

しかし上に着ているのはホームセンターで購入した低価格防寒着。

長男は自分より弟妹優先。

だがその下で——

電熱ベスト、ぬくぬく作動中。

実は。源蔵 と 三郎 は二人でお金を出し合い、新品をこっそりプレゼントしたのだ。

「余ってたから」は優しさの嘘。

その代償は——

今後も鯵釣り、鯖釣りへの強制参加。断れない。

電熱ベストのスイッチを入れるたび、

圭介の心にも灯るのは——

義理と恩。

「……あったかい」

身体も立場も、ホカホカである。

ボート乗り場へ向かおうとしたその時。


「あ、愛生ちゃん。これ忘れてるよ」

圭介が差し出したのは——

靴に入れるインソールカイロ。


「あっ!」

愛生、ぱぁっと笑顔。

「お兄ちゃんありがとう」

ニコリ。


その破壊力、電熱ベスト以上。

愛生、すかさずブーツを脱いで装着。

胸2、腹2、肩2、尻2、太もも2、背中2、そして足裏2。

——完成。

貼るカイロ完全体・愛生。

歩くたび、ほんのり湯気が出そう。


「愛生ってさ、もう人間じゃなくて暖房器具だよね」

明宏が言う。


「可愛い防寒って言って」

ツン。

「ピンクの発熱うさぎ」

「うん、それならいい」

基準が甘い。


一方、明宏。

発熱インナー。発熱靴下。雪仕様フィッシングシューズ。装備は万全。


——だが。

「明宏、カイロは?」

「いらない。俺は装備で勝負」

ドヤ顔。

完全にギア信者。


愛生はふふんと胸を張る。

「寒くなったら言ってね。私、まだ予備あるから」

ポケットからチラリと見えるカイロの束。まさかのカイロ供給基地。

「歩く補給所だな」

「違う。可愛い補給所」


こうして——

・貼るカイロ完全武装の愛生

・カイロ無しギア全振り明宏

・友情電熱ベスト発動中の圭介

三者三様の防寒スタイルで、

マイナス3度の芦ノ湖へと挑むのだった。


くろさわボート で受付を済ませる圭介、愛生、明宏。

「放流ポイントはね、ここと、ここだよ」

近場の2点を教わり、いざ出港。

FRPの4人乗りボート。ルアーを投げても余裕のある広さ。

船尾には船外機。配置はこうだ。

船尾——船長・圭介。

船首——アンカー係・明宏。

真ん中——マスコット的キャラ・愛生。

「私は重要ポジションだからね」

「ただのセンターだろ」

「マスコットは大事」

そんなやり取りをしつつ、準備完了。


愛生と明宏が桟橋を押す。圭介、船外機を前進ギアに入れる——

……つもりが。


ガチャン。

船、すーっと後ろへ。

「うわぁ~!」

慌ててニュートラルへ戻す。

「ふぅ~……落ち着け、落ち着くのだ圭介」


深呼吸。免許取得後、初操船。焦ってはいけない。

船長は常に冷静でなければならない。

しかし。

風に流され、隣の桟橋がじわじわ近付いてくる。

すー……

「兄者、寄ってる」

「お兄ちゃん、大丈夫?」

明らかにパニックな兄を、じっと見つめる妹と弟。

(い、いかん……兄として格好悪すぎる)

圭介、内心大騒ぎ。

(そうだ……!)

後退ギアの反対に入れれば前進ギア。

理屈は簡単だ。


「よし、反対側にギアを入れるぞ」

ガチャン。

……前進。

船、すーっと前へ。

「進んだ……」

「進んだね」

「うん、進んだ」


ふう、と安堵。

ヒヤヒヤしながらも、なんとか回避成功。

そして気づく。


「あ、あれ……アイドリングで進むぞ」

確かに進んでいる。

(スロットル上げると恐いな……)


よし。

アイドリングのまま行こう。

超低速、だが確実。圭介は何事もなかったかのように、

「順調だな」

と、涼しい顔でニコリ。内心は心拍数急上昇。だが妹と弟にカッコ悪い姿は見せられない。

その一心で、桟橋地帯をそっと、そっと脱出する船長・圭介であった。

圭介はスロットルを——

そ〜っと。

本当にそ〜っと。

(おっかなびっくり)

じわ……っと船が加速する。

「おお……進んでる」


だが。真っすぐ進まない。

左へふらり。

右へふらり。

結果——見事な蛇行運転。

「カッコ悪いな……」

船長、自覚あり。

「やっぱり、お兄ちゃん不器用で運動神経ゼロだね」


愛生、痛恨のひと言。グサッ。

「ゼロは言い過ぎだろ」

「限りなくゼロ」

追撃。


その間にも、放流ポイントはすぐそこ。

多数の船が固まっている。

完全に“人気エリア”。


「圭ちゃん早く!」

明宏が急かす。

「分かってる!」

だが焦っても仕方ない。


——圭介は操船初心者なのだから。

船は左右にゆらゆらしながら、なんとか放流ポイントへ到着。

「ここ空いてるからアンカー入れてもいい?」

船首の明宏が聞く。

「よ、よし……やってみる」

しかし。

(アンカーってどうやって打つんだ?)一瞬フリーズ。とりあえず——

えいっ。

ぽちゃん。

適当にアンカー投入。

数秒後。


船、止まる。

「……止まった?」

「止まったな」

「止まったね」

奇跡。


圭介、内心ガッツポーズ。だが。

風がふわりと吹く。船、じわりと横へ。

「あれ?」

ポイント、少しズレる。

「……ずれてない?」

「ちょっとね」

何度も言うが——圭介は初心者。

風や流れを計算しながらアンカーを打てるほど、ベテランではない。

それでも。


「まあ……この辺でいいだろ」

とりあえず体裁を保つ船長。


愛生はぼそり。

「なんか今日ずっと“とりあえず”だね」


聞こえないふりをする圭介。こうして三きょうだいの解禁釣行は、

微妙にズレたポイントで、静かにスタートしたのであった。

周囲を見回すと——ぽつり、ぽつり。

「あ、あっち釣れた」

「こっちも上がってる」

チョコチョコ釣れている。

ある者は縦釣りで一匹。

ある者はフェザージグで一匹。

どう見ても——管釣りパターン。湖なのに。

だが明宏は、男のロマンを捨てない。

「俺はこれでいく」

10グラム、アワビ貼りスプーン。

キラリ。キャスト。ビシッ。ガンガン巻く。

速い。とにかく速い。


一方、愛生。

「私はこれ〜」

管釣り用クランクベイト。

ぽちゃん。

ゆっくり。

本当にゆっくり。

対照的すぎる。


そして圭介。

「……あれ?」

魚探のセッティングに悪戦苦闘。

振動子を手に、説明書をめくる。

「この“船底に設置”ってどういう意味だ……?」

湖上で取扱説明書熟読中。

三者三様。

ガンガン巻く明宏。

ゆっくり巻く愛生。

読書する圭介。


すると——

「きたっ!」

愛生にヒット。

小ぶりな虹鱒。

「わ〜い、わ〜い、釣れたよ〜」

満面の笑み。


明宏、ちらりと見る。

(小さいな……)

強がり。


明宏はすぐにミノーへチェンジ。

「これだ」

ツゥイッチ、ツゥイッチ。ガンガン。バシバシ。水面が騒がしい。

しかし——釣れない。


その間に。

「またきた〜」

愛生、二匹目。

しかもお気に入りのバッタさんルアー。

「また釣れちゃった」

小ぶりな虹鱒。


明宏の脳裏には、秋のウェイディングの記憶。

勇猛果敢にミノーへアタックしたブラウントラウト。

「バコッ!」

豪快な水しぶき。

あの衝撃。あの重み。だが現実。

隣でバッタルアーにコツンと掛かる虹鱒。

(これじゃあ……管釣りじゃないか)

湖で何をしているのか分からなくなる明宏。


その頃——

「よしっ!」

圭介、振動子を船の脇に吸盤でくっつけることに成功。

ぺたっ。

「映った!」

画面に何かしらの反応。詳細は不明。

だが映った。ガッツポーズ。


釣果。

愛生2匹。明宏0匹。圭介、魚探設置成功1件。

それぞれが、それぞれの戦いをしているのであった。

二匹釣り上げた愛生は、すっと竿を置いた。

「ふぅ、ひと仕事終わった〜」

持参したポットを取り出す。

コポコポ……

紅茶を注ぐ音がやけに優雅だ。

湖面には蒸気霧。静かに立ち上る白い靄。紅茶から立ち上る湯気。

ふう、ふう。

「きれい……」

うっとり。

完全にピクニック気分。二匹釣り上げた者の余裕である。


その横で。まだゼロの男が一人。明宏、無言。

ネイティブ用の硬いロッドを見つめる。

(……違うな)

持ち替えた。

管釣り用の柔らかいロッド。

「頼むぜ、ディープコラピー」

投げる。ゆっくり巻く。

投げる。ゆっくり巻く。

ロマンは一時封印。

すると——コツン。小さなアタリ。巻き合わせ。

ぐいっ。

「きた!」

上がってきたのは——小ぶりな虹鱒。


「やったな、芦ノ湖で最初の虹鱒じゃないか」

圭介、嬉しそう。


「良かったね明くん」

紅茶をすすりながら愛生。


そして圭介、思いつく。

「ネイティブレインボー、とうとう釣り上げたな」

放流直後だが。ここは芦ノ湖。芦ノ湖で釣れた。

ならば——ネイティブ。

ということにして、弟を満足させよう作戦。


しかし。

「中学生だからって誤魔化さないでよ」

即バレ。

「昨日放流したってボート屋のオバチャン言ってたじゃん」

ぐうの音も出ない。

「放流から数年経ってる流線型のヒレピンか、天然繁殖の姫鱒じゃないとネイティブとは言わないよ」

理論武装、完璧。

「子供扱いしないでよね。寺ノ沢先生から色々教えてもらってるんだよ」


鱒釣り部顧問、寺ノ沢先生。上級者。

その知識を仕込まれた明宏に、理屈で完敗する兄。

「……そうか」

圭介、静かに敗北。


湖上に漂うのは、紅茶の香りと兄のプライドの残り香。

その横で愛生は、

「紅茶おかわりいる?」

と、完全に勝者の余裕であった。

「ねぇ、明くん。ネイティブ基準、厳し過ぎないかい?」

圭介、半笑い。半泣き。


明宏、即答。

「ダメだよ。釣りは男のロマンなんだから。ハードルは高いんだよ」

きっぱり。


その目は、やたらと遠くを見ている。まだ一匹しか釣ってないのに。

「いやいやいや」

圭介、両手を振る。

「放流期間が終わったらさ、ヒレピンだろうがヒレボロだろうがネイティブトラウトでいいじゃん」

必死。

「ハードルそんな上げたら、いつ釣れるか解んないしさ」


そして極めつけ。

「姫鱒なんて、それ何? 俺も明宏も見たこともない鱒じゃない?」

ため息。湖面に溶ける兄の現実論。


しかし明宏、首を横に振る。

「ダメ。夢は高く」

どこから来るそのストイックさ

兄は生活感。弟は理想主義。

その差、約三十センチの身長差と同じくらい。

圭介、無言で足元の魚探にしゃがみ込む。

スイッチ、オン。ピッ。

画面、ぱあっと明るくなる。

謎の線。謎の数字。謎の反応。

「よし、魚探完了」

どや顔。三秒後。

(……見方、解んないけど)

画面に映るのは魚か、藻か、それとも自分の希望か。


明宏、ちらりと見る。

「それ、地形じゃない?」

「え?」

圭介、ズームをいじる。

線がぐにゃぐにゃ動く。

「おお、動いた。釣れる気がしてきた」

完全に雰囲気。


愛生、紅茶をすすりながら一言。

「お兄ちゃん、まず説明書読んだら?」


湖上。理想と現実と取扱説明書が、静かに波に揺れていた。

魚探から、ピー。ピー、ピー。

突然の電子音。

「なに!? 爆発予告!?」

圭介、びくっ。

「お兄ちゃん落ち着いて」

愛生、説明書をぱらぱら。

二人して、真顔で解読タイム。


その横で——ぐいっ。

「よし、もう一匹」

明宏、二匹目の虹鱒。

静かにネットイン。

船の操船?魚探の設定?説明書?

(そういうのは兄と姉の担当)

末っ子、完全分業制。自分は投げるだけ。

それが一番効率的だと、ちゃんと解っている。


ピー、ピー。

「あっ、この音、フィッシュアラームだって」

愛生、指さす。

「魚がいると音で教えてくれるんだよ」

「へーそうなんだ」

圭介、画面を覗き込む。

「じゃあ船の下には虹鱒がいっぱい居るって事なんだね」


単純明快。夢ひろがる。

さっそく二人、フェザージグを真下に落とす。

チョン。チョンチョン。ぐいっ。

「え、釣れた」

また、ぐいっ。

「また?」

ほぼ即反応。

「管釣りみたいで楽しいね」

愛生、にこにこ。

「そうだな、管釣り船バージョンだな」

圭介、うなずく。湖上でチョンチョン釣り。

横では末っ子が本気キャスト。

なんだこの温度差。


「美しい山上湖、芦ノ湖での管釣りもいいもんだな〜」

圭介、遠い目。

「去年の釣れない芦ノ湖が嘘みたいだよ」

あの修行のような一日はいったい何だったのか。

「はい、お兄ちゃん。紅茶とお菓子」

「あ、ありがとう」

完全にレジャー。釣り+カフェ。湖上アフタヌーンティー。

その横で。ひたすら投げ続ける明宏。

キャスト。巻き。キャスト。巻き。

(釣りは男のロマン)

ブレない。まったりモードに入った兄と姉。

ガチモード継続の末っ子。同じ船の上とは思えない三者三様。

ピー、ピー。魚探は今日も元気に鳴っている。

放流魚釣りは中々好調だった。


「お腹空いたよ〜。愛生ちゃんはお腹ペコリーヌだよ」

突然の自己申告。

「そうだな。俺もそろそろ放流狩りは終わらせてあげてもいい頃だと考えていたんだよ」

どの立場からだ、明宏。魚に対して上から目線。

「じゃあ、いったんボート屋に戻ろうか」

現実担当・圭介。

三人、それぞれ数匹ずつ釣り上げ、午前の部終了。

圭介、エンジン始動。しかし船は——

ぐにゃ。ぐにゃぐにゃ。蛇行。


「お兄ちゃん、そっち行くと沖に出ちゃうよ」

愛生、冷静。


「そうは言っても風に煽られて真っすぐ走らないんだよ」

必死の弁明。


船というより、迷子の白鳥。なんとかボート屋が見えてくる。そして最大の試練。

——着岸。

船舶初心者最大の関門。離岸は勢い。着岸は知性。

向かい風なら風とエンジンを相殺し——

などと頭では分かっている。

(初心者の俺に着岸、出来るかな)

圭介、心の声が弱い。桟橋が近付く。緊張。

そのとき——

「こっちに船着けて〜!」

ボート屋のオバチャン、叫ぶ。圭介、即理解。

追い風側だ。初心者救済ポジション。近づけば風が押してくれる。

技術不要。自然任せ。オバちゃんさすがプロである。

船はふわり。ぴたり。ほぼ風の功績。圭介、なぜか操船した顔。

「よし」

誰も何も言わない優しさだった。


昼食休憩。ジャジャーン。

圭介、ガスコンロとヤカンを掲げる。

「兄はちゃんと準備してきたのだ」

ドヤ顔。

愛生と明宏、白ける。

「うん、知ってる」


そしてお湯が沸く。

湖上にカップ麺の匂いが広がる。

愛生は迷いなく横浜サンマー麺。

今回も。

「サンマー麺しか勝たん」

グーっと親指。地元愛、重い。兄は思う。

(そのまま横浜観光大使になれ)


明宏は横浜家系ラーメン。

「浜っ子は家系命だぜ」

ズルズル。油も誇らしい。


愛生ちゃんはサンマー麺。

明宏は家系。

横浜、内部対決。


その横で。

圭介、静かにカップうどん。

もしどちらかを選べば派閥入り。長男に派閥は許されないのだ。

中立。それが兄の威厳。

ズズッ。


すると明宏。

「兄ちゃん、それ横浜関係なくない?」

愛生も追撃。

「お兄ちゃんだけサービスエリア感あるね」

やめてくれ。


だが圭介は言う。

「俺は全国区だ」

意味は無い。だが堂々。芦ノ湖の湖畔で、横浜ラーメン戦争と、なぜか孤高のうどん。

風は穏やか。兄の立場は、少しだけ揺れていた。


「俺さぁ〜、午前けっこう好調に釣れたでしょ?」

明宏、カップ麺のスープを飲み干しながら言う。

「絶対、釣り上達したと思うんだよね」

自己評価、高め。


「管釣りけっこう行ったからな。上達はしてるんじゃね」

圭介、うどんをすすりつつ無難に肯定。


しかし。

「だからさ、午後は放流狩りじゃなくて、ネイティブトラウト狙いに行こうよ」

出た。急に難易度を上げる男。


「釣れないと思うけど、俺は別にいいよ」

圭介、現実主義。声に“どうせ修行になる”が滲む。


愛生、ここで一歩前へ。

「愛生ちゃんも弟ちゃんの希望に付き合ってあげても構わないのだ」

胸を張る。いいお姉ちゃんアピール、発動。誰も頼んでないのに徳を積むスタイル。


明宏、ニヤリ。

「ムフフ……」

嫌な笑い。

「オフシーズンにネット動画を見てイメージトレーニングを積み重ねた僕の腕前を見せてやる」

実釣ゼロ。脳内経験値カンスト。

「動画勢かよ」

圭介、心の声が漏れかける。

「理論は完璧だから」

何が完璧なのかは不明。


愛生も乗る。

「じゃあ午後はロマン狩りだね」

言い方。圭介、空を見上げる。さっきまで穏やかだった芦ノ湖。急に修行の湖に見えてくる。

「はぁ〜……大丈夫かなぁ〜」

兄のため息が、風に乗って流れていった。


さぁ〜午後の部、開始だ。実釣時間、あと3時間。

前日放流の虹鱒で自信をつけた男が一人。明宏である。

「なんかさ、余裕でネイティブレインボー釣れそうな気がするぜ」

その根拠はどこから来るのか。午前は放流魚です。

愛生はというと。入れ直した紅茶。

そして車から追加投入されたお菓子を大事そうに抱えて乗船。

「お船でぷかぷかしながらのオヤツは格別に美味しいのだ」

もはや釣りではなく午後はピクニック部。


圭介、ふと我に返る。

「ネイティブレインボーって、どうやって狙ったらいいの?」

核心。


すると愛生。

「どうせ釣れないんだから、一緒にオヤツしよ」

潔い。ロマン即終了。

「そうだね、俺達はゆったり、まったりしよっか」

圭介、あっさり寝返る。

弟の挑戦、すでに他人事。

「さあ出港だ」


エンジン始動。

ボート屋のオバチャン情報が脳裏に浮かぶ。“関所前ならブラウン狙えるよ”

よし。


最初は関所前だ。

「明くん、ブラウン狙うからな」

兄、少しやる気だ。


「任せてよ。ブラウンなら60オーバー狙うぜ」

急にスケールがでかい。60オーバーいきなり夢を語る。

午前は30cmちょいの放流魚です。

愛生は横でクッキーを開封。

カサッ。

「60センチ釣れたら写真撮るから教えてね」

完全に観客。

船は関所前へ。ロマン全開の明宏。

半分観光の愛生。

そしてその中間で揺れる圭介。

芦ノ湖の午後は、希望と紅茶と60オーバーの妄想を乗せて、静かに進んでいった。


圭介、恐る恐る船外機のスロットルを開ける。

そろ〜……

いや、違う。今日はやる。

「よし、今回は全開まで開けるんだ」

ぐいっ。ブオオオォォォ——船、一直線。

さっきまでの蛇行は何だったのか。

湖面をスーッと真っすぐ進む。

「……そうか。推進力が弱すぎて蛇行運転になっていたのか」

「良かったねお兄ちゃん、もうアヒルさんに抜かされないんだね」

愛生、にこり。

午前中、観光用の足こぎボートにじわじわ抜かれていた件を蒸し返す。


そして関所前に到着。観光名所を背に、明宏は即キャスト。

ミノー、ビュン。

グリグリ。止めて食わせの間。

グリグリ。止めて食わせの間。

「いつでも出てこいブラウン!」

気合の雄叫び。

目の前には観光地である関所で観光客がこちらを見ている。

その中の何人かが手を振る。愛生、即座に笑顔で手を振り返す。

すると、

「ヒュ〜〜!」「イェーイ!」

やたら盛り上がる声。

「あっ、外人さんだったのか」

圭介、状況把握。どう考えても、

若い女の子が船で釣りをしている図。

それは目立つ。

「やっぱり、私ってー可愛い過ぎちゃうのよね」

愛生、前髪をさっと払う。


「確かに愛生ちゃんは可愛いけど、あんまり自信過剰にならないようにね」

圭介、兄としてのバランス感覚を発揮。


「何それ。私のアイドル並みの可愛いさを否定するの?」

ぷんすか。めんどくさいスイッチ入る。


「否定なんかしてないよ」

圭介、即座に修正。

「アイドル並みじゃなくて……アイドルより、可愛いよ」

言わされた。完全に言わされた。

愛生、満足げ。

観光客、まだヒューヒュー。

その横で明宏。

グリグリ。止めて食わせの間。

「……ブラウン来ないな」

ロマンは今のところ無反応。


芦ノ湖の午後は、全開スロットルと、観光客の歓声と、兄の生存戦略で静かに盛り上がっていた。

関所前、釣果なし。三ツ石、生命反応なし。

投げる。巻く。投げる。——何も起きない。

湖はただただ美しい。


「……移動だな」

白浜へ。

「ここではブラウン狙いより、虹鱒を狙わないか」

圭介、現実回帰。

「よし! 50オーバーのヒレピンレインボー釣るぜ!」

明宏、根拠なき自信レベルMAX。10グラムのスプーンをフルキャスト。

着水。カウントダウン。1、2、3……巻く。

スー……止め。ヒラッ……巻く。スー……止め。ヒラヒラ……完璧なストップ&ゴー。

理論上は釣れるはず理論上は。

しかし湖は——無。

その横で。圭介と愛生、魚探をガン見する。


ピィー。魚群アラーム。

「この表示が魚なんじゃない?」

愛生、指差す。

「こっちの表示も魚かも」

圭介、雰囲気で同意。正解を知らない初心者の二人。


と、その時。湖底にモコモコとした塊。

「あっ、これワカサギだよね」

急に確信。

「そうだな、ワカサギだと思うよ」

魚探初心者、即同意。根拠はない。

(あ、そう言えば……夏は会社の釣り部で芦ノ湖ワカサギ釣り行こうねって、沙代里さんに言われてたっけ……)

声に出ていた。


「あっ、あのデカ乳お姉さんね」

愛生、秒速で反応。

「なんか女を武器にしてるみたいな人で愛生ちゃんは嫌い」

急に辛辣。


「いやいや、愛生ちゃんだって可愛いを武器にしてないか」

兄、軽く反撃。

「可愛いは正義。可愛いしか勝たんなの。一緒にしないで」

理論が強い。


湖上で魚は釣れないが、会話はヒット連発。

その頃、船首では

スー……止め。ヒラッ……無。

スー……止め。……無。

明宏のスプーンは安定の無反応だ。


世界が平和に静まり返る。

「……ねぇ〜、放流魚釣りに戻ろうよ」

ついさっきまで60オーバーを語っていた男とは思えない声量。

ネイティブ魂、耐久値ゼロだ。


圭介と愛生、顔を見合わせる。

「……戻るか」

ロマンは終了。

圭介は静かに舵を切る。

結局いちばん優しかったのは、昨日放された虹鱒だったのである。


虹鱒の放流ポイントへと、ぞろぞろ戻ってくる三人。

午後のネイティブチャレンジは、まあ……うん。

自然は厳しかった。魚も厳しかった。現実も厳しかった。

「やっぱり放流って偉大だな……」

と、遠い目の圭介。


「ち、違う!今日は風向きがだな!」

と、まだ言い訳を探している明宏。


そんなこんなで、結局ホームポジションに帰還である。

明宏はタックルボックスを開け、満を持して取り出した。

「やっぱり信頼と実績のディープコラピーを投げるぜ!」

その言い方、完全にプロアングラー気取りである。

指の動きがやたらとキレキレだ。無駄にカッコつけている。

(さっきネイティブ外しまくってた人だよね?)

と、圭介は心の中でツッコミを入れる。


一方、愛生はにこにこと小さなルアーを掲げた。

「愛生ちゃんはね~、お気に入りのバッタさんルアーだよ♪」

緑色のそれは、どう見ても可愛い寄りのデザイン。

しかし、侮るなかれ。放流魚キラーの実績持ちである。


「その見た目で釣れるの、未だに納得いかないんだけど……」

と圭介。

「可愛いは正義なのだ!」

どこからその自信が湧いてくるのか。

「俺は普通に管釣り用スプーンだな」

圭介は堅実派。派手さはないが、安定感重視。

三者三様のルアーが、ほぼ同時に水面へと吸い込まれていく。

チャポン。水面に広がる波紋。そして、静かなカウントダウン。

その時だった。


「きゃっ!」

愛生のロッドが、ぐぐんっと弧を描く。

「え!?うそ、うそ、来た来た来たーっ!」

バッタさんルアーに、虹鱒が食い付いたのだ。

水面がバシャッと弾ける。

銀色の魚体がきらりと光る。


「早っ!?」

「なんで一投目で!?」

明宏と圭介、同時に叫ぶ。

「だから言ったでしょ~?可愛いは正義♪」

余裕の笑みを浮かべる愛生。

ロッドさばきも安定している。

(なんか一番うまくないか?)

二人の脳裏に、同じ疑問がよぎった。


午後の放流ポイントで最初に主役をかっさらったのは、まさかのバッタさんだった。

ロッドを高々と掲げ、虹鱒を無事ネットイン。

「やったぁぁぁーっ!!」

満面の笑みでぴょんぴょん跳ねる愛生。

そしてそのまま、なぜかルアーを両手で掲げ――


「……今からバッタさんルアーの歌を歌います!」

誰も頼んでないのに始まった。

♪ バッタさん バッタさん うれしいな~

 キラキラ虹鱒 つれてきた~

 ぴょんぴょんジャンプで アピールだ~

 一投目ヒットで ドヤ顔だ~ ♪


♪ バッタさん バッタさん すごいよね~

 コラピーよりも すごいよね~?

 スプーンよりも すごいよね~??

 ねぇねぇ聞いてる? すごいよね~! ♪

(圭介と明宏、無言)


♪ バッタさん バッタさん 最高だ~

 今日のヒーロー 君なのだ~

 いっぱい釣れて うれしいな~

 愛生ちゃんも うれしいな~ ♪


最後はなぜか自分も称えるスタイル。

「アンコールは後ほどなのだ!」

「やらなくていいからな!?」

と、圭介の必死のツッコミが湖畔に響いた。


結局――元気いっぱいだったのは放流直後の虹鱒だけだった。

その後の湖面は、まるで何事もなかったかのように静寂。

風がそよぎ、ロッドティップは微動だにせず。

「……さっきまでのフィーバーは?」

「期間限定イベントだったのだ」

期間短すぎるだろ。

とはいえ、愛生は終始ご機嫌。明宏もなんだかんだで楽しそうだ。


釣果?

うん、それはまぁ……心のアルバムに保存である。


帰り支度をしながら、明宏が湖を振り返る。

「圭ちゃん、また芦ノ湖来ようね」

その目はなぜかキラキラしている。

さっきまで“ネイティブ余裕宣言”していた人物とは思えない。


「もちろん愛生ちゃんも一緒に行くのです」

愛生、なぜか胸を張る。

呼ばれてないのに参加確定ポジション。


「そうだね、また3人で来ようね」

圭介は少し笑って頷いた。

今日も野生化した虹鱒は沈黙。岩魚も沈黙。茶鱒も沈黙。

「桜鱒って誰?」

と明宏。

「人じゃないのだ」

「姫鱒って何?」

「たぶん偉い魚なのだ」

知識、ふわっとしすぎ問題。

三人にとって芦ノ湖は、まるでラスボス前のダンジョン。

広大な水面。気まぐれな風。

沈黙するネイティブトラウト。

圭介、愛生、明宏の前に立ちはだかる“芦ノ湖攻略”という大きな壁。


だが――

「難しいから燃えるんだよな」

「リベンジなのだ!」

「次こそネイティブレインボー釣る!」

目標の解像度は低いが、やる気だけは高い。難しいからこそ面白い。

釣れないからこそ、次がある。そう、三人は思うのであった。


――なお。

明宏が桜鱒や姫鱒を華麗に釣り上げるのは、もっともっと先の未来の話である。

それはきっと、

彼が「桜鱒って誰?」と言わなくなる頃の物語だ。

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