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うちの愛生ちゃん  作者: 横溝 啓介
1年2学期
120/125

バレンタインお兄ちゃんは大変だよ

桜井穂乃花は悩んでいた。

それはもう、かなり真剣に。


「……はぁ……」


ため息ひとつ。

幸せが少し逃げていく音がした気がした(※気のせい)。

穂乃花は五人兄妹の長女である。

弟が二人、妹が二人。

つまり――

バレンタイン=年中行事(重労働)

という立場だ。

去年の出来事を思い出すだけで、こめかみがキリッと痛む。


――バレンタイン前日。

「よし、できた……!」

穂乃花は、可愛い弟と妹のために、心を込めてカップチョコを作った。

トッピングも彩りも完璧。

冷蔵庫にきれいに並べて、満足そうにうなずく。

(明日、絶対喜ぶよね)

長女ポイント、MAX。


――そして、運命のバレンタイン当日。

「……あれ?」

冷蔵庫を開けた瞬間、穂乃花は固まった。

無い。

昨日まで確実に存在していたカップチョコが、

綺麗さっぱり、跡形もなく消えている。


「……誰が食べたの……?」

すると、背後から能天気な声。


「いや〜、昨日飲み会帰りでさ」

犯人その一、父親。


「明日もらえるチョコなんだから、食べてもいいだろ?」

続いて、弟と妹たちが元気よく追撃。


「またお姉ちゃんに作ってもらえばいいや!」

「ねー!」

――その瞬間。

穂乃花の中で、長女としての何かがポキッと折れた。

結局、急いで市販のチョコを買いに走り、

なんとかバレンタインは成立。


しかし。

手間も、出費も、

想定の三倍。


「……で、今年はどうしようかなって……」

現在。

野外活動鱒釣り部の部室。

テーブルを囲んで、穂乃花は机に突っ伏していた。


「それ、普通にキツいよね」

と、愛生が眉をひそめる。


「去年それは事故じゃなくて事件だよ」

と、里香が冷静に言い切る。


「もう鍵付き冷蔵庫案件にょん」

と、花音が真顔で頷く。


「やっぱそう思う?」

穂乃花は顔を上げた。


「もしくは、絶対見つからない場所に隠すとか?」

愛生が言う。


「でも家族相手だと、隠すのも難易度高いよね」

里香が腕を組む。


「最初から市販品にするのが一番平和にょん」

花音はしみじみ。


穂乃花は遠い目をした。

「……バレンタインってさ、恋のイベントのはずなのに、なんで長女にはサバイバルなの……」


三人は、何も言わずに深く頷いた。


――バレンタイン。

それは甘くて苦い、大家族・長女専用イベントなのであった。


「お姉ちゃんは……ほんと大変なんだよ……」

穂乃花の呟きが、部室に静かに響く。


部室の空気が、ほんのり甘い未来の匂いに染まり始めた、その時だった。


「今年はさ、愛生の家でチョコ作ろうよ」

何の前触れもなく、里香がさらっと爆弾を落とす。


「……えっ?」

愛生は目をぱちくりさせた。


「なんで私の家なの?」

至極まっとうな疑問である。

しかし、里香は一切ひるまない。


「だって愛生の家なら花音ちゃんもいるし、良くね?」

その言葉に、愛生は一瞬言葉を失った。

(理由、それだけ!?)


「うんうん、みんなで作ったら楽しそうだよね」

穂乃花も、すっかり乗り気だ。


「ねぇねぇ、花音ちゃんも、いいでしょ?」

里香が振り向くと、


「別に、かにょんは構わないにょん」

花音はいつも通り、ふわっと即答。

こうして、反対意見ゼロという恐ろしい状況が完成した。


「愛生の家で作ったチョコを、そのまま弟と妹にあげればいいじゃん」

里香が、まるで最初から決まっていたかのように言う。


「……あ、それ、いいかも」

穂乃花が目を輝かせた。


「今年、土曜日が十四日だし。みんな集まれるなら、効率的かもしれないね」


「でしょ。しかも――」

里香はニヤッと笑う。


「つまみ食いされる心配もない」

「それ重要だね……」

穂乃花は、遠い過去を思い出すように深く頷いた。


一方で。

「……あのさ」

愛生はそっと手を挙げる。


「私の家なんだけど?」

しかし、その声はあまりにも小さかった。


すでに三人の中では、

・場所:愛生の家

・メンバー:全員

・目的:平和なバレンタイン

という完璧な計画が完成していたのである。

(なんでだろ……)

(私の家なのに、勝手に話が進んでる……)

ほんの少しだけ、納得いかない気持ちを胸に抱えながら、

愛生はため息をついた。


――こうして。

今年のバレンタインは、

市川家を舞台にしたチョコ大作戦へと、

静かに、しかし確実に動き出したのだった。


「じゃあ、十四日土曜日は鴨居のあらぽーと集合ね」

里香が、もはや最終決定事項のように言い放つ。


「うん、決定」

穂乃花も即答。


「にょん」

花音は短く、しかし重みのある一言で同意した。


「……」

その横で、愛生は何も言わなかった。

いや、言えなかった。

(私の家で作る話だったよね?なんで集合場所まで決まってるの?)


誰にも拾われない心のツッコミを抱えたまま、

計画は音を立てて前進していくのだった。


そして――十四日、土曜日。

里香、穂乃花、愛生、花音の四人は、

鴨居のあらぽーとに集合していた。

向かった先は、

製菓・製パン専門店――富富商店。


「専門店でまとめ買いだと安いから助かるよね」

穂乃花が、カゴの中を覗きながらしみじみ言う。


「小袋で買うより、大袋の方が断然安いし」

里香も手慣れた様子で頷く。


「……愛生はコストアップだよ」

愛生は、静かに財布の行方を案じていた。


「えっ、なんで?いつも兄と弟に何チョコあげてるの?」

里香が不思議そうに聞く。


「うんとね、弟には――き◯のこの山と、た◯のこの里でしょ」

「あー……」

里香はすべてを察した顔になる。


「やっぱり、愛生らしいね」

「でね」

愛生は、少し誇らしげに続けた。


「お兄ちゃんには、チ◯ルチョコ一つだよ」

「えっ!?チロ◯チョコだけ!?」

穂乃花が思わず声を上げる。


「うん。お兄ちゃん喜ぶから、いいんだよ」

にこっと微笑む愛生。

(それ、兄としては喜ばざるを得ないだけでは……)

穂乃花は心の中で、圭介にそっと合掌した。

一方、花音は。


「……」

完全に呆れて、言葉を失っていた。


「でもね!」

愛生は楽しそうに続ける。


「ホワイトデーは、可愛い妹がショッピングデートしてあげるの。だから完璧だよね?」

自信満々である。


「……なんか、お兄さんかわいそう」

穂乃花が正直な感想を漏らす。


「えっ、なんで?お兄ちゃん、すっごく喜んでるよ?」

愛生は本気で不思議そうだった。


「兄に甘えられるの、いいな〜」

一人っ子の里香は、少しだけ羨ましそうに愛生を見る。

その様子を眺めながら、花音は小さくため息をついた。


「圭介お兄ちゃん、人が良すぎるにょん……」


――こうして。

チョコの材料と、それぞれの価値観と、少しズレた兄妹愛をカゴに詰め込みながら。

バレンタイン大作戦は、順調(?)に進行していくのだった。


しかし――

さすがは製菓・製パン専門店、富富商店。

冷凍クッキー生地。

解凍して焼くだけメロンパン。

失敗知らず、幸福一直線な甘い罠が、棚という棚に並んでいた。


「……なにこれ……最高……」

甘党・愛生の瞳が、完全にハートになっていた。

結果。

一番たくさん買い物をしていたのは――

穂乃花でも、里香でもなく、愛生。

(お小遣い?ママとお兄ちゃんにおねだりすればいいや)

市川愛生、無敵の発想である。


そして四人は――

無事……なのかどうかはさておき、市川家に到着。

本来なら、ここからカップチョコ作りが始まる、はずだった。

――が。


「えいっ、えいっ」

愛生は、なぜか冷凍クッキー生地を取り出し、

プラスチックの押し型でハートマークを量産していた。

ぽん。

ぽん。

量産。

そして。


「よし、オーブンにイン!」

迷いゼロ。


「……愛生ちゃん?」

穂乃花が、恐る恐る声をかける。


「チョコ作らないの?」

「大丈夫、大丈夫!」

愛生は振り向きもせず、やたら元気だ。


「お買い物疲れたでしょ?先にクッキーでお茶しよーう!」

なぜかテンションが高い。


一方その頃。

里香と穂乃花、そして花音は、買ってきたカップチョコの材料や絞り袋を真面目に整理していた。


「これ溶かす用、これトッピングだね」

「型はこっちにまとめよ」


――ちゃんと、チョコ作りの準備をしている。

しかし。

「……」

愛生だけは、オーブンの前から一歩も動かない。

完全に、釘付けである。

そして、ほどなくして。

ピピピピピ――!


「来た!」

オーブンのタイマーが鳴った瞬間、

愛生は勝利宣言のように拳を握った。


「クッキー完成!イエイ!」

テンション、限界突破。


「クッキー焼けたよ〜!みんなで食べよ!」

振り向くと、

すでにお皿とお茶の準備まで完了しているという手際の良さ。


「……」

「……あれ?」

「……にょん」


三人が同時に固まった。

気がつけば。

チョコ作りはまだ一切始まっていない。

にもかかわらず。

甘い香りとともに、自然発生した――おやつタイム。


(チョコ作り、いつ始まるんだろ……)

穂乃花は、焼きたてクッキーを手に、

静かにそう思うのだった。


焼き立てクッキーに大満足した愛生は、

幸せそうに椅子にもたれかかっていた。

(もう……チョコ作りとか……どうでもいいかも……)

口元にはクッキーの欠片、表情は完全にやりきった人である。

しかし。


そんな愛生を完全スルーして、

里香と穂乃花はエプロン姿でキッチンに立っていた。


「じゃあ、私が湯煎でチョコ溶かすね」

穂乃花が手際よく準備を始める。


「じゃあ私はチョコペンを湯煎するね」

里香も迷いなく分担。


二人の横には――ちょこん、と。作業台にぴったり張り付くように、花音がいた。


「……にょん」

見守り役なのか、監視役なのか、本人にしか分からないポジションである。


その頃、玄関。

ガチャ。

「ただいまー」

釣具屋帰りの圭介と明宏が帰宅した。


明宏はというと。

「おっ、これ最高じゃん……」

来客?

キッチンの賑わい?

一切気にしない。


新しく買ったルアーを大事そうに抱えたまま、

無言で自室へ直行した。

一方で。


「……ん?」

圭介は、家の中に漂う甘い匂いと、

聞き慣れない声の多さに足を止めた。

そっとキッチンを覗く。

そこには――

チョコ作りに励む女子三人と、

クッキーに魂を売った妹がいた。


「あ、圭介だ」

里香が一番最初に気づく。


「いやいや、自宅なんですけど」

即ツッコミを入れる圭介。


「こんにちは、お兄さん」

穂乃花が、にこっと笑顔で挨拶する。


「いえいえ、こちらこそ」

圭介も自然に笑顔で返した。

その様子を見て。

「……」


穂乃花は、ほんのり優しく微笑み返す。

「……ウフフフ」


その空気を、圭介は完全に好意的に誤解した。

「やっぱり穂乃花ちゃん、いい子だなぁ〜天使みたいだね」

完全に素である。


「チョコ作ってるとこ、こっそり覗くのキモい」

間髪入れず、里香のツンツンが炸裂。


「だから、ここ、僕のお家なんですけど」

圭介は苦笑いしながら言い返す。


しかし――

(……でも、このツンツン、嫌いじゃない)

内心、ちょっと嬉しい。

そんな空気の中。


「……にょん」

花音は無言で、

“圭介お兄ちゃん、今日も平和だな”

という顔をしていた。


一方その頃。

「……」

クッキーをもぐもぐしながら、

チョコ作りが完全に他人事になっている愛生。

こうして、

市川家キッチンは今日も――

甘くて、騒がしくて、

ちょっとズレた平和に包まれていたのだった。


湯煎でとろりと溶けたチョコレートを、

穂乃花は絞り袋に移すと、迷いなく構えた。


「よし……」


ハート型の小さなカップに、

すっ……すっ……と一定のリズムで流し込んでいく。

目分量。

なのに、量はほぼ均等。

(さすが長女歴、伊達じゃない)

誰もがそう思った。

その横で。

里香と花音も、真剣な顔でカップに向き合っていた。


「……これ、意外と難しいね」 「にょん……」

ぎこちないながらも、


二人のカップはちゃんと“チョコ”の形を成していく。


「愛生ちゃんも、早く入れないと」


穂乃花がちらっと振り向く。


「絞り袋のチョコ、固まっちゃうよ」

「はーい」


愛生は元気よく返事をして、

絞り袋を両手でぎゅっと握った。


「よいしょ!」


――その瞬間。

ドバッ。

勢いよく噴き出したチョコが、

カップを完全に覆い隠した。

いや、

埋めた。


「……」

一同、沈黙。


「……ま、いっか」

最初に口を開いたのは、張本人だった。

(どうせ、お兄ちゃんにあげるんだもん)


市川愛生、

量=愛という信念である。

そんなハプニングはあったものの。

穂乃花、里香、花音のカップチョコは、

チョコペンやチョコスプレーで可愛くデコレーションされ、

見事に完成していった。

ハート。

ドット。

小さなメッセージ。

一方で。

愛生のカップだけ、

重量感が違う。


「……これ、チョコっていうより塊だよね」 「にょん……」


それでも。

机の上には、それぞれの個性が詰まったカップチョコが並んだ。

甘くて、少し不器用で、

でもちゃんと気持ちがこもった――

そんなバレンタインの一コマだった。


そして――

穂乃花、里香、花音の三人は、

綺麗に、そして丁寧に包装されたカップチョコを完成させていた。

リボンも、袋の折り目も完璧。

愛情と几帳面さの結晶である。


「カップチョコも出来たし、そろそろ解散かな」

里香が、ひと仕事終えた顔で言った、その時。

穂乃花は、そっと立ち上がり――

リビングでくつろいでいる圭介の元へ向かった。


「いつも、部活動のお手伝いありがとうございます」

両手で小さな袋を差し出しながら、穂乃花は少しだけ視線を落とす。


「お口に合うか分かりませんが……どうぞ、召し上がってください」

ほんのり頬を赤くして、

もじもじ。


「あ、ありがとう」

圭介は少し驚きながらも、優しく受け取った。


「こちらこそ、部活動では大したお役にも立ててないけど……でも、ありがたく頂きますね」


穂乃花の、感謝の気持ちを忘れないその優しさが、圭介の胸にじんわりと染みる。


(いい子だなぁ……)

そう思わずにはいられなかった。


――そこへ。

「……はい、圭介」

ぶっきらぼうな声。

振り向くと、里香がそっぽを向いたまま、チョコを差し出していた。

耳まで真っ赤。


「あ、ありがとう」

予想外の展開に、圭介は思わず目を瞬かせる。


里香は愛生の幼馴染み。

そのため、圭介のことも兄のように好いている一面がある。


「べ、別に……圭介のために作ったわけじゃないから」

視線は合わない。


「ついでに作ってあげただけなんだから、感謝しなさいよね」

完全なるツンデレ。


――しかし、その内心は。

(え、私、兄にチョコあげる妹ポジじゃん)

(なにそれ、可愛すぎじゃない?)

(私って尊い……)

自己肯定感、爆上がり中。


一方の圭介は。

(ツンデレなのは好みなんだけど……)

(でも、この子にとって、俺って“お兄ちゃん枠”なんだよな……)


そう思うと、

どこか複雑な気持ちになるのだった。

――こうして。

それぞれの想いが、

それぞれの形で手渡され。

市川家のリビングには、

甘くて、ちょっとズレた、

でもどこかあたたかい空気が流れていた。


「バイバイ〜」

里香と穂乃花の声が玄関から遠ざかり、

市川家にいつもの空気が戻ってきた、その直後。


「はい、お兄ちゃん」

にこにこ。

満面の笑み。

愛生から、チョコのプレゼントだ。

圭介は受け取り、首をかしげた。


(……カップチョコ、じゃない?)


そこにあるのは、

茶色い、ずっしりしたチョコの固まり。


(何これ……?)


しかし。

何これ? とは、絶対に言えない。


「……ありがとう」

圭介はそう言って、覚悟を決めるように一口かじった。


――パキッ。

次の瞬間。


「……?」


口の中で、異物感。チョコの固まりの中から、くしゃっとした紙が出てきた。


(……カップの、紙?)

「なんで紙が中に……?」

圭介が不思議そうにしていると、


「どお? 美味しいでしょ?」

と、期待に満ちた愛生の声。

口の中に広がるのは、チョコと――紙の味。美味しい訳がない。

しかし。


「……愛生ちゃん、とっても美味しいよ」

圭介は、兄としての義務を果たした。


その瞬間。

ピピピピピ――!

オーブンのタイマーが鳴り響く。


「きた!」

愛生は一瞬で立ち上がり、

サササッとオーブンへ。

そして、再び圭介の前へ。


「はいお兄ちゃん!愛生ちゃん特製の、ハートのクッキーだよ!」


確かに――ハートではある。

ただし。

ハート型に“抜かれた”。

つまり、

ハート型の穴だらけになったクッキーシートを

そのまま焼いた、

超・適当クッキー。


(……そうきたか)

「あ、ありがとう……」

圭介は、渋々ながらも礼を言う。


「じゃあね」

愛生は、急に距離を詰めてきた。


「クッキーは、愛生ちゃんが食べさせてあげるね」

満面の笑み。


「あ〜ん、して」

「……」


言われるがままに、圭介は口を開けた。

もぐもぐ。


(……こんな子に育ってしまって……)

クッキーを噛みながら、圭介は兄としての責任を静かに感じていた。


その直後。

「お兄ちゃん、だ〜いすき!」


愛生が正面から、ぎゅっと抱きつく。

「お兄ちゃん大好き!大好き〜!」

さらに、ぎゅーっ。

(……重い。愛が)


一方、愛生の心の中は。

(大好きって甘えてあげるなんて、私、いい妹すぎない?)

(お兄ちゃん、嬉しくて仕方ないはずだよね!)


――しかし。

圭介の内心は、まったく違っていた。

(手作りチョコ……)

(この甘えっぷり……)

(……ホワイトデーのおねだり、絶対くるよな……)

未来を予測した瞬間、

圭介の気分は少しだけ重くなる。


こうして。

市川家のバレンタインは、

甘さと試練が絶妙に混ざり合ったまま――

兄の覚悟だけが、静かに試されていくのだった。

そんな愛生の、

強引な甘え――というより、

遠慮ゼロのおねだりっぷりを、少し離れた場所から見ていた花音。


「……」

しばらく眺めたあと、花音は小さく頷いた。


「じゃ、愛生ちゃんはお風呂行ってきます」

なぜか――

「(`・ω・´)ゞ」

敬礼。

そしてそのまま、

すたすたとお風呂場へ向かう愛生。

嵐が去った後のような、

妙な静けさがリビングに戻った。


すると。

花音は、圭介の横にちょこんと座った。

距離感、完璧。


「ハイ、圭兄ちゃん、にょん」

そう言って、両手で差し出されたのは――

カップチョコ。少し不格好。

でも、丁寧に作られていて、トッピングも控えめで可愛らしい。

何より、

ちゃんと“心を込めて作った”のが伝わるチョコだった。


「花音ちゃん、ありがとう」

圭介は自然と、柔らかい声になる。


「包み紙も、とっても可愛いね」

「……にょん」

花音は、

それだけ言って、にこりと笑った。


(……なんていい子なんだろう)

圭介の胸に、

じんわりと癒しが広がる。

(いとこの花音ちゃんは、こんなにいい子なのに……)

(妹の愛生は……将来、大丈夫かな……)

心配と現実逃避が、同時に頭をよぎる。

それでも。

花音のその癒しの笑顔に、

つい見惚れてしまう圭介だった。


――同じチョコ。

同じバレンタイン。なのに。

片方は胃と財布と未来が重くなり、

もう片方は心が軽くなる。

圭介は、

この落差を噛みしめながら、

そっとチョコを大事に持つのだった。

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