勇者「そろそろ出勤か」2章5話
勇者「俺は、勇者だったんだ。あの時までは……」
静かな部屋に声が落ちる
窓から差し込む朝日が、鏡の横に飾られた剣を照らしていた
額縁の中には、埃をかぶった剣が収められている
旅の頃から使い続けてきた剣
何度も命を預けた相棒
勇者は柄へ手を伸ばしかけ、その手を静かに下ろした
勇者「……そろそろ出勤か」
勇者は部屋を出た
職場へ着くと、机の上には今日も書類が山積みになっていた
各部署との調整
納期確認、搬入計画
報告書の確認
勇者として魔王を倒すため、何年も戦った
だが今の勇者は、人々の生活を支える調整役だった
部下が書類を持ってくる
部下「こちらの確認をお願いします」
勇者「……ああ」
判を押す
次の書類を手に取る
また判を押す
昼になっても終わらない
昔は剣を振っていた手が、今はペンを握っている
握るものが変わっただけだった
しばらくして
コンコン
扉が軽く叩かれる
勇者「どうぞ」
入ってきたのは商人だった
商人「どうもー」
勇者「珍しいな」
商人「近くまで来たものですから」
商人は勧められた椅子へ腰を下ろし、部屋を見渡した
積み上がった書類
机、椅子
そして勇者
商人「相変わらず忙しそうですねー」
勇者「好きでやってるわけじゃないけどな」
商人は、勇者が握っているペンを見た
沈黙が流れる
商人は窓の外を眺めながら、小さく笑った
商人「私はね、子どもの頃、英雄になりたかったんですよ」
勇者は少しだけ驚く
勇者「……」
商人「……」
商人「まぁ勇者様みたいに剣を振って」
商人「魔物を倒して、世界を救う」
商人「……そんな夢を見ていました」
少し照れくさそうに笑う
商人「でも駄目でしたね」
勇者「何がだ」
商人「英雄になる才能が、何もなかったんですよ」
商人は肩をすくめる
商人「剣の才能も、魔法の才能もありませんでした」
商人「だから最初は、仕方なく商人になったんです」
商人「悔しかったですよ。英雄になれなかったんですから」
商人は少しだけ間を置いた
商人「……でもですね」
商人「今は、これで良かったと思っていますよ」
勇者「……どうしてだ」
商人「それは、私が選んだからです」
勇者は商人を見る
商人「仕方なく商人になったとしても、商人を続けると決めたのは私です」
商人「商品を届けるのも、人と人を繋ぐのも、今は私が自分で選んだ仕事ですから」
商人は立ち上がる
勇者は何も答えなかった
商人「それでは、また」
商人は軽く頭を下げ、部屋を出ていく
静かな部屋
勇者は椅子へ深くもたれた
机の上には大量の書類
窓の外には、忙しく働く人たち
勇者「……選んだ」
小さく呟く
商人は、自分で商人を選んだ
俺は……俺は
勇者は机の上のペンへ目を落とした
朝、額縁の中に置いてきた剣を思い出す
旅の記憶が蘇る
魔法使い
僧侶
戦士
そして、旅の始まり
勇者「俺は……」
部屋には、もう誰もいない
勇者「……俺はいつから勇者だったんだ」
答えは出ない
国王に呼ばれた日か
旅へ出た日か
それとも……
勇者はゆっくりと目を閉じた
忘れていた記憶が、少しずつ浮かび上がる
あの日
まだ勇者ではなかった、一人の青年の記憶が




