勇者「そろそろ出勤か」2章3話
魔法使い「……朝ね」
研究室の机に突っ伏したまま、目を覚ました
身体が痛い
いつ眠ったのかも覚えていない
魔法陣の資料が机いっぱいに散らばり
昨夜書いた計算式が何枚も床へ落ちていた
窓の外は、もう明るい
今日も寝坊ではない
帰っていないだけだった
私は椅子から身体を起こす
首元に揺れる赤いネックレスを指先で軽く触れた
少し冷たい
ローブを羽織り、乱れた髪を束ねる
鏡の中の自分へ目を向ける
そこにいたのは、大魔法使い
誰もが憧れる存在
世界最高の魔法使い
……そんな肩書きだけだった
魔法使い「……もう、出勤時間ね」
研究室の扉を開く
魔物「大魔法使い!」
朝から呼び止められる
魔物「東区の結界に異常です」
魔物「魔力供給をお願いします」
魔物「午後までに魔法陣の改良も」
魔物「こちらの資料も確認してください」
次々と仕事が積まれる
私は小さく息を吐いた
魔法使い「……分かったわ」
それしか言えない
大魔法使いだから
できて当然
期待されることにも、もう慣れてしまった
慣れたくなんてなかったのに
昼を過ぎても仕事は終わらない
夕方になっても、誰も帰らない
夜になって、ようやく皆がぽつりぽつりと帰り始める
ただ、私だけはいつも通り残っていた
研究室には魔力の匂いが少し漂っていた
私はいつも通り机へ向かい、魔法陣を書き続ける
指先が震えていた
魔力切れに近い感覚
それでも止めなかった
止まれなかった
契約した日から、それだけは変わらなかった
コンコン
扉が軽く叩かれる
魔法使い「どうぞ」
扉を開けたのは勇者だった
片手には分厚い書類
目の下には、濃いくまができている
相変わらず疲れた顔
……ちょっと不細工ね
少し乱れたネクタイ
もう……だらしないなぁ
勇者「スマン、書類だけ届けに来た」
魔法使い「ありがとう」
勇者は机へ書類を置く
勇者「それじゃ」
それだけ言って帰ろうとした
……もう、帰っちゃうんだ
だが、勇者は立ち止まる
勇者は私の机へ目を向けた
冷めた食事、飲みかけの紅茶
散らばった資料
勇者「……まだ食ってないのか」
魔法使い「後で食べるからいいの」
勇者「……そうか」
それ以上は何も言わないのね
昔からそうだったから
無理に説教もしない
無理に励ましもしない
勇者は自分の上着を脱いだ
そして、眠そうに俯く私の肩へ、そっと掛けた
魔法使い「……」
勇者「……風邪引くぞ」
たった、それだけ
勇者は何事もなかったように部屋を出て行った
扉が閉まる
静かな研究室
私は肩の上着を見つめる
その温もりに触れた瞬間
指先が少しだけ暖かくなった
……あれって、いつだったっけ
……あれは、そう、旅の途中だった
すごい雨の日だった
皆でびしょ濡れになりながら歩いていた
私は寒さで震えていた
勇者は何も言わず、自分の上着を肩へ掛けてくれた
勇者『……風邪引くぞ』
そう、あのときも同じ言葉だった
私よりも、ずっと濡れていたくせに
私は思わず笑ってしまった
魔法使い「……ずるいな」
肩書きは変わった
世界も変わった
私も変わってしまった
でも、あなただけは
少しだけ、もしかしたら昔のままだ
私は、あなたが肩へ掛けてくれた上着を抱き寄せる
胸が少しだけ苦しかった
あの日、私は告白した
返事なんて期待していなかった
契約することも、もう決めていた
誰かに役割を決められても
自分の気持ちまで、言わないままにはしたくなかった
だから後悔はしていない
それでも
魔法使い「……やっぱり、私」
小さく笑う
魔法使い「きっと、ずっと好きなんだな」
その言葉は誰にも届かない
窓の外には夜空が広がっていた
魔王城の近くにも、星はあるのね
けれど、旅の夜に見た星ほど綺麗には見えなかった
祈りはしない
だけど、
願うことだけは許してほしいの
魔法使い「……普通の女の子になれたらな」
大魔法使いじゃなくていい
肩書きなんていらない
ただ、あなたの隣で笑える
そんな普通の女の子になれたら
それだけでよかった
静かな研究室
積まれた書類はまだ山のように残っている
私は上着をそっと肩から下ろした
温もりを逃がさないように丁寧に畳み、机の隣の椅子へ置いた
そしてペンを握る
魔法使い「……仕事、終わらせないと」
大魔法使いだから
そう自分に言い聞かせながら
心の奥では、ただの女の子のように
今日も小さな願いを抱いていた




