第二百四十三話「待つ者たち」
ガルム村は、春の訪れと共に新緑に包まれていた。かつて聖女として世界を導いた二人の女性が、今はこの静かな村で暮らしている。不思議なことに、失脚した身でありながら、彼女たちの表情は穏やかだった。
「お茶が入りました」
エリザベスが庭に面した部屋に入ってくる。十八歳の若い女性は、まだこの屋敷に留まっていた。三人の女性が、一人の男を待つ。奇妙な生活だが、誰も違和感を口にしない。
「ありがとう、エリザベス」アジョラが微笑む。「あなたも座って」
三人は縁側に座り、庭を眺めながら茶を飲む。樫の大木が風に揺れ、鳥たちが囀っている。
「ここでなら」アジョラが静かに語る。「メルベルも訪ねてきやすいでしょう」
アザリアは頷きながら、遠くの山道を見つめる。毎日、朝から晩まで、彼女は窓から外を眺めていた。いつか、あの道を歩いてくる姿を待ち続けて。
使用人たちは、そんな女主人たちを静かに見守っていた。老執事のセバスチャンは、厨房で若い使用人たちと話していた。
「アザリア様も、アジョラ様も、お辛いだろうに」
料理長のマーサが溜息をつく。
「メルベル様がなぜあんなことをなさったのか、私たちには分からないが」セバスチャンが首を振る。「きっと深い理由があるはずだ」
「そうですとも」庭師のトーマスが頷く。「あの方が臆病者なわけがない。私たちは知っている」
屋敷に仕える者たちは、長年アジョラと共に過ごしてきた。メルベルの幼少期も知っている。だからこそ、世間の評価など信じていなかった。
「それにしても」マーサが声を潜める。「神殿のあの仕打ちは酷すぎる」
「民衆も民衆だ」トーマスが憤る。「散々助けてもらっておいて、手のひらを返すとは」
セバスチャンは窓から、縁側の三人を見つめる。
「我々にできるのは、静かにお仕えすることだけだ」
その夜、アザリアは久しぶりに深い眠りについた。そして、鮮明な夢を見た。
雨が降っている。石畳の道を、一人の男が歩いてくる。フードを深く被り、顔は見えない。しかし、その歩き方、その佇まいは――
「メルベル……?」
アザリアは夢の中で呼びかける。男は立ち止まり、ゆっくりと振り返る。フードの奥から、懐かしい瞳が覗く。何も言わず、ただ微笑んで、また歩き始める。
目が覚めた時、アザリアの頬は涙で濡れていた。しかし、それは悲しみの涙ではなかった。
「アザリア?」
隣で寝ていたアジョラが心配そうに声をかける。二人は今、同じ部屋で休んでいた。互いに支え合うように。
「大丈夫」アザリアは微笑む。「いい夢を見たの」
翌日から、アザリアの表情に生気が戻り始めた。食事も進むようになり、庭を散歩する時間も増えた。
「何かあったの?」エリザベスが不思議そうに尋ねる。
「きっと、もうすぐよ」
アザリアの言葉の意味は分からないが、エリザベスは黙って頷いた。
しかし、数ヶ月が過ぎても、メルベルは現れなかった。
夏の終わり、エリザベスが重い表情で二人の前に立った。庭のベンチに座るアザリアとアジョラは、彼女の様子から何かを察した。
「お話があります」
エリザベスの声は震えていた。
「家が……ベルトラン家が、私の結婚を決めました」
風が止んだような静寂が訪れる。
「別の男性と、来月には」
エリザベスの目に涙が浮かぶ。
「メルベル様を待ち続けたかった。でも、もう家には逆らえません」
アザリアは立ち上がり、エリザベスを抱きしめた。
「それがいいわ」
その声は優しく、しかし寂しげだった。
「私たちはもう、普通の生活を送るべきなの。あなたには、あなたの人生がある」
「でも」
「メルベルも、きっとそれを望むはず」アジョラも静かに言う。「あなたの幸せを」
エリザベスは声を上げて泣いた。初恋の終わり、待つことの終わり。全てが、この瞬間に終わっていく。
「私、メルベル様が帰ってきたら、伝えてください」
エリザベスは涙を拭いながら言う。
「幸せになりました、と。あの夜、あなたを送り出せて良かった、と」
三人は抱き合い、別れを惜しんだ。
エリザベスが去った後の屋敷は、一層静かになった。アザリアとアジョラは、毎日同じように過ごす。朝は庭を散歩し、昼は読書や刺繍、夜は二人で静かに語り合う。
「寂しくなったわね」アザリアが呟く。
「でも」アジョラは微笑む。「これでいいのかもしれません」
秋が深まる頃、村人たちが時々、屋敷を訪れるようになった。
「アジョラ様、この薬草の使い方を教えていただけませんか」
「アザリア様、子供が熱を出して」
二人は聖女ではなくなったが、その知識と経験は変わらない。静かに、村人たちを助け始めた。
「不思議ね」アザリアが夕暮れ時に言う。「聖女だった時より、今の方が人の役に立っている気がする」
「権力なんて」アジョラは苦笑する。「結局は虚しいものでした」
二人は手を取り合い、家の中へ入っていく。メルベルの部屋は、いつでも帰ってこられるよう、綺麗に整えられていた。
冬が近づき、初雪が降る日。アザリアは再び窓辺に立ち、遠くの道を見つめていた。
「きっと、もうすぐ」
彼女は確信を持って呟く。予知夢は必ず現実になる。雨の日、フードを被った男が、この道を歩いてくる。その日まで、待ち続ける。
アジョラも隣に立ち、同じ道を見つめる。
「ええ、必ず帰ってくる」
二人の女性は、静かに微笑み合った。




