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第二百四十四話「帰還」(最終話)



夕暮れが、ガルム村を染めていた。


樫の大木が作る影は長く、秋の風は乾いていた。縁側で茶を飲む二人の女の姿があった。かつて聖女と呼ばれた者たちだが、今では村の風景の一部に過ぎない。聖火はまだ宿っているが、それも意味を持たない飾りのようなものだった。


茶碗が立てる音。風。鳥。いつもの夕暮れ。


玄関の扉が開いた。


「ただいま」


二人は振り返った。茶碗が畳に転がった。


男が立っていた。髪は伸び、服は破れ、頬はこけていた。しかし、その瞳は変わらなかった。


「遅くなってごめん」


メルベルは頭を掻いた。長い散歩から帰ってきたような仕草だった。


アザリアが最初に動いた。声は震え、涙が流れた。縁側から飛び降り、庭を横切り、玄関へ走った。


「メルベル!メルベル!」


彼女はメルベルの胸に飛び込んだ。メルベルはよろめきながらも受け止めた。


「本当に、本当にあなたなの?夢じゃないの?」


彼女は何度も彼の顔に触れた。涙で視界が滲んだ。それでも、温もりは本物だった。


アジョラも近づいてきた。穏やかな顔だったが、目には涙があった。


「おかえりなさい、メルベル」


静かな声だった。二十六年分の愛情と、数ヶ月の心配と、深い安堵が、そこにあった。彼女も息子を抱きしめた。三人は玄関で、しばらくそうしていた。


廊下の奥から、使用人たちが顔を覗かせていた。セバスチャンは目頭を押さえ、マーサは手を合わせていた。


「若様が、若様がお帰りになった」


小さな呟き。喜びに震える声。


落ち着きを取り戻したメルベルが口を開いた。


「すまない、アザリア、母さん。ちょっと予知夢でこうしないと、俺たち死ぬってわかってね」


苦笑いを浮かべ、髪をかき上げた。手には新しい傷跡があった。


「ああ、まあ」アジョラが頷いた。「あの話もありましたからね」


「あの話?」アザリアが涙を拭きながら聞いた。


「ほら、予知夢だ。お前も、バビロンで攫われる前に俺が忠告したことがあったろ。お前が無視してバビロン攻略戦になった」


アザリアの顔が曇った。確かに、警告はあった。危険だと。行くなと。聞かなかった。


「ああ、あれ……私が馬鹿だったわね」


自嘲的な笑い。あの判断の代償。


「もう大丈夫そうですか?」アジョラが息子の顔を覗き込んだ。「予知夢の危機は、去ったの?」


メルベルは首を振った。


「最後の仕上げが要る」


革のカバンから古い楽譜を取り出した。血で汚れ、端が破れていた。音符は読めた。


「これは?」


「エクリスが最期に残した曲だ。俺のために作ったらしい。狂った芸術家の、最後の作品」


居間に移動した。メルベルは壁のリュートを手に取った。アジョラが買い与えたものだった。埃を払い、弦を確かめた。


「夢でこれを演奏するところが見えたんだ」


調弦が始まった。ポロン、ポロン。物悲しく、美しい音。


単純な旋律から始まり、複雑な和音が重なった。部屋が音楽で満たされた。


「へー!」アザリアが声を上げた。「メルベル、こんな才能があったなんて!いつの間に?」


「私との休暇中には随分披露してくれたけど」アジョラが微笑んだ。「あなたは初めて聞くの?」


「こんな特技持ってたとは、全然聞いてませんでした。隠し事が多すぎるわよ、もう」


メルベルは息を吸い、歌い始めた。


『孤独な戦士の子守歌』


闇を纏いし、千年の王よ

その剣は炎、その瞳は深淵

恐れ逃げまどう、民の叫び声

戦う者たちも、塵となりゆく


歌声が響いた。廊下へ流れた。使用人たちが集まってきた。息を殺して聞いていた。


我らは求めた、真の英雄を

千年王に挑む、炎の戦士を

だが英雄は選んだ、汚名という道を

愛する者のため、全てを捨てて


アザリアの目から涙が溢れた。メルベルが選んだ道。名誉も栄光も捨てて、愛する者を守る道。


予知夢が示した、甘き微睡みの罠

世界を覆う、蜜のような闇

されど戦士は知っていた、運命の鎖を

断ち切る方法は、ただ一つだけ


アジョラは息を呑んだ。微睡みの罠。その意味を理解していたのは彼女だけだった。


父の剣は折れ、名誉は地に落ちた

臆病者と呼ばれ、裏切り者と罵られ

それでも彼は微笑んだ、家路を歩みながら

真実を胸に、静かに生きると決めて


セバスチャンは涙を流していた。若様の犠牲。今ようやく理解できた。


不滅なるものはない、千年王も同じ

物語は終わり、英雄は消えた

だが温かき家で、家族と共に

新たな朝を迎える、名もなき男がいる


使用人たちは完全に部屋に入っていた。家族の再会だから。


乾杯をしよう、失われた時に

苦難の日々は、今終わりを告げる

血と炎の意思で、愛を守り抜いた

奪われた母の愛を、父の勇気を今取り戻そう


最後の節。声が優しくなった。本当の子守歌のように。


眠れ、疲れし戦士よ

お前の戦いは終わった

母の腕の中で、愛する者の傍で

永遠の安らぎを、今ようやく得る


これは子守歌、孤独な戦士への

これは物語、名もなき英雄の

これは約束、必ず帰るという

これは希望、愛は全てに勝つという


最後の音が消えた。静寂。そして――


「若様!」


使用人たちの声。涙。喜び。


「お帰りなさいませ、若様!」

「ご無事で、本当にご無事で!」

「もう二度と、二度とお離しいたしません!」


メルベルは照れくさそうに、嬉しそうに祝福を受けた。


若いメイドのローザが駆け込んできた。


「あの、申し訳ございません!通信が……ナブ様から、どうしても若様とお話がしたいと」


メルベルの顔が曇った。


「俺はいないって言ってくれ」


「でも、いるのは分かっている、早く出ろと……かなりお怒りのご様子で」


深い溜息。観念して通信機を受け取った。


「なんだよ」


怒鳴り声が響いた。


「どういうつもりだ、メルベル!お前の意味の分からないイタズラで、俺がどんな目に遭っていると思う!?」


「針の筵だ!毎日が針の筵!卑怯者扱いされているのは俺だ!民衆には英雄と呼ばれても、会議室では俺が悪役だ!」


「俺には俺の事情があるんだ。例の予知夢だよ。あれが最善だったんだ」


「予知夢!?また予知夢か!どんな予知夢だ!言ってみろ!どんな悪夢だ!俺は毎日が悪夢だぞ!これも知っていたというのか!?」


「全員死ぬ予知夢だよ。悪気はない」


「なんで手柄を譲れば死なない!?全員て何人だ!俺は今死にそうだ!」


「全員だよ、国の連中全員だ。お前一人で済ませられたんだから上出来だろ」


「そんなわけあるか!セラフィナも死にそうだ!俺たちの心は毎日死んでるんだ!このイタズラ野郎!なんの恨みがあるっていうんだ!」


アザリアは笑い出した。涙を流しながら笑った。この馬鹿げたやり取り。どれほど恋しかったか。


「あはは、相変わらずね、あなたたち!」


アジョラもメルベルを抱きしめながら、通信機に声をかけた。


「ナブ、苦労をかけますが、そういう事情です。我々は、失われた二十六年間を取り戻しながら、今日から本当の休暇に入ります。あとはそちらで、なんとかしておいて」


「アジョラ様まで!」


リーナの声。半泣きだった。


「アジョラ様!いい加減にしてください!やり方が最悪すぎます!予知夢ってなんのことなんですか!?」


「今からミリアさんに変わりますから、早くこの誤解を解いて復帰してください!今、私がなんて言われてるか分かりますか!?メルベルさん!」


「私、ルカヴィ扱いされているんですよ!?お前もルカヴィの仲間だろうって!冗談じゃありません!議会に戻って証言してください!」


「あー、そっちから書類でも送ってくれ。『嘘ついてすいませんでした』って書いておく。じゃあな」


「ちょっと!メルベルさん!」


通信を切った。静寂。


「……ちょっと疲れた。寝たいが、俺の部屋は?」


「若様、こちらでございます」


セバスチャンが先導した。しかし、すぐに廊下に声が響いた。


「おい、セバスチャン、なんだこの服。クローゼットに女物が入ってるぞ」


「そちらはアザリア様のお召し物でございます。若様のお召し物はこちらに」


「いや、待て。なんで同室に俺の服があるんだ?ここ寝室だろうが」


「それはそうでしょう」


「ベッドがなんで一つなんだ?俺のベッドは?」


「何をおっしゃいますか。アザリア様がお入りになったのですから、当然でございましょう」


「どういう意味だそれは」


アザリアとアジョラは顔を見合わせて微笑んだ。アザリアの頬は赤かった。


「ねえ」アジョラが悪戯っぽく言った。「もしかしてあなたたち、まだ寝てないの?」


アザリアの顔が真っ赤になった。


「え、えっと……その……ええ……」


俯き、髪を弄った。可愛らしい仕草。アジョラは笑った。


「まあまあ、急かすわけじゃないけど。孫は早めにね。私も、もう若くないから」


「お、お義母様!」


アザリアは顔を覆い、縮こまった。


遠くで、メルベルの声。


「だから、なんで俺の枕が一つしかないんだ?」

「若様、大人になってください」


夜が更けた。久しぶりに賑やかな声が響いた。笑い声、諍いの声、幸せな溜息。


千年戦争は終わった。英雄は消え、臆病者が残った。世間はそう信じている。


しかし、この小さな家には真実がある。


窓の外、秋の星座が瞬いた。予知夢の破滅は回避された。


アジョラは窓辺に立った。


「ガレス」


亡き夫に語りかけた。


「あなたの息子は、立派に育ちました。あなたが守ろうとしたものを、全て守り抜いて」


風が吹いた。カーテンが揺れた。誰かが頷いたかのように。


夜が更けた。屋敷は静寂に包まれた。


メルベルの部屋では、長旅の疲れから深い眠りに落ちていた。規則正しい寝息が響いた。


アザリアがこっそりと近寄ってきた。足音を立てないよう歩いた。月光が窓から差し込み、メルベルの寝顔を照らしていた。


息を殺しながら、ベッドの端に腰を下ろした。メルベルが起きないことを確かめ、ひっそりと横たわった。彼の温もりを感じながら、静かに寄り添った。


そして目を瞑った。


彼女は夢を見る。冒険の夜の夢を。メルベルの腕の中で過ごした、あの危険で輝かしい日々。


甘い香りの微睡みに包まれて、二人は静かに眠る。


〈完〉

第一部「聖火巡礼編」完結です。

お読みいただきありがとうございました。


没落した巫女アザリアと、無愛想な傭兵メルベル。

死を覚悟した巡礼の旅は、千年王ギシュガルを討ち、

帝国建国という伝説の始まりとなりました。


二人の物語はここで一区切りとなりますが、

彼らの血は途絶えません。


第二部「継承の炎編」では、二人の子供たちの物語が始まります。

引き続きお付き合いいただければ幸いです。

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