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美容整形  作者: のりた
3/4

彼のため

     九


 ヘヤースタイルを落合に見せたくて、わたしは京浜東北線に乗った。電車は神田駅を出たので次が秋葉原と思えば心が弾む。わたしは想像していた。

『きれいになったね、とても似合うよ』

 それか、

『水木さん、今晩は僕の家に来ないか』

 と、都合いいように落合のセリフを妄想していた。でもそう言ってもらわないと困る。仮面であるがお金も掛かった顔であり、たった一日でわたしの心は落合へ入ったから。

 秋葉原西口を降りると肩に掛かるバッグを手につかみ早足になった。スニーカーだったのも都合はいい。もう少しで会えると思ったとき、あっ、と。大森駅に落合の自転車は置きっぱなしであり、きょうは休みと聞いた。昨夜は酔って聞いていたので記憶が定かでなく、それに髪型が決まり舞い上がって忘れていた。

 自然と表情が冷めていき、自分の早とちりさにあきれた。

 家にいるなら電車の中でメールを打とうと思うが、こっちからのメールも気が引ける。正直、しつこい女とも思われかねない。

 車中で考えるが、どうしても報告をしたく、落合へこの姿を見せたい。

〈こんちは。昨晩はどうもお世話になりました。けさはハローワークへ行き、面接の予約もしました。仕事は明日わかりますよ。だからあえて控えときます。その後、美容院へ行きました。ちょっと見栄えが変わりました。落合君はきょう休みだったね。なにしてたのかな?〉

 月曜の日中は電車も空いていて、主婦やサラリーマンの姿がいすに腰掛けている。正面に座るワイシャツ姿で四十過ぎの男性は何度もこっちを見ている。理由はわかるが、年が行き過ぎていてわたしの対象ではない。でも見られるというのは気分よく、持てる女はこんな感覚になっていたのかと、まるでスターになった気分だった。

 メールを送って十分ほどたつが落合から来ない。一時半では昼食も食べてそろそろ自転車を取りに行くころではないのか。それかカメラマンを目指しているので朝から取りに行き、自転車で撮影場所を探しているのかもしれない。

 夢のある人は素敵に思う。わたしなど顔の整形が夢だった。よく考えるとそんなの夢でもなんでもない。自分の顔にメスを入れ仮面をかぶるのだから。落合に言われて覚めたが、こうして正面の男性が見てくれるので、やっぱ得をしたのか。

 手に握る携帯が振動する。素早く表示を見ると落合なので、わたしは顔を緩ませた。

〈こんちは。昨夜はどうも。仕事も見つけ、美容院行くなんて気分が治ったようだね、活発的じゃん。僕はどこにいると思う? たぶん驚くなぁ……なんと熱海です。もちろんカメラ持参でね。自然や風景を撮りにきました。けさは七時に家を出て、新幹線で来たよ。もう何枚も撮ったけど、まだ納得のいく一枚が足りないな。熱海は坂道が多くて汗だくだよ。もうちょっと撮ってきます〉

 やっぱ出かけていたのか。カメラマン目指すのなら行動力がなくてはならない。休みのたび、いいネタを探しにあっちこっち巡っているのだろう。そんな落合を思うと自分も一緒に連れてってほしくなった。

〈すごーい! 落合君って素敵です。じゃまかもしれませんが、今度わたしも連れてってください。なにかのお手伝いになればいいと思います〉

 落合へ送ると、次が大森駅である。正面の男はチラチラこっちばかり見るのでドアへ立った。

 ホームへ降りると、その男も降りたのが視界に入った。歩きながら振り返ると二人目の後ろにいる。わたしを追い掛けているのか。

 ストーカーではないだろうか。

 偶然ここで降りるつもりだったのかもしれない。改札口を出て様子を見ることにした。

 改札口をくぐると駅ビルの中に入った。後ろを振り返ると男はいなかった。はぁー。ため息をつくと勝手な想像に後悔の念もある。

 多少は追い掛けられたい。今まで一度も男は追ってこない。整形をして世の男の単純さが身にしみてわかった。もてる女はこれを小学時代から体験していて、大人になれば飽き飽きするのもわかる気がした。

 時間もまだ早いので、このまま駅ビルをぶらつくことにした。

 服のウィンド越しに見ては、うろついていると履歴書がないことを思い出し、ビル内に事務用品屋を探すがなかったので、コンビニへ行こうと駐輪場へ急いだ。

 自転車へ乗ったとき、ジーンズのポケットに振動が伝わった。止まってスマホの表示を見ると落合だった。

『ごめん、大変なことになった』

「どうしたの?」

 落合の息は荒く、なにか事態があったことを感じる。

『サイフを網代港の岸壁から落としてしまったんだ。それで頼みなんだが……、お金を貸してほしい』 

「えっ、サイフを落とした?」

『ああ、申しわけないけど……熱海まで来てほしい。帰りの電車賃もないんだ。ここまでの費用は全額払うから。家に電話してもだれもいないし……』

 落合の一大事で、わたしを頼っている。

「わ、わかったわ、熱海までいくら掛かるの?」

『片道四千円くらいだったから、水木さんの往復代も入れてね。参ったよ。幸いキャッシュカードはなかったからよかったけど、二万は入ってたよ』

「そんな……。わかったわ、急いで行く。あとはメールで聞くわ」

 スマホをしまうと急いだ。残り少ない貯金を下ろしに郵便局へ行かなければならない。突然後ろから声が掛かった。

「あの、君を一目見て清楚できれいと思いましたよ。できればお茶でもどうですか?」

 振り返るとワイシャツ男だった。今までどこにいたのだろうか。

「いま、ちょっと忙しいので」

「どうしたの、さっきより顔色が変わったようだね」

 この男はどこから見ていたのだろうか。

「とにかく、電話で彼が一大事なのよ。わたしに寄り付かないでください」

 わたしは声を大にして言った。駐輪場に声が響いてほかの者が一斉にこっちを見たので、男性は驚き小走りで駅方面へ向かった。

 考えている暇はない。急いで郵便局へ行かなければならなかった。



 わたしは郵便局で三万下ろすと、二度目の大森駅に来た。急いだせいで首まわりは汗がびっしょりだ。さっきの男がまだいるかもしれないので駐輪場を警戒して入った。が、大丈夫だった。

 品川で都合よくすぐひかりに乗れた。でも座席は込んでいる。東京から乗ればいい席へ座れるが、三席並ぶ真ん中だけ空いていた。

 両サイドは五十代のオヤジだったが仕方なく座った。

 熱海まで一時間も掛からず、四時を過ぎたので五時には着くだろう。この髪型を落合に見せることができるのを思えば、心が弾む。

〈今新幹線に乗ったよ。待っててね〉

 わたしは頼られたことをうれしく思い送信ボタンを押した。

 すると、すぐに振動音が鳴った。

〈ありがとう。水木さんに再会しててよかったよ。サイフより大事な物は落とさなかったから、まだ一安心。わかるね、カメラだよ〉

 そうか。彼の大事なものといえばカメラになるのか。たぶん高価な物だろう。カメラマンはケースの中にカメラを入れているので、持つ荷物が多いのではないか。それでサイフに気が回らなかったのかもしれない。

〈ネタが入っているからね。駅にいてよ〉

 落合は今どこにいるのかもわからない。タクシーにも乗れないので、歩いて駅へ向かっているのだろうか。すぐ握り持つ携帯が振動した。

〈もう改札口にいる。来たらご飯ごちそうする〉

 昨日もごちそうになり、それにきょうもおごられるとは。でもわたしのお金でごちそうになるのは変な話しでもある。

〈わたしのお金でごちそうなのね〉

 と調子づいたことを伝えてみた。そうだった、明日は面接があるためスーツを出さなければならない。それに履歴書も書かなければならなかった。食事するというから、順調に帰って八時ごろか。

 そう思うと眠くなった。

 なにか当たって目が覚めるとの親父の肩だった。

「あっ、すいません……、今どこですか?」

「小田原を出て、次が熱海だよ」

 わたしは一呼吸した。

「そうですか。ありがとうございます」

 危なかった。親父の肩に当たってなければ、まだ寝ていただろう。

 落合からメールも入っていた。

〈四時五十二分に着くのかな?〉

 十五分前のメールだった。

〈ごめん寝ていた。もう着くよ〉

 昨夜会ったのだが、どこか違う感情が高ぶっていた。恋人に会うという気持ちが弾むとでも言うのか。恋など無用の人生だったので、わたしは今が幸せということになる。

『まもなく熱海……』

 車内放送が流れた。改札口では首を長くして待っている落合の姿を浮かべた。

 ホームに降りると、急いで改札口を目指した。秋葉原まで会いに行くと休みを知り残念だったが、別の形できょう会える。

 改札口に目を向けると、左の隅で手を振る落合がいた。わたしも手を振って近づくと胸が高鳴っていた。

 改札口をくぐると彼が言う。

「ごめんな、ここまで来てくれて。なんか昨夜より雰囲気変わったね。目か合ったときちょっと戸惑ったよ。美女が現れたと思った」

 第一声に変わった様子を言われ、わたしはモジモジと照れた。

「ありがとう。落合君が初めに見た人なの。突然の電話でまだ家に帰らなかったし、そのまま郵便局で下ろして来たから」

 ヘヤースタイルを最初に見てくれ胸が躍っていた。急いだためできたてより少しは乱れているが、いちばんに見せたかったので満足だった。

「わるかったよ。サイフを胸ポッケに入れとくべきじゃなかったな。ズボンに入れとくと座るとじゃまでね」

 彼の襟のあるシャツを見ると、両方に胸ポケットがあり、ボタンがついている。右には携帯が入っていて、ボタンをとめている。が、左はボタンをとめてない。

「左側に入れてたの?」

「そうだよ。たばことサイフをね。しっかりとボタンとめなかったのがわるかった。あーあっ、ついてないよな」

 でもそのおかげで落合の役に立てた。

「じゃ、これ少ないけど」

 といい、落合へ二万五千円を渡した。

「こんないらないよ。帰りの汽車と、まぁいいか。じゃ、水木さんにこっちに来てもらった新幹線代合わせて三万返せばいいんだね。お借りします」

 彼は頭を下げると、足もとにあるクーラーボックスよりふた回りは小さいカメラケースを持った。背にはリュックを背負い、カメラマンそのものにも見える。

 五時を回ったが食事にはまだ早く、落合はぶらつこうと言った。

 熱海駅の外には旅館やホテルの旗を持った番頭さんだろうか、数人いる。落合にも声を掛けていたが断っていた。新婚夫婦にでも間違えられたのか。

 落合からきょうのことを聞きながら歩いていると、坂道が多いことに気づいた。彼に聞いたが、さすがに首もとが汗ばむ。これでは山に街があるようで、ダイエットにはいいのかもしれない。

 商店街なのか、おみやげ屋があっちこっちにある。駅からそう遠くない、チェーン店の居酒屋で落ち着くことにした。

 中に入ると客はまだろくにいなく、落合はカウンターにしようという。昨夜とお酒が続くし、明日は面接なので控えことにした。

「わたし、明日面接だから、ジュースでいいかしら」

「そうだったね。ご飯がてらだから、僕もそんな飲まないよ。ちょっと暑くてビール飲みたいだけ」

 わたしはジュースと焼きそばあたりで十分である。

「きょうさ、落としたの網代だったもんで帰りは干物屋さんの軽トラに乗り熱海駅まで送ってもらったんだ。けっこうここから距離あってね、歩いたらまだ着かないだろうな」

 食べるものは焼きそばを伝え、ほかの注文は落合に任せた。

「そうだったの、飛んだ災難だったわね。でもわたしは苦ではなかったわ」

「なんで? せっかく面接予約も決めたし、美容院だって行ったんでしょ、来てくれるとは思わなかったよ」

 たしかにいろいろ行動し、秋葉原にも向かったくらいだ。疲れたといえば疲れたが、落合に頼られて苦でもなかった。

 飲み物が来た。彼にジュースを注がれグラスをつけた。

「ううん、頼られて昨夜だっていろいろ教えてくれたし、困ってたんだから向かったわ。それに……返事まだだったけど、今度撮影に連れてってもらいたいなと思って」

 のどまで出掛かった言葉を飲み込んだ。

「そうだったか、ちょうど動いてたときで、そのあと落としたもんで返事の余裕がなかったよ。来るのはいいけど、動き回る行動が早いからついて来れるかな。撮影で観光箇所に行くときはあるけど、ほとんど見ないよ。それでいいなら来てもらったほうが助かる。でも荷物持ちだけど」

「いいわ、それで。わたし話しちゃうわ。実は明日の面接は〈ヤマノ〉なの」

 意表をついたのか、彼は目を丸めた。

「へぇー、ちょっと驚いたな。なぜまた〈ヤマノ〉を選んだの?」

「スマホ買ったときは親切だったし、どこかの家電屋さんみたく大声でもないし、今まで店員など夢な職でもあったの。それに正社員を募集してたのもあるわ」

 本音はあなたもいるからと言いたいが言えない。こういうときはアルコールの助けがいいものか、彼は平然とビールを飲んでいる。

「そうだったか。勤務はどこになるの?」

「本店か、横浜だけど、本店がいいわ、だって落合君もいるし」

 ここで出しても、同級生がいると思うくらいだ。でもさり気ないことに本音が入っているので満足でもあった。

「うれしいこと言ってくれるけど、僕と同じところではないよ。テレビ場は間に合っていて、本店なら三階のパソコン関係だろうな。けっこう新製品がすぐ出るから覚えるのが大変かもよ」

「えっ、パソコン? 覚えるのが多そうね」

 ジュースをちびちび飲んでいると、いいにおいの焼きそばが来た。

 昼も食べなかったので、すぐにでも食べたい。が、落合には下品なところを見せたくはないので、まずは彼のほうへ寄せて、自分は小皿へ取ることにした。でも落合がこっちへ寄せつけ食べなと言う。

「本店はパソコン関係だから期待しないでくれな。でも社員だからさ。それに水木さんの美しさなら客も増えそうで、かえってパソコンのほうがいいかもしれない。一応、今でもパソコン関係は人が集まるからね。あっ、面接明日だっけね、それ食べたら帰ろう。履歴書は書いた?」

「客が増えるなんてうれしいわ。履歴書はまだなの、コンビニで買おうとしたとき電話掛かってきたから」

「そうか、じゃ、帰りに買って新幹線で書きなよ」

 その手があった。そうすれば自宅へ帰れば、スーツを出し風呂と寝るだけで済む。

「そうね。ねぇ、わたしってきれいになったの?」

 今聞いた落合の言葉から、もう一度たしかめたい。

「きれいになったよ。だって目や鼻、輪郭とヘヤースタイル。百点だと思う」

 どういうこと? 自分のことを好きでいてくれるのか。百点なら口説いて欲しい。もしかすると好きな人でもいるのか。それか、婚約者でも……。 

「百点なら、どうにかしてくれない?」

「どうにかって、まさか、だれか紹介しろというのか?」

「もうー。ところで落合君って恋人はいるの?」

「今はいない。でも、気になる人がいるんだ」

 ギクッとした。もしや同僚だろうか。それか昨日知り合ったばかりの自分を気になるとでもいうのか。いずれも答えは、わたしか他人になる。

「えーっ、だれかな?」

 落合はまだ一杯目ジョッキなので、聞くには相当飲まないと言いそうにもない。

「それを聞きたいならお互いいい合いでもする?」

「……いいわ。その代わり甘いチューハイを飲むわ」

 もし、自分ではない場合にそなえ、酔ったほうがいいと思い頼むことにした。

 落合はビールの追加で、自分はオレンジサワーを頼んだ。

 サワーがきて一口飲むと甘さと少しの苦さがのどにしみた。でもこれなら飲めそうだった。

 だれに好意があるのか話す前に、きょうのことを話した。美容院から〈ヤマノ〉に向かったこと、大森駅で怪しい男につきまとわれたことを。落合は仕事場へ向かったと聞けば表情を変えるのかと思い窺っていたが、そんな素振りは見せず話す前と同じ顔である。

 わたしに興味がないのか、それかわざとその素振りなのか。

「ストーカーされたんだな。やっぱ水木さんは美人になったからね。ちょっと酔いが効いてきたよ。一日動き回ったから疲れたのかもしれない。それにサイフ落としてあたふたしたから、今がほぐれた感じ」

 わたしはすぐにでも寄り添いたかった。なぜ自分がここへ来たのかわかっているのだろうか。

「ねぇ、落合君の好意ある人ってだれ? 教えて」

 サワーを三分の一飲んだが、すでに頭がふぁっとした。

「僕から言ったから、話すよ」

 というと、テーブルでほおづえをつく右手ではなく、グラスを軽く触る左手を握られた。わたしは一瞬のことでハッとした。

「君だよ……」

 落合は握った手を離さず、ジッと見つめてきた。


      一〇


 新幹線内では焦点が定まらなかったが、わたしは明日のために履歴書を書いた。その後は窓側に座る三十代ほどの人に遠慮なく、落合へ寄り添った。真ん中に座る彼も顔を右へ傾けているので、熱々カップルに見えるのではないか。

 居酒屋で告白され、自身も告げた。お互い意気投合したので、その場でも寄り添った。サワーを飲み干したころ、今までにない幸福感を味わっていた。学生時代のいやな思い出を一瞬にして吹き飛ばしてくれた。それはクリニックで包帯を外したときを抜く幸せだった。と言っても、すべては整形のおかげである。以前の顔立ちなら落合はたぶん振り向かないだろう。お金を何年も貯め、整形したからこそ得た祝福のときとわたしは感じる。

 いつまでもずっとこのままでいたい。頭がふわりとする状態で、目を閉じそんなことを彼の肩で考えていた。

「ねぇ、なにか言って」

 わたしは甘えた小声を出した。告白されてから彼の口数は減った。

 照れて話さないのかと思えば、黙っていよう、という。

 落合はロマンティストなのかもしれない。わたしはそんな彼に合わせて黙っていたが、なにか話しもしてほしかった。

「そうだね、きょうはうれしかったし、同じ気持ちでよかったよ。君が顔を変えたからというわけでもない。心が純粋な人がもともと好きなんだ」

「ほんと?」

「ああ、ときには駅や街で水木さんを見たんだけど、ずんずん行ってしまうし避けているのかと思ったから、なかなか声を掛けられなかった」

 たしかに以前のわたしは、道を歩くのも速く、自転車もさっさと走った。遅いと自分の顔をジロジロ見られるのではないか、という被害妄想にもなっていた。うつむいて歩き、落合の存在自体を知らなかった。以前の自分でも声を掛けてくれそうだったことを聞くと、より気が高揚し、彼の手を握った。

「だってあの顔だったもん」

「なぜだよ、ぜんぜんおかしくない。むしろうつむいていたりしてたから、そっちのほうがおかしく見えるよ。堂々してれば自信がついていたと思う。僕も声掛けるしね」

 そう言われても今さらではもう遅く、この顔だから堂々できた。

 以前ではどうあがいてもうつむいて同じ態度になる。

「それなら早く声掛けてくれればよかったのに、と言ってもね。自信なかったから。ねぇ、わたしのこと水木じゃなく下で呼んで」

 少しずうずうしいかもしれないが、告白したのだから、〈水木さん〉では変である。下で呼ばれたことなど家族以外いなかった。

「んっ、まだ早いよ、なんかこっちが照れるな」

 新幹線は横浜を出たので品川は次だった。

「いいじゃん。呼んで」

 自分で強制的に言わせるのも変であるが、酔いを借りて出た言葉だった。

「あつこ……」

 小声を耳もとで言われた。思わず耳に息が掛かりくすぐったく鳥肌がたった。

「ありがとう」

 落合の名は正明である。こっちが言うことを考えると、やはり〈正明〉といいづらい。でも初めて言われうれしいのに越したことはなかった。スマホが鳴った。表示画面は母である。

 品川に着くと九時半だったので急いだ。きょうは家から出っぱなしだった。母はどうしたのかと心配で電話を掛けてきたので、夕飯を済ませたことと、友だちがお金を落とし貸したことを話し、落合も電話に出すとどうにか納得した。

 駅構内から落合と手をつなぎ、京浜東北線まで歩いていると声が掛かった。すれ違ったようで振り向くと、

「藤岡さん……」

 あの怪しげな顔が笑みを浮かべ立っている。わたしは一瞬ホラー映画でも見ている心境に陥った。

「へえー、デートというわけか。まあ、またなにかあったら電話でもしてね」

 というと、藤岡は振り返り人込みへ歩き出した。

「だれ、いまの?」

 落合は怪げんな表情で聞く。

「昨夜、話しに出た水商売のスカウトマン」

「ああ、あの話の。ちょっと危ない雰囲気だ。ダメだよあんな者とかかわったら」

 落合はみけんにしわを寄せて言う。

「でも、いい人だよ。相談事も聞いてくれて」

 藤岡は必ず稼げるからやりなさいと強制もしないし、すべての判断はこっちに任せてくれた。そのうえなんでも相談に乗ると言ってくれたので、わたしはわるい人とは思ってない。でも落合から見れば風体のわるそうな藤岡だ。初対面なのでいい顔をしなかった。

「いや、それが狙い目かもしれない。ああいう連中は、優しくしてつらい目に合わせるからね。そんな業界だからさ」

 わたしはそう思わないが、ここは落合に合わせたほうがいい。

「わかったわ。それならかかわらないようにするね」

 とびっきりの笑顔を向けると、落合の表情は緩んでくれた。



 お互い自転車だったので、駅からの帰りは早く、落合とビール工場まで帰り道は同じだった。そこで別れた。少しふらつきながらの自転車走行であるが、ゆっくり走った。告白し充実した一日に満足と思い、鼻歌まで出てしまった。

 自転車を門の中に入れ、自宅のドアを開けると父が鬼のような顔で玄関にいた。

「なによ」

「遅いぞ、何時だと思っている!」

 突然父が怒鳴った。十時であるが、とても遅い時間ではない。

「まだ十時じゃん、なによ、たまに遅くなっただけじゃない」

 靴を脱ぎ、父の横を通ろうとすれば腕をつかまれた。

「男といたらしいな。なにしてたんだ、整形したので引っ掛けられてでもいたのか?」

「そんなんじゃないわよ、放して」

「じゃなんだ、熱海まで日帰り旅行か。仕事も辞めたらしいな。おまえまた酒飲んだのか、におうじゃんか、男と遊んでそんなに面白いか」

 わたしはムッとした。日帰り旅行でも男遊びでもないことで頭に来た。

「なに言ってるの、そんなことするわけないでしょ」

 腕を振り払うが、強く握っていて痛い。

「いつもは、こんな遅くないだろ。そんな整形で変わりたいなら出てけ!」

 父はわたしの腕を投げるようにしたので、にらんでやった。出ていけと初めて言われ、サァーと顔が冷めていく。

「ちょっと、あなた言い過ぎだわ」

 母がリビングから現れ、後ろから言った。でも父は振り向かなく自分をジッとにらんでいる。

「わかった、出てく」

 わたしは靴を履きなおし、ドアノブに手を掛けると母が言った。

「温子、本音じゃないからやめなさい」

 こんな父と一緒に住んでもいいことはない。出ていけというなら今出ていくしかない。頭に思い浮かぶのは落合の顔だけだった。

「温子」

 母の声が響き渡った。が、ドアを閉めると静かになった。わたしはスマホのメモリーをいじった。

『どうした?』

「落合君、父とけんかになり家を追い出された。泊めて……」

『えっ、泊まる? でも明日面接だから、早く休んだほうがいいって。それにぼくっち泊まっても朝帰らなければならないじゃん。よけい父親は疑うじゃないか』

 なぜ反対なのか。自分のことを好きと言ってくれたのに。

「わたしのこと……好きでしょ?」

 今は家を出た以上、後戻りはできなかった。

 もしここでダメといわれればどうしよう。でも明日は面接がある。

 スーツも着ないとならないし、シャワーも浴びたい。

『わかった。今どこにいる?』

 わたしはホッとした。まだ自宅前を伝えると迎えにきてくれるという。でもそれではわるく、わたしも自転車で別れた場所に行くことを伝えた。

 自転車で電柱に寄り掛かるのがそうだろう。わたしは髪を手で正した。

「落合君」

 さっき別れたばかりの落合に手を振ると、彼も手を上げた。近づくと格好もさっきと同じ。それもそうだ、家に着いたとたんにわたしからの電話だ。

「ごめんね。頼れるのは落合君しかいないから」

「いいよ、おれだってきょう頼ったんだ。それに困ったとき助け合うのが恋人じゃないか、きょう告ったばかりだけど頼ってくれ」

 わたしはその言葉に愛情を感じ、背中に抱きついた。昨夜の自転車で背中へ寄ったときを思った。

「わかった。じゃ、行こうか。あっ、その前に借りたお金返すね」

 わたしは頭を下げて受け取った。そして自転車二台で落合家に向かう。彼の親はどう思うのか。十時を回って女を連れ込めば驚くのではないか。

 公園を通り越し、落合と東方面へ並走で走るところ五分。彼は前方に立つ六階建てのマンションを指した。

「あれだよ。五階がぼくっちだけど」

 てっきり一軒家と思っていたので少し調子抜けした。

「マンションだったんだね」

 集合住宅ではそれほど広くない。よくて三部屋と思う。それに築年数もたっているように見える。これではすぐ両親に見つかるのではないか。

「あそこが駐輪場だから」

 落合は導いてくれ、手をつないでエントランスに入る。古いマンションなのでオートロックはなく、自由に出入りができる。

 エレベーターを閉めようとすれば、四十代ほどのサラリーマンが小走りで入って来た。

「こんばんは」

 落合は声を掛けた。が、彼は会釈程度だった。四階でその人が降りると再度手をつないだ。今夜、彼に包まれ女になる決意でいる。

 いったい両親はどう思うだろうか。手をつなぐ落合の腕時計は十一時前だった。

 五階のドアが開くと、小学校低学年の子供が三人いた。一瞬目があったので、手を放した。

「のりこがまたないててうるさいから、にいちゃんがかえってくるの、ここでまってた」

「そうか、きょうはお客さんが来たからね。一日泊まるんだよ」

 落合はジーンズを引っ張られている。そしてわたしを見るとにやけていた。兄弟か。男の子二人に女の子一人、部屋にいるのは〈のりこ〉と言ったから女の子もいるのだろう。五人兄弟なのか。でも随分と年が離れている。

 わたしは意表をつかれ、気分が落ちた。夏休みだからこの時間に起きているのか、それとも子供が泣いたからか。

 両親はどうしているのだろうか。子供たちは落合のズボンと手を引いているので、先に入っていく。わたしはひとり玄関で待つ身となったので場違いにも感じた。数十秒たって彼が現れた。

「ごめんね、こんな家庭なんだ。実のところ母が再婚してね、僕が高校へ入ったころだった。それから子供が増えてさ、僕を入れると六人兄弟なんだ」

 予想より多く目を見開いた。そんな子供がいるのなら初夜は当然むりだった。玄関には何足も小さな靴が散らばっている。それぞれ同じ靴を落合が並べていて、それを見ていると苦労しているのがわかった。

「さぁ、入って」

 小さな靴のすき間に自分の靴を置き入った。洗面所にトイレを通るとリビングに出た。そこに布団が三つ並んでいる。幼稚園ほどの女の子が泣いていたのだろう。涙目だった子は泣きやみ、わたしの顔を見ている。

「こんばんは、水木といいます」

リビングにいる子供たちは一斉にわたしを見た。さっきの三人が兄や姉にあたり、泣いた女の子と男の子は妹、弟のようだ。

「きょうは、お姉ちゃんが泊まるから、みんなあいさつしてね」 落合がそう言うと、こんばんは、とぶつぶつ言う子や声を大にす

る子もいた。

「ということだから、よろしくね。こんな家庭でごめんな」

「いいわよ。わたしが勝手なこと言ったのだから」

 というが、正直予想を大きくくつがえされた。ロマンティックな

彼のベッドで女になる決意だったが、これではむりのようだ。

 今さら自宅へ帰るなど言えない。仕方なく子供たちの相手をして

寝ればいいか。

「ねぇ、ご両親は?」

 落合は小さな子供の横で添い寝し、絵本を持っていた。早く寝かせようということだ。でもテレビの前ではほかの子供たちがテレビゲームをやっている。

「母はスナック経営で、義父は単身赴任で京都にいるよ」

「えっ、じゃ、夜は子供の面倒を見てたのね。昨夜は飲みに行って大丈夫だったの?」

「大丈夫だよ。横の家族がうちの母と仲いいもんで、たまに様子見たり、自由に行き来しているんだ。ただ、さっき下の人とエレベーターで会ったじゃん。あいさつしても答えなかったでしょ、うちの真下の人だからだよ。ドタバタうるさいようで、管理人から何度と苦情言われているよ。でも仕方ないよな、こんな子供いるんだから」

 わたしもそう思う。大家族番組を見ているとドタバタしているし部屋は散らかっていて、親の大変さがわかる。しかも子供たちは食べることが我先にと身についていて、生きるための極意を自然と教えられる。それで走り回り響いてしまう。

「そうか、落合君は苦労人なんだ。なんか大家族みたくてジーンとするよ。ねぇ、部屋はどこなの?」

 落合は二つの戸がある内、奥の戸を指した。わたしはすぐに見たくなり戸を開けた。

 落合のベッドはわかるが、二つの布団もあった。ゲームをする男の子の布団に違いない。六畳ほどにはタンス、机があり、服が散乱していて、ロマンティックとはいかなかった。

 わたしはバックを置くとすぐに出た。

「落合君、シャワーいい?」

「いいよ、ずんずん使って。バスタオルと洗うタオルはそこので、シャンプーや石鹸は入っているから。子供たちが入ったから、おもちゃで散乱してるけど我慢して入って」

 大家族に近いのだから仕方がなく思うと、そこへ電話が鳴った。

 温子は洗面所へ向かい表示を見ると母だった。

『あんた、どこにいるの?』

「友だちの家、朝帰るから心配しないで」

『友だちってさっきの電話出た人でしょ。大丈夫なの?』

「大丈夫に決まってるでしょ、子供たちが多くて、こっちの面倒見なくてはならないかもしれない」

『そう。もう、父さん寝たと思うから、帰ってくればいいのに。と言っても心配で目は開いているんじゃないかな?』

「なら、あんなこと言わなければいいのよ。今夜は言ったバツでわたしが出たと思えばいいの。とにかく朝帰るわ」

 といい、勝手に切った。

 風呂場に行けば、水鉄砲、ビーチボール、積み木、ヨーヨーなどおもちゃだらけ。全部隅に追いやり、狭いスペースでのシャワーを借りた。これでは家に帰ったほうがよかったかもしれない。

 わたしの寝る場所もどこかわからない。落合のベッドはわたしと似ていてパイプベッドのシングルだ。とても二人で寝られないスペースだった。その下には小さな二つの布団があり、わたしはどこへ寝るのだろうか。

 シャワーから上がると下着を忘れ、着けるか迷った。ブラはつけてもパンツはいやなので着けるのをやめ、ジーンズに着がえた。

 パンツをバッグへ隠そうと、そのまま部屋に行けば、子供たちが寝る体勢だった。

「ぼくっち寝るのね。わたしはどこなのかな」

「おにいちゃんのベッドでいいっていってたよ」

 寝ながら一人の子供が言う。

「どういうこと?」

 といい、部屋を出た。

「ねぇ、わたしベッドなの?」

 落合は寝かしつけた子供の横にタオルケットを引いていて、カメラの本を読んでいた。

「ああ、ベッドで寝ていいよ」

「でも、自分ばかりわるいよ。それに……、一緒にいて」

 あの狭いベッドでいいから、一緒に寝てほしかった。処女を捨てなくても初めて好きな男と寝たかった。

「わかった。でも母さんが深夜に帰ってくるし、変に思われるよ。まあ酔ってるけどね」

「そう、店ってどこなの?」

「競艇場のほうだよ」

「じゃ、競艇やった人も来るんじゃない?」

「そうみたい。でも馴染みになると料金つける客もいて金払いがわるいらしいよ。商売にならないってね。そういうときは義理の父が電話する。あまり払いがわるいと民事裁判へ持っていくというと、慌てて払うよ。軽い脅しなのにね。だけど中にはどうぞ、訴訟してくださいという客もいるんだ。でも内容証明送ると払ってくれる」

 落合の家庭もやりくりが大変のようだ。子供がこれほどいるのだから、少しのお金でも大事だろう。わたしは誤解していた。彼は一人っ子で、困った素振りを見せずにカメラマンを目指しているので、お坊ちゃんタイプなのかと思った。が、実際は火の車状態ではないのか。

「そうだったの。ところで父さんはなにをしてるの?」

 落合は起き上がりキッチンへ向かった。

「建設会社の現場監督だよ。コーヒー飲む?」

「うん。現場監督ならたくましいわね」

 建設関係なら、恐持て顔と思うので支払うのではないか。ちょうど藤岡の顔が浮かんだ。

「そうでもないよ。痩せていてどこが現場監督だって思う。あれじゃ、職人や作業員のほうにどやされそうかもな」

 藤岡の顔を想像したので、ほかの顔が浮かばなかった。

「そう。でも家庭を助けてくれるんだから」

「当たり前だよ。みんな義父さんの子だから」

「フフフ、そうだったね。でも落合君って優しいし、いい兄ちゃんと思うわ。いろいろ教えてもらい相談にも乗ってくれ素敵な人と思ったけど、もっと見直しちゃった」

 わたしはキッチンで落合の背に抱きついた。すると彼は振り向き、キスをしてくれた。初めてのキスだった。

 彼に寄り添いテーブルでコーヒーを飲むと、シャワーを浴びると言った。わたしは部屋へ行くと、子供の寝顔をたしかめた。この服では寝られない。ジーンズとTシャツを脱ぎ、彼のベッドにあったパジャマを着た。そして横たわっていると、まぶたが重くなった。


      一一


 体が縛られている感じで動けない。目を開ければ一瞬見慣れないところだった。横にはTシャツとトランクス姿の落合がいる。そうだった、彼の部屋に泊まったのだ。ベッドスペースへギリギリに寝ていて、枕もとにある時計はちょうど六時半を差す。網戸だったので寝苦しいことはなく熟睡できた。

 起きようとすれば、落合を起こしそうである。彼は約束どおり一緒に寝てくれたことに、まだこうしていたい気持ちもあるが、いずれ子供が起きるだろうから、わたしは起きることにした。

「あっ、ごめん。起こしちゃった」

「おお、おはよう……」

 落合はかすれた声を出し、一度目を開けるとすぐ閉じた。寝顔がかわいらしくなり、彼に寄ると頬にキスをした。でも彼は気づかなく静かな寝息を立てだした。

 どう家から出ようか。落合の母は熟睡と思うが、リビングに寝る子供たちは起きているだろう。歯は自宅で磨くことにする。

 静かにパジャマを畳んでいると、子供がひとり目を覚ました。

「ごめん起こしちゃった。お姉さん帰るからね」

 ひそひそ声で言うとうなずいた。まだ寝るようでタオルケットにもぐった。

 ジーンズとTシャツに着替えれば、部屋の戸を静かに開けた。

 テレビの音がするので母が起きているのか?

「おはよう」

 子供にひっそり言った。女の子ひとりが起きていて、アニメを見ている。ほかの二人はまだ熟睡中だった。

「お姉さん、帰るからね」

 手を振ると、女の子も手を振った。母にも会わず難なく落合家の脱出は成功しエレベーターで降りた。

 朝帰りなど初めてである。仕事の関係で早朝に自転車を乗ることはあったが、男の家から朝帰りは罪悪感も多少あった。女子中高生が朝帰りは当たり前なのに、二十二の社会人が気を引くのはなぜだろうか。遅い青春だからかもしれない。

 例えば現在が女子高生なら親に対してこのような気持ちだろう。

 そんなことを二十二にして初めて味わった。

 履歴書にはる写真はあるが、整形前の顔なのでそれをはることはできない。このまま三分間写真のあるショッピングプラザへ向かった。そして店外にある三分間写真で撮影した。

 自宅に着くと、父のバイクはまだある。これでは入れない。それに都合わるく向かいの大沢が玄関の掃除をしている。

「おはよう、朝からどこか行って来たの?」

「え、ええ、まぁ。コンビニへちょっと」

 と言っても袋を持っているわけではない。聞かれたら支払いと言えばいいか。

「そう、なんかきれいになって、朝帰りじゃないわよね」

 大沢は疑いの目を向けた。わたしはため息交じりだった。これで近所に知れ渡るだろう。整形したとたん朝帰りになったと。

 静かに自宅へ入ると、リビングに父と母がいるようだ。素早く二階へ上り自分の部屋へ入った。タンスからスーツを出し、新幹線で書いた履歴書に写真をはった。

 面接まで時間があるので、父が仕事へ行けば朝食を食べてもうひと寝入りでもしようとした。

 お礼のメールを落合に送信したころ、父がやっと家を出た。時計を見ると七時二十分なので随分とゆっくりだ。

 わたしは一階へ下りると洗濯機へ洗い物を入れ回した。リビングへ顔を出すと洗い物をする母は一瞬こっちを見るが、すぐにそらした。わたしはなにも言わずにテーブルへ腰掛け、すでにできているトーストと目玉焼きを食べようとした。

「あんた父さんに謝んなさいよ。一泊したんだかから。昨夜帰って来ると思ったようよ。たぶん心配で寝てないじゃない」

 わたしは無視をしてトーストをほお張った。お腹は空いている。

 しっかり食べたのは昨夜の居酒屋以来だったから。

「なに黙っているの? あんたが帰ってこなければ父さん会社休むと言ってたんだから」

「いい加減にしてよ、わたしもう二十二よ。たしかに以前より活発かもしれないが、同世代では当たり前よ。いつまでも過保護扱いしないで……」

 トーストを口に押し入れ牛乳で流し込むと腹立たしくなり席をたった。初美はまだ寝ているようだ。妹は真面目であるが、不細工ではないためいずれ男が寄って来る。そうなればまた父が怒り出すのは目に見える。食べ終わり部屋に入ると少し横になった。



 気を張っていたわたしは面接を終えるとため息をついた。社長、専務と人事部長との面接だった。三対一だったので、まるで一流企業の面接とも思った。

 昨日美容院へ行き正解である。一見の印象が大事なので、顔も整いスーツ姿は自分でも言うのも変であるが決まっている。面接も好感触であったが、前職の清掃員を納得してくれない。今の顔では自分でもそう思うがうそは書けない。

 わたしは四階の会議室を出るとトイレで落ち着きを取り戻した。

 髪を整え、服を正すとトイレを出た。そして二階へ降りると、このまま落合に会おうとした。

 テレビ売り場へ行くと、落合は笑みを絶やさず接客中だったので、ぶらっとうろつくことにした。冷蔵庫など家電を見ていると、いつかは結婚し家庭を築くのだと、落合と知り合って間もないが、彼との生活を思い浮かべていた。長男であるがいずれ落合も家を出るだろう。義父の子があれだけいれば、出ていくことは可能だ。そうなればわたしと一緒に生活できる。ある程度は母に教わったので料理もできるし家事もこなせる。就職すれば子を生むまで働くのだろう。

 ひと回りし、テレビに戻るとにこりとした落合が寄って来た。

「昨夜は寝れた? なんかお似合いだねスーツ姿」

「寝れたよ。ごめんね狭い中。でもうれしかったわ」

 寄り添いたかったが社内だ。勤める可能性もあるので距離をとって話した。

「僕もだよ。起きるといなかったのでいつの間にと思った」

「うん、みんな起きるといやなので、早く帰ったよ。帰ると父がまだいて、わたしが来たのか安心して仕事行ったようだわ。もう二十二なのにね」

 家庭の愚痴を落合にぶつけてしまった。でも彼は笑顔で聞いてくれた。接客をしているので、なんでも対応できる顔だった。

「心配してたんだ。やっぱ意地張っちゃダメだよ。あっそうだ、面接は?」

 意地張ったわけではないけど、父の心配性には頭が来るだけ。

「よかったかな、本店ではパソコン関係かもしれないといわれたよ。でも一から覚えられるからいいかも。パソコンは頭が空だからね。今後使っていかなければならないし、一石二鳥とも思ったよ」

 キーボードで字を打つのはできるが、ほかの操作や、ネットやメールはわからない。でも店頭にいれば自然といじるために覚える。

「そう、よかったじゃん。就職したら祝ってあげるな」

 そう言ってくれた彼の手を握りたかったが、まわりの目があるのでこらえた。

「ありがとう、楽しみにしているわ。でも受かったらの話だけどね。じゃ、お客さんがテレビのとこにいるから」

 大画面のテレビに若い夫婦だろう。乳母車を引きながらいる。

「わかった。じゃ、あとでメールする」

 手を軽く振り別れると、今夜も彼に会いたい気持ちである。

 勤務時間は二通りあり、九時から六時と、十一時から九時だった。

 この時間に勤務しているということは六時までだ。暇なので待つことは可能だが、ずっと同じ位置にいると、ただで涼む変な女と思われるから帰ることにした。

 電車に乗って数日を考えるともっとも幸せだった。二百七十万はムダではない。再会であるが落合とラブラブになり、仕事まで見つかりそうだ。鼻歌が出そうだったが、それは一瞬で吹っ飛んだ。左横を向いたとき、別の車両からこっちを見ている者がいる。

 それは昨日わたしを追ってきた四十過ぎの男に似ている。たぶんそうだ。わたしはすぐに目をそらした。

 なぜここにいるのか。一日中京浜東北線に乗っているのか。

 でもこっちを見ていることは、どこかで見つけわたしを追っていたのか。ストーカーかもしれない。まさか昨日から追っているわけではないだろう。熱海まで着たとも思えないし。

 昨日わたしを見掛け、この車両に乗ることを知って一日乗っているのも考えようだ。でもそんな男なら見つかればしつこそうだ。

 たぶんまだこっちを見ているだろう。わたしは気持ちわるく感じ、東京駅で降りるか迷った。どう逃げればいい、きっと追って来る。

 女のわたしなど力負けする。そういえば東京駅に鉄道警察だったか、派出所があった。追って来るならそこへ駆け込めばいい。

 東京駅で降りると、後ろにいるのかわからないが、急ぐ振りをした。そのままトイレへ向かった。

 トイレを出ると、やはりいた。トイレ入り口の壁に広告がはってあり、それを見ている振りをしている。わたしは急ぎ足になり、八重洲口構内の派出所へ向かった。

 見つけるとそのまま入った。振り向いたとき、その男は派出所の前をなに食わぬ顔で通った。

「どうしたんです?」

「今通った男なんですけど……」

 指をさしたがすでにいるわけがない。

「追って来たのですか」

「そうなんです、でも行っちゃって」

「そうですか。その場合、その人もこちらのほうへ用があったかもしれないので、どうにもできません」

 証拠がないという。

「でも、昨日も大森駅までついてきた、駐輪場で声を掛けて来たんです。その男がきょうもわたしを車内で見つけ、追いかけて来たと思うのですが……」

「そうですか、お宅のように美しい人はたまりませんね。じゃ、事情を取りますけどいいですか? 次回つきまとえばあなたの事情を聞いたので、その者を連行しやすくなるのです」

 そういうことなら受けることにした。昨日は少し男に持てる気分を味わったが、話し掛けられたときはさすがに怖い。それに二度目ではなおも気持ちわるく、なにかされそうだ。家でも知れば毎日待ち伏せするかもしれない。そう思うと身震いした。

 聴取は十五分くらいで終わり、派出所を出ると、もう追ってこないだろう。でも中の模様を何度か通り窺ったのかもしれない。

 後ろを振り向くと、十メートルほど先に女子高生二人組みだけ。

 わたしは安心して歩いた。

 以前は男から相手にされないので危険もなかったが、もてるということは危険と隣り合わせなのだ。

 昼に自宅へ帰ると母も初美もいないことから、二人で買い物でも行ったのだろう。スーツ姿は窮屈なので素早く脱ぎ、シャワーを浴びた。

 洗面所の鏡を見ながら体をタオルで拭いていると、この顔は損なのか得なのか。初美や父とけんかが勃発し家庭内は損である。でも外では男性に見られ気分がいいことから得だった。

 ただ少し危険が伴うだけである。もう心は落合と決めたので、ほかの男性とはかかわりたくない。彼に尽くす決心である。

 優しい落合では社内の女性からもてるのではないか。なぜ現在彼女がいないのだろうか。



『あつこ、ごめん。一方的でわるい、別れてくれ』

『なんでよ、なんで別れるのよ』

『実はおれ結婚する。以前付き合ってた子が何度もメール来て根負けして……』

『そんなのある? なに言ってるのよ、わたしと結婚すると言ってくれたでしょ』

『そのつもりだった。でも彼女の親もどうしてもって言って、あつこの親は反対だったから、これでは上手くいかないし……』

『そんなの関係ないでしょ。二人の問題でしょ? なに言うのよ、わたしのこと捨てるの? 今まで付き合ったのはなに?』

 ハッとして飛び起きた。背中はびっしょりと汗を掻いている。夢だったことに安堵の呼吸をついた。これが現実ではないことを目をつぶり祈った。

 時計を見ると四時。あり合わせの昼食をとると、昨日の疲れがまだ溜まっていたのか、寝てしまった。そういえば昨夜お酒を飲んだのにけさの体調はよかった。ということは、ビールより焼酎が合うのかもしれない。

 今の夢で落合の過去を知りたくなった。優しい彼はもてるに違いない。実は社内の女性とも付き合っているかもしれない。どう考えても今まで女がいないのはおかしい。夢のように突然と別れてくれといわれたくない。今夜いろいろと聞きたいところだ。

 よく考えると本社勤務のほうがいつでも彼を監視でき、それにパソコンを覚えるので本社のほうがよくなった。

 落合の帰宅時間まで部屋の掃除をすることにした。

 仕事が終わったころ落合へメールを送ると、今夜は子供の面倒や写真の整理があるので会えないという。わたしはそうだなと思い、メールだけで彼への愛情を伝えることと、今までの女経歴を聞くことにした。



 日曜は落合と飲み昨夜の月曜も熱海で飲んだ。土曜以来に家族との夕食だった。父もテーブルに座っているが重苦しい空気が漂っている。

「さぁ、久しぶりにそろったから食べましょうか」

 母は愛想を振りまいているが、父はテレビに顔を向け、初美は雑誌を読んで座っている。わたしはなにもしてない身分なので各自の茶わんにご飯を盛った。

「じゃ、いただきます」

 母が言うと、みんなは小声でぶすっといい食べ出した。こんな夕食はかつてない。バラエティー番組を見ていると父がああだこうだと言って、わたしと初美がつっこむという感じだったが、葬式のように暗い夕飯は今までない。

 この空気に母がわたしを見る。父に謝れという目をした。なぜ謝らなければならない。出て行けと言ったのは父だ。

 わたしは澄ました顔を母に向け食事をする。

「初美、しっかり食べなさい」

 母は雑誌を読みながら食べる妹を叱った。でもこの空気ではそうしていたほうがいい。わたしもそうしたいところだが、二人でそうなると父は完全に切れると思うから、自分はやめて早く胃に収めようと食ベることに専念した。

 台所で洗い場を手伝っていると横の母がひそひそと話してくる。

「なんで謝んないのよ、昨夜は父さん心配してたんだよ。目が赤いからほとんど寝てなかったんじゃない」

「そんなこと言ったって、出てけっていったじゃない。別に変なことしてないし、男友だちと言っても子沢山の家庭だからね。あっ、母さんち競艇場の近くに〈みゆき〉ってスナックある?」

 昨夜、落合母のスナックの屋号を聞いていた。

「〈みゆき〉? 知らないわ。客相手にけっこう何件もあるからね。そこがどうしたのよ」

「落合君ち母の店というの。競艇場の近くって言うから知ってるかなと思って」

 謝りたくないから、話をそらすにいいネタだった。

「そう、親は飲み屋やってるの。でも場所的にいいから、まだ生き残れそうかもよ。不景気でもギャンブルやる者は減らないから。ただ掛け金が少なくなって、売上げはぜんぜん落ちるよ。大きなスター選手のレース以外はね」

「へぇー、まったくその辺はわからないよ。じゃ、落合君ちはそれでも食べてけるってことなんだね。子供は彼を入れ六人だからけっこうな人数だわ」

 謝る話は消え、落合の家族話になった。振り向くと居間で横になりテレビを見る父は、やはり眠そうだ。謝る気はないが、少しかわいそうにも思えた。

 整形をすればすぐ男を作ったので腹ただしく思うのだろう。だが、今までの青春はなにもなかった。別に毎夜男あさりをするのではない。たまたま同級生が声を掛けてきただけで、それが愛称の合う彼だ。運がいいのかもしれないが、偶然が重なっただけである。

 とりあえず初美だけは仲間にしておきたいので、妹の部屋へノックした。

「入るわよ」

 ドアを開けると雑誌の続きだろう、ベッドで寝ながら読んでいた。

「父さん、そんなに怒ってるの」

 初美は一度こっちを見ると、すぐ雑誌へ目が戻る。

「まあね、帰って来ると思ったらしいから、男の家ではより怒ったみたい。やっぱ姉ちゃん整形で変わったわ」

「変わったかもしれないけど、日曜に同級生に会ったの。わたしってわかったから事情を話せばいい人だったの。それで飲んだりしただけ。昨夜だって、彼っち子供が多くてなにもしないし、ただ寝ただけよ。父さんが出てけというから、こっちもやっきりしたんだ」

「ふーん。その百八十度変わったのが父さんは気に入らないんでしょうね。でも今まで姉ちゃんはなにもなかったし、女としての喜びはこれからだから、やっぱ青春しなきゃと思うのが当然だよね」

 ようやく気持ちが通じた。

「そうよ。土曜は怒ってごめん。きょう電気屋の社員へ面接してきたんだ」

「もう面接したの、早いね。電気屋さん? 随分違う職業だけど受かるといいね」

 初美は笑みを見せた。仲よくなれたので、落合と知り合り昨夜までの経緯を伝えることにした。


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