絶望から彼のために
一二
「……今トイレに逃げたの。しつこい男に追われていて、落合君どうすればいい?」
面接から二日後、〈ヤマノ〉本店人事部から電話があり、採用が決定した。五日ほど待つと聞いていたので、こんなに早く決まるとは思わなかった。
社員では書類の提出があり、郵送するというが暇なわたしは書類をその日に取りに行くと伝え、書類と健康診断用紙を本社まで取りに行った。その帰りだった。例の四十代のワイシャツ男がついて来た。
秋葉原駅からの京浜東北線は混んでいて、吊革につかまりながら乗っていると真後ろに人の気配を感じ、振り向くとあいつがいたので身震いした。怖くなり、体が金縛りにでもなったようで動けなくなった。東京駅に着いたとき、派出所が頭に浮かび、震える足を必死に運んだ。振り返ると男も降りて、小走りで追って来る。
きょうもスーツ姿だったわたしはヒールのため何度も転びそうになったが、トイレまでどうにか持ちこたえた。八重洲口の派出所まではまだまだである。困ったあげく、家に掛けても出ない。それで仕事中であるが、落合に電話を掛けるしかなかった。
「で、今はいいんだな。困ったな、おれは抜けれないし、派出所までどれくらい?」
一昨日、落合の女性関係をメールであるが思い切って聞いた。それにはまずわたしからで、過去に男性と付き合ったことのないことを伝えると、彼も話してくれた。
それは学生時代に高一から高三まで二年付き合い、働きだして二人の女性と付き合ったらしい。やはり落合はそれなりにもてることを知り、それには動揺した。過去の女性ときっぱり縁はないと言うが、わたしは夢で見たことが心に引っ掛かり、しつこく思われるが何度もわたしだけとていう思いを問い質した。彼はそれに応じてくれ、わたしに心が留まることを話してくれた。心配であるが信じるしかない。でも本社勤務なので毎日彼といられることを思えば、いずれ心配はなくなるだろうと思った。
「けっこうあるわ。百メートルくらいかな? 外にいるのよ。もう十分はたつけどまだいるわよ絶対に。三回目だもん」
トイレのボックスに入りかぎを掛けて小声で話しているが、声は響いている。
「だれか頼れる人いないか?」
そう落合は言うが、家の人しかいない。そうだった、藤岡がいた。
「家は留守だったし、そういえばひとりいたわ」
「だれ?」
「藤岡さんだよ、こないだの」
「あーっ、あの人はやめたほうがいい。危ない系でしょ。それに借りを作るとろくなことがない感じがする」
そう言うだろうと思った。落合は藤岡のことを毛嫌いしている。
「そんなことないよ。なんでも相談に乗ってと言ったから。それにこの状態なら、藤岡さんが手っ取り早くない?」
「そうかもしれないが……、ほかにはいないか?」
「うん。だから藤岡さんに頼むよ」
ここはいくら落合のことを好きでも、この状態を考えれば藤岡がベストと思うので引けなかった。
「わかった。それで温子を守れるなら、そうしてよ。あと来てくれるまで、そこ出てはダメだから」
「わかった。藤岡さんが来るまで絶対に出ない」
わたしは終了ボタンを押すと藤岡に電話を掛けた。今は三時前なので、スカウトにはベストタイムではないのか。
『もしもし、藤岡です』
いつもの落ち着いた紳士口調だった。
「あのっ、水木です。今、切羽詰っています。それで助けてもらえればと、電話しました」
普段のあいさつなど言える状態ではないので、本題を話した。
『どうしたの?』
藤岡へ簡素に三回目のストーキング話を伝えた。すると、
『わかった、東京駅の八重洲口だね。今からすぐ行くよ』
「ありがとうございます」
わたしは礼を言い、ここで彼の登場を待つしかなかった。
トイレへ入りもう十五分はたっているが、あいつはまだいるのだろうか。追いかけて自分をどうするつもりだ。車もないし徒歩での行動ならどこかへ連れて行くまで、騒いで逃げることもできる。
なにを考えているのかがわからない。自宅を知りたいのか。でもそれなら確実に尾行されないように遠くで様子を窺えばいい。顔も知っているし電車で真後ろに立つのはどうもおかしい。あいつの心境も知りたい。
落合へ藤岡が来てくれることをメールで伝え、それから十分後に電話が掛かってきた。
『もう着くよ、待っててな。そのまま切らずにいてくれよ。どこのトイレになるの?』
京浜東北線を降りていちばん近いトイレを教えた。もう東京ということは、すぐに来てくれたので藤岡は頼りになる男性だ。
藤岡は独り言のようにぶつぶつ言っていると、
『おっ、あったよ。このトイレだな、でも表にだれもいないけどな。四十くらいのやつなどいないよ。出てきなよ』
「本当ですか?」
『ああ、本当だよ、それか遠まわしにいるのかもしれないが、わたしが見る限りいない。大丈夫だ』
藤岡が言うなら間違いない。わたしはトイレをゆっくり出て藤岡と目が合うと一礼し、次に左右見渡した。
「やぁ、変なやつは帰ったのだろう。本音はそいつを捕まえたら、しぼってやろうと思ってたからね」
黒のワイシャツに黒いズボンの格好で、金色のブレスレットが輝いている。その筋とひと目でわかる格好だった。
「ふぅー、助かった。すいませんお忙しいところ」
さっきは胸の鼓動が伸縮していたが、やっと落ち着けた。
「へえー、きょうはスーツで決まってるね。どこか行って来たの?」
「あっ、報告まだでした。就職が決まりましたので、書類を取りに行ったんです」
「それはおめでとう。どこの職場?」
トイレの前で立ち話しをするので、人の出入りが頻繁であり、藤岡がレストラン街のほうを指すので歩きながら話すことにした。
「秋葉原の〈ヤマノ〉電気本店です」
小さな革バックを抱える藤岡は、笑顔になり喜んでくれた。彼の仕事を断ったというのに。
「それはよかったね。じゃ、軽く祝ってやる。食事はしたよね」
三時過ぎで小腹も空いた。ダイエットもしたいが、祝ってくれるなら甘えることにした。
八重洲口にはレストランや軽食屋が多く、藤岡の決めた喫茶店に入った。彼の誘導で奥の四人掛けテーブルへ腰掛けた。
「なんでもいいからね。パフェでもナポリタンでも、ジュースでも」
「そんなに食べれないけど、こんなこと滅多にないから食べちゃうかな」
藤岡に上目づかいになり、首を傾け甘えた顔をしてみた。整形をし、自宅に帰ってから鏡の前で下着や服を試着するとき、何度も甘え顔のベストフェイスを練習した。落合に数回見せていて、藤岡にもやってみた。
「いいよ。僕はアイスコーヒーだけど」
「助けてもらったのにおごってもらうなんてわるいです。それならわたしもアイスコーヒーで」
「いいって、じゃ、僕もフルーツパフェを頼むよ。まいったな、でも何十年振りに食べるのもいいか」
まさか恐持て顔がフルーツパフェとはおかしかったので口を押さえて笑った。
「やっぱ笑ったじゃん。僕では変だからやめるよ」
「いいですよ。食べてください、わたしも頼みたいので」
といい、パフェとサラダつきパスタを藤岡へ伝えた。
藤岡は、キャバクラや風俗嬢たちのストーカー相談はよくあるという。紹介した女の店に、客で来た男が気に入って店の前で待っていては、自宅まであとをつける話しだった。その都度相談に乗っては、ストーカーを懲らしめた話をしてくれた。そのとき組織の名は語らないが、それをにおわす程度に脅すようだ。
ストーカーはどこにもいるので、きれいな人は注意するようにも言われた。
彼がパフェを食べるときを見ていると、照れるのがわかり、かわいらしくも思う。恐持てにはまったく似合わない食べ物だった。
「ところで、電気屋に就職の理由はなんかあるの?」
「うん。まだ知り合ったばかりだけど、彼が働いていてちょうど募集もしてたから」
「そうだったのか……。こないだの彼?」
わたしはうなずいた。
「真面目そうでよかったよ。しっかりと守ってもらわないとね」
「はい。でも……ちょっと藤岡さんを疑っているみたいで」
藤岡はスプーンをとめた。
「なにかあったか? 一度しか見てないけど。でも僕は見た目わるいからね」
「そんなことです、すいません」
「なにも君が謝らなくていいよ。わたしは慣れているから」
「さっき彼に助けを求めてたんですけど、仕事でむりだからほかに頼れるのがいないかとなり、藤岡さんを思い出したら、彼、あまり乗る気はしなかったんです。外観で言ってると思います」
ストーカーから助けてもらい、なおも祝ってもらうさなか、ずばりと話してしまった。そこへ電話が掛かってきた。表示は落合だった。藤岡はいいよと言ってくれたので席を外した。
『どうなった?』
「大丈夫だった。藤岡さんがいないって電話で話してくれて、表に出るといなかったわ」
『そうか、フゥー、よかったよ。心配で接客どころではなかった。じゃ、今晩会おうね』
「うん。今、藤岡さんから就職祝いでお茶してるの」
『えっ、今晩は僕が祝うって言ったのに』
「ううーん、軽くだよ。だからちゃんと祝って」
実際はすでにお腹が満腹。でも落合は遅番なので八時半ころ終わり、大森には九時ごろになるという。それまではお腹も減っているのではないかと。
「わかった、早く帰って。またストーカーでは心配するからさ」
わたしはうなずいて電話を切った。早く帰ってということは、早く藤岡と別れろということだろう。
パスタは全部食べたが、パフェを残しそうになった。今夜も落合が祝ってくれるのでカロリー摂取が多くなる日。でも男性に祝ってもらうのは初めてなので、それまでどうにかお腹を減らしておくしかない。
「彼かな?」
「うん。心配で掛けて来たの。藤岡さんに助けてもらったことを伝えたから」
「いい答えじゃなかったんじゃない?」
わたしはうつむきそうになったが、顔を正した。
「ううん、助かってよかったと言ってたわ」
藤岡にわるく思うし、彼のこともいいたくないのでやめた。落合の話をしたことに後悔でもあった。藤岡はいい人だけれど、恋人は落合なので彼も立たせなければならなかった。
一三
藤岡と別れたあと、わたしは八重洲口の派出所へ出向いた。これから通勤するのに、ストーカーがつきまとうのも困るためである。
こないだの警官ではなかったので、三日前に被害届を出した主旨を述べると再度ストーカーの模様を聞き、これからは携帯で電話をするように言われた。私服の警官も電車へ乗り見回っているので、すぐ駆けつけてくれるらしい。それを聞くと安心して通勤できる。
自宅で会社の提出書類にサインをし、親に保証人の名も書いてもらうと、早々に就職することを喜んでいた。父は黙っていたが、内心は遊ばなくなったことで少しは落ち着いたのではないか。
落合は八時二十分ごろ、今から帰るとメールが来たので約束の九時より早い時間に大森駅で待ち合わせとなった。
ジーンズにこの前買ったキャミソール、その上にサマーカーデガンを着て下へ降りた。
「今から就職祝いしてくれるっていうから出るわ」
キッチンテーブルで新聞を読んでいる母へ向けた。
「そう、早く帰って来るのよ」
母には夕食をいらないと話していたので了承済み。父は居間で寝転がり、今の話を聞いたはずなのになにも態度を変えなかったので、少しは許す気にもなったのか。
「父さん、この前はごめんなさい」
その様子を見て思わず声が出てしまった。わたしを叱らなかったのが言葉となった。
父はテレビを見ながら首を縦に振った。母は微笑んでこっちを見るので、許してくれたのかと納得した。
外に出ると歩いて駅まで行くことにした。祝ってくれるのに自転車で行くのも変であり、帰りは落合の自転車で送ってもらうほうがいい。
正直、お腹は減っていない。なにをごちそうしてくれるのだろうか。彼はお腹が減っているのでずしりと重い夕食かもしれない。ステーキや肉系は食べたくはなく、せめて麺類でいい。でもステーキの場合、ほぼ食べなくては藤岡と食べたからとなるので、苦痛を味わいそうだ。
九時十分前に駅へ着くと、下りの京浜東北線で人身事故があり、遅れていることを知った。
上りは何本も来るが下りは一向に来ない。落合へ掛けても電源が切れているか、電波が届かないという機械音声を数回聞いた。メールも電話もないのでおかしく思った。
改札口に立っている駅員に聞いてみた。
「あの、下り線はどんな状況ですか?」
「大変すみません、人身事故でして検証などがあるものですから、停車状態です。下りをご利用なさる場合は一度上りで品川駅へ行き、東海道線に乗り換えてくれれば可能ですが……」
そのコメントはさっきから別の駅員がハンドスピーカーで言っている。
「いえ、どこの駅ですか?」
たぶん落合は乗り換えているのだろう。京浜急行にでも乗ったのかもしれない。
「秋葉原ですけど」
「えーっ?」
「はい、人身なので詳しくは話せませんので……、まもなく東京駅から発車するようです」
秋葉原とは驚きである。落合はどう向かっているのだろうか。
「じゃ、秋葉原と神田、東京間が不通ということですね」
と聞くと駅員はうなずいた。ということは、山手線で東京駅まで行った落合は、京浜東北へ乗り換えるはずだ。
九時十五分になった。あと十五分もすれば彼は現れる。
落合に電話するがいまだつながらない。
九時三十五分になった。すでに三本の下りが大森駅に停まったが、彼は現れない。電話とメールがないのはおかしすぎる。なにかあったのか。ふといやな予感がした。
強くスマホを握りメモリーを落合家に合わせようとしたが指に力が入ってスクロールがうまくいかない。やっと電話する。
「……もしもし、落合さんですか?」
しばらく話中だったのが、より自分をあせらせ、五回目でようやくつながった。
『……そうです』
弱々しい小声の女の子だった。
「お兄ちゃんは?」
『……ううーん……』
鼻をすする音が聞こえた。泣いているのか。
「どうしたの?」
『……でんしゃでしんだって……』
「えっ」
予感が当たってあぜんとした。頭中が蒼白になってスマホを落とした。まさか……。
「……どうなさいました……、大丈夫ですか?」
我に返ると駅員が肩を揺すっていた。わたしは改札口前でうずくまっていた。
「気分がわるいのですか?」
顔を上げると駅員は心配な表情で聞いた。
「……ちょっと……気分が冴えなくて……」
正気を失っていた。さっきまでの落合に会える気分だったが、今は遠のいているどころか、一生会えないという悲しみを通り越し、自分はどこにいるのかも忘れた。虚無とでも言うのか、現実に起きたことを受けとめれば、現状が一気に変わった。魂が抜けたようにもなり、どうすればいいのかなにも思えない。
今ここにいるのがいやになり駅を出た。そして駐輪場へ行った。
彼の自転車にしがみつきたかった。五百台以上は停めてある、広い駐輪場に来ると、一台一台しっかりと探さず、ぼう然として歩き回った。
落合の自転車を目で探すが、よくわからなく駐輪場から出た。頭が空になったようで、ただ歩き出した。
駅から南下して歩いていたのだろう。虚無に陥っていたが、ビール工場で我に返った。
落合が死んだ。人身と言ったがどういうこと? 自殺? そんなはずはない、わたしを祝ってくれると言ったから。迷わず落合の自宅へ向かった。
六階建てマンションへ来るとエントランスを走りエレベーターへ乗った。
五階で降りると小走りで玄関前に来た。チャイムを鳴らすと、三人の子供が出迎えた。みんなの表情は虚ろで不安顔でもある。わたしもそうだが、ここは情報を仕入れないとならない。虚無状態だったが、ここまで来たことが落ち着いたことになる。
「お兄ちゃんはどこにいるの?」
長女に聞いてみた。
「あきはばらのびょういんといってた」
「そう、どういうことで亡くなったのかわかる?」
「だれかがでんしゃにおして、おちたといってた。そのおしたひとはつかまったといって……」
と言ったとき、長女は泣き出した。わたしも悲しくなり、長女を胸の中に包み込んだ。ほかの二人も泣き出したので、わたしも含め四人は玄関で泣いた。
そこへ落合家の電話が鳴り響いた。長女の涙をハンカチで拭いてやると電話へ向かった。
さっきの話を思い出すと、だれかが押したという。ということは自殺ではない。だれかが押し、その者が捕まった。愛する人を落とすとはいったいだれ?
電車を停めて殺人逮捕となればニュースでやるはず。わたしは落合家に上がるとテレビへ急いだ。時計は十時半を過ぎたがニュースに合わせた。
「お母さん、お父さんとほかの子たちは?」
テーブルへ座ると姉に聞いた。
「とうさんはいまこっちにむかっていて、かあさんとなおきっちはびょういんにいった」
「そうなの、大変なことになったわ。わたし、落合君のこと好きなのよ」
「しってたよ。おにいちゃんが、とまったひにいってたから。もしかしたらけっこんするかもしれないって」
それを聞くとまた涙が出てしまった。どうしてこうなったのか。
わたしはハンカチを目に当てながら、ニュースを見た。すると事故現場が流れた。
「これだわ」
わたしは目を見開き、思わず声を張った。
『……落合さんはプラットホームに立っていて、列車が来たとき長倉容疑者が押した模様です。容疑者はまわりの乗客に押さえられ、鉄道警察隊が連行しました。京浜東北線の乗客のけがはありませんでした……』
画面は写真に〈長倉守(四十二)〉と出た。
「あいつだ!」
大声を出してしまい、子供たちは驚いている。
「おねえちゃん、しってるの?」
きょうも見たばかりだ。三度も追っかけてきたストーカー男だった。わたしは〈長倉守〉の顔へ憎しみを込め凝視した。なぜ落合の顔を知るのか。昼にわたしを見つけ、〈ヤマノ〉へ向かうあとをつけたのだろうか。書類をもらったとき落合と会い、トイレ前でキスをしたのを遠目で見たのか。たぶんそうだ。そしてわたしを追いかけたということではないのか。
あの男を祭り上げ死刑にしたい。こんなとき家族はどう対応するのだろう。わたしなどまだ知りあったばかりで、親にも紹介されていなかった。婚約もしてないし、抱かれてもいない。落合との楽しいひとときが未来にあったのに。
今夜亡くなったので明日が通夜なる。落合家に迷惑も掛かるので、電話番号のメモを姉に渡し帰ることにする。
一四
こんな世の中があるものか。日曜の朝、声を掛けられ知り合ってわずか五日で落合が死んだ。この短期間でお互いの心に火がついたというのに。
わたしは家に帰ると部屋の布団へくるまり、日曜からの日々を細かく思い出し涙を流していた。まだ死んだ落合の顔を見てないため信じられないが、ニュースで〈落合正明さん(二十二)〉とテロップが出たので真実だった。
殺人犯の守屋にわたしが狙われなければよかったのか。守屋とお茶すれば落合は殺されずに済んだのだろうか。それか警察に行ったせいで、逆恨みし恋人を調べて殺したのか。
とにかくわたしも絡んでいるのはたしかであり、彼の死に眠れるわけもなく、何時間も嗚咽を繰り返した。
この整形顔がわるい。今まで男に追いかけられたことはなく、顔が整い、いい気になっていたのがこんな結果になったのか。
落合の人生を壊したことに責任を感じるが、あの守屋もいなければこんなことにはならなかった。頻繁に秋葉原へ向かったことにも後悔の念を抱き、日々の行動に反省しても遅いが自分を罵った。
「……落合君……」
わたしは彼の名を何度もつぶやいた。守屋に突き落とされ電車にぶつかり、一瞬で命を絶った。現場の状態は凄まじい惨劇だっただろう。落合はまだ死を理解していないのではないのか。命を一瞬にして失った場合、まだ魂が死を信じておらず、行動範囲をうろつくと話しに聞いたことがある。身内のところに現れることも超常現象特集で見たことがある。もしかすると落合はこの部屋にもいて、わたしに話し掛けているのかもしれない。
わたしはタオルケットをよけ、天井の隅を見て『落合君』とつぶやいた。が、小玉の電球がついている中、落合の幽体は見当たらない。身内から考えると自宅へ行ったのかもしれない。
わたしはため息をつくとまた涙が出た。散々流したのにまだ出る。
整形のおかげで恋人もできて仕事も決まり、順風満帆な日々を送っていたが、ここへ来て奈落の底に落とされた。真実は落合のほうが守屋に落とされたのだが。
守屋を憎んでもどうにもできない。もしあいつが逮捕されなく、わたしが運よく刃物で刺して殺したとしても落合は帰って来ない。
それに自分は捕まり刑が確定するだけでなにも満たされるわけではない。
なぜあんな人間がこの世にいるのか。普通の四十二歳にもなれば一社会人としてストーカーなどやらないはず。あいつは無職だったのか。仕事もない世なのであのような人格も形成されてしまうのかもしれない。あいつの目につく自体運がわるいというのか。
見た目は普通のサラリーマンであるが、行動は執念深い。そこが社会人としておかしく、もしや病気ではないのかとも思う。
わたしはとにかく通夜と葬式には出るつもり。
結局一睡もできずに朝を迎えた。六時にトイレへ行くと父も起きていて居間で新聞を読みながらたばこを吸っている。わたしは涙目を流そうと洗面所で顔を洗った。父へあいさつもせずテーブルへ座るとテレビを見入った。そこへ母が来た。
「おはよう、早いけどなにかあったの?」
わたしはちょうどテレビで流れた落合の死を指した。するとまた涙が出てきたので、目を押さえてうつむくと、『……突き落とされた落合さんは収容先の病院で頭部損傷と内臓破裂で亡くなりました……』というアナウンサーの声が聞こえた。うーっ、うーっ……と嗚咽が出てしまった。
「えーっ、落合って温子の恋人?」
母の声が響いた。わたしは泣きながら首を縦に振るしかない。
「ほんとか!」
今度は父の大声が聞こえる。涙をとめたかったが、流れ出てくるのでテーブルにあった手ぬぐいを目に当てた。
「それは偉いことだわ。温子の恋人が電車にはねられたなんて……。きょう、お通夜じゃないの……」
下を向きうなずいた。守屋に落とされたことは自分も影響している。話したかったが涙がじゃまをし、言えなかった。
「まだ知り合って間もないんでしょ、かわいそうにね。通夜はわたしも行こうかしら……」
母の声が聞こえたのが、首を横に振った。
「いいの?」
まだ落合の母にも会ってないのに、母が通夜に行くのはどうかとも思いやめてもらうので否定した。
「なんか悲しくてわたしも涙がでるよ」
母の泣き声が聞こえると、わたしもより涙がとまらなかった。
九時ころ落合の母から電話があった。わたしの名は知っていて、昨夜の落合との約束も知っていた。お悔やみの言葉をなんて言ったかは忘れたが、再び涙を流しながらポツポツ母と話した。今晩六時からマンションで通夜があるという。それまでなにか手伝うことを伝えたが、葬儀屋がいるので間に合っているという。
わたしは暗く一日を自分の部屋で過ごし、通夜まで寝て過ごした。
落合と同級生だったことを面接時〈ヤマノ〉の人事部長へ伝えてあったので、電話で亡くなった報告を受けると再度涙を流した。
礼服を着ると、少しの手伝いでもあるだろうから早めに出た。リビングにいた初美と母も一日笑い声はしなく、二階にいるわたしに気を使って過ごしたのだ。
マンションの下へ五時半に着くと、葬儀屋の軽トラックが一台停まっている。現実に死んだことをつくづく思う。
五階で降りると、落合家の玄関が開けっ放しになっていて、ワイシャツに黒スラックスの葬儀屋の人が通路で受付台のセットをしている。
わたしに会釈をすると葬儀屋の男性は親せきと思ったのか、玄関で作業の手を休め、身をよけてくれた。
自然にお邪魔する状態だったので、あいさつをして入った。子供たちがリビングにいて少しにこっとしてくれた。一人の子がわたしを導くように落合の部屋へ向かった。彼の部屋が会場のようだ。テーブルに腰を下ろすと黒いワンピースの母が現れた。ポッチャリ気味で背は低めの母だった。
「この度はご愁傷様です。水木温子といいます」
深々あいさつをすると、母も同じことをした。
「こんなことになってしまって、なんと言えばいいやら」
母は目に涙が浮かべていた。それにつられてわたしも目頭が熱くなりハンカチを目に当てた。
「いえ、昨夜はわたしのこと祝ってくれるというので、まさかあんなことに……ごめんなさい」
自分が守屋にかかわっていたので、こっちのほうがわるく感じていた。泣く母に手を引かれ、落合の部屋に導かれた。顔を上げると昨日見た落合の写真が飾られて、棺の中に彼がいる様子だった。
「傷の損傷が多いのですが見てやってください」
母は棺を開けた。白の着物に身を包んでいる落合が横たわっている。黒ずむ顔は緩くエスの字のように曲がっていて、頬や額はなん針も縫ってあり、昨日見た落合ではなかった。見ていられず、涙が出てハンカチでごまかすようにした。
電車事故の惨劇が目の奥まで痛いほど焼きついた。守屋への憎しみが積もりに募り、同じ目に遭わせたい感情が込み上げた。
藤岡とご飯を食べているとき、落合のやきもちを思い出し、わたしを好きなのだと痛感した。
「ごめんなさい。泣いてばかりで、なにか手伝うことはありませんか?」
わたしはここの部屋にジッといるのも涙が耐えないので、なにか気を紛らそうと母へ聞いた。
「いえ、いいです。ここにいてやってください。正明はここのところ、気分が弾んでいたから、よっぽど水木さんと気が合うんだなと思ってました。同級生だったからよかったんですね」
同級生もそうだが、彼の性格に引かれたので、インスピレーションとでもいうのか、それがお互い合ったのだ。日曜に会ってなければ、人生が違う方向になったのかもしれない。
「まだ知り合ったばかりで、こんな結果になったことをお許しください」
「そんなことはありません。ただ犯人との面識がなかったので、なぜ恨まれたのかがわからないです」
その言葉を聞くとわたしの涙が引いた。
「実は、あの犯人はわたしを追いかけていたストーカーなんです」
「えっ? それはどういうことです?」
わたしは熱海へ行く日の月曜に起こったことから、昨日までの守屋のことを順に話した。すると母も涙が引いていた。
「……それで、昨日も追いかけられて、落合君のところへ電話したり、助けをほかの人に言えばその人が八重洲口まで来てくれて助かりました。その夜落合君が……」
「そんなことがあったの。それは警察に話したほうがいいわ。でも電車に落とすことはないでしょうに。なぜなのよぉ……」
母は声を張ると、落合のTシャツが二枚畳んであり、一枚を取るとハンカチ代わりに下を向いて顔へ当てて泣いている。
自宅に義父らしい姿がない。仕事の関係上まだ着いていないのだろうか。
時間になれば続々と慰問者が現れた。中学のクラスメートが十七人ほどいて、だれもわたしに気がつかない。高校の同級生もいたので、そっちのほうや同僚と思うのだろう。
面接をした社長以下三人と同僚も来た。部屋は入りきれなく、後ろを向けば多くの人がリビングにいる。わたしは一番前にいたせいか、お経が始まるとハンカチを放せなかった。
焼香が済み席を立つと、母は後ろにいた義父を紹介した。落合から聞いたとおり、現場監督とは思えないほどひょろっと痩せていて、まだ事態をそれほど知らない義父とお決まりのあいさつを済ませ、明日の葬儀も出ることを話した。
その後はあと片づけを手伝っていると、同級生の梶山が声を掛けて来た。落合と仲のよかった彼は、クラスメート二人と落合の部屋で酒を飲んでいる。
「水木だよな」
「ええ、そうよ」
ほかの二人もジッとわたしの顔を見ている。
「ええっ? 違うでしょ」
梶山の横ですでに赤い顔をしている井上が言う。
「そうだよ」
梶山が井上の疑問を取り払うかのように多田を見た。
「水木ってあの?」
多田は目を丸めた。
「ちょっと、そんなジロジロ見ないでよ。わたしは水木です。それにもうみんな帰ったから、長々ここでお酒飲むの失礼だわ」
「そういわれればそうだけど、突然の死でおれたちも参っているところなんだ」
梶山はそういうとため息をついた。みんな社会人なのでスーツだったが、ネクタイだけ黒だった。
「そうよね。わたしもおかしくなりそうなの」
というと腰を下ろす。正直、落合が棺の中にいるのでつらい。ここから離れたい気分でもあるが、遠ざかりたくない気分もあった。
「あいつおれに話してくれたよ。水木と付き合うって」
梶山はコップの酒を飲み干すとそう言う。それで変ぼうした自分をわかったのだ。落合と梶山は、中学時代から親友のような関係なので恋愛のことも話したのだろう。
「まだ再会っていうのか、知り合って間もないの」
梶山以外の二人は寝耳に水という顔をした。彼以外に話してなかったということだ。
「そうだったのか、それは水木のほうが悲しいはずだな」
「落合を落としたやつを許せねぇ」
二人の友人は交互に違う意見を話す。わたしだって許せないが、守屋をあの世へ祭っても落合は決して帰って来ない。
美容整形は隠したが、三人へ知り合った経緯を話すと、彼らが帰るというので片づけに勤しんだ。すべて片づいたとき母に呼ばれた。
「これ、受けとって」
母は義父といて、落合のカメラケースをリビングテーブルに置いた。
「いえいえ、それは彼が大事にしていたものですし、夢を目指していたカメラだから受け取れません。形見にしてください」
「だからあなたに受け取ってもらいたいのよ」
子供たちも集まって来て、みんながわたしの顔を窺っている。
「もらったほうがねえちゃんのためだよ」
長男がそういうと、ほかの子供もうなずいた。
「でも……」
と言いかけると涙が込み上げたので座って泣いてしまった。母が両肩に手を当ててくれた。
「ごめんね、また思い出させて、じゃ、もらってくれるね」
と耳もとでささやいてくれる。その優しい言葉にうなずいた。
しばらくテーブルに肘をつき目にハンカチを当てていると女の子が言う。
「おねえちゃん、もうなかないで」
そう聞くと、もう泣くのをやめようとハンカチを放した。いつも面倒を見てくれる兄をなくしたというのに、悲しい顔だが泣いてないからだ。
「ごめんね、もう泣かないから」
ほかの子供たちはテレビを見ては、落合の部屋にもいる。母と義父は部屋で話し合いをしているようだ。声が聞こえる。わたしはそろそろ帰ることにする。
母と義父に形見までもらったお礼をいい、玄関まで出向いてくれた落合家族に腰を折った。
カメラという高価な物をもらい、とても落合家にわるく思う。でも彼の夢である物がそばにあるのはうれしい。持ち歩くと重量を感じる。だが落合の魂がこもるので両手に抱えて落とさず大事に持った。
自宅に着くと十一時を過ぎた。昨夜は寝られなかったので疲れが今になりどっと出た。シャワーを浴びて着がえると、そのまま目を閉じた。
一五
葬儀も無事終わり、落合はもうこの世にいない。わたしが彼に抱かれていたならば、もっと落合のぬくもりがわかっていただろうが、それがないので枕を彼に思い、抱えて起きた。
葬儀から一週間がたった九月一日。
一週間の間、警察へ一度出向いた。落合を突き落とした守屋にストーカーの被害届を出していたので、取調室の裏からマジックミラー越しに面通しをした。そのとき怒りが最大になり、握り拳を作っていたが、なにもできない自分にがっかりして涙が出た。こんなやつさえいなければ、幸せにいただろうと将来を思い起こした。刑事へ死刑にしてくださいと伝え、警察署をあとにした。
きょう、〈ヤマノ〉本店に入社する。まだ彼のことが頭から離れられなく、四十九日が過ぎれば月命日の二十三日にお墓参りに行くことを決めた。
きょうから初美も学校で、水木家は慌しい朝を迎えた。
七時半に下へ降りると父はすでにいなく、母も競艇開催日とあってリビングに立ち弁当を作っている。制服姿の初美はパンをほお張りながら言った。
「おはよう、おねえいよいよきょうからじゃん。がんばって」
「がんばれるかわからないけど、一生懸命やるよ」
冷蔵庫から牛乳を出し、妹の向かいに座った。
「そうだ、あんたが〈ヤマノ〉に勤めるんだから電気製品は社員割引で買えるじゃん」
母はこっちを見るとにやけて言った。
「そんなすぐに割引で買えるわけないさ。試用期間があるんだから」
「それが過ぎればいいの?」
きょうから入社をするが、落合は二階にいない。彼と一緒に働き、休みも合わせて写真撮影に行きたかったが、一度も行かずに終わった。
もし落合と知り合っていなければ、風俗界に入っていただろう。それを彼が阻止してくれた。風俗がわるいとは思わないが、ストーカーの被害も藤岡から聞き、いいことはそれほどないと思う。特に風俗は裸になるため、男のつきまとう度合いもいい加減違うだろう。
それを考えれば真面目な普通の仕事がいちばんであった。
「今度の日曜あたり、おねえの姿でも見に行くかな」
初美は食べ終わるとそう言った。
「いいよ、来なくて」
まだ慣れない職場だから、お客から質問をされれば先輩に聞きまわっているに違いない。そんな姿を見られたくもなかった。
「そうね、じゃ、父さんと家族で行くかもしれないよ」
「来なくていいって。パソコン関係だし、来てもわからないから。わたしの胸には研修中のワッペンがはってあるでしょ」
整形のおかげで採用されたのもあると思う。公平なく面接するだろうが、ブスより美人が接客すれば、売上げにつながるはず。
でも落合に言われた言葉を思い出すと、少し残念でもあった。
仮面をかぶっているということだ。正直、きつい言葉だったが、そのことに気がついた。いくら美人になっても以前は醜いので、それを頭に入れて行動するようになった。彼は以前の顔でも付き合ったという。そこがもっとも気に入るところで、あの顔なら初めての告白になったのだ。
「とにかく、がんばって行ってらっしゃい。わたしは登校します」
初美は弁当をバックに入れて持つと小走りで玄関へ向かった。
「そうだった、わたしも弁当あるんだった」
「そうよ。明日から早起きしてちょうだい。きょうは四つも作ったんだからね。もう彼のことは心にしまい込むのよ」
「わかっているけど、写真見てると何度もね……」
また思い出すのでこの話はやめた。
葬式の日に母から落合の写真をたくさんもらった。彼が休日に写真撮影へ行ったとき、現地の人に撮ってもらうようで何十枚とあった。その数十枚をもらい、とっておきの一枚を写真立てに入れて枕もとに置いてある。それを朝と夜にながめていた。見ていると涙がグッと出てくるが、忘れたくないため近くに置いた。何度も胸に収め、抱かれている絵図を頭に思い浮かべてもいた。
弁当を受け取ると二階へ行き着がえる。そのときも写真を見ながらで、それだけ彼のことが忘れられない。どうして死んでしまったのか。未来がわかればもっと早く知り合いたかった。
そう思うと目頭が熱くなる。もう一週間がたつので泣くのを我慢したい。でも写真があるのでダメだった。この写真はしまえない。
決して彼を忘れたくない。
このところ毎日カメラを磨いている。落合がなりたかったカメラマンを思いながら磨いた。
入社に備え、スーツに着替えると携帯が鳴った。
『おはよう。どう、気分は?』
「あっ、いいですよ」
落合の死を藤岡に電話で伝えたのは一昨日だった。少し落ち着いたときに彼のことを話せばとても驚いていた。
『きょう、入社だから元気かなって思ったんだよ。ここんとこ落ち込んでたようだから』
そのとき、きょうの入社日も教えたので励ましに掛けて来たのか。
「大丈夫です。きょうから新しい気分で行こうと思ってます」
と伝えるが、実際は重かった。今もチラチラと写真を見てしまう。
『そうか、よかったよ。接客業だから沈んだ顔見せてはダメだからさ』
「はい。励ましてくれて藤岡さんにはなにからなにまでありがたく思います」
『そんなことないよ。僕は、ただよけいなお節介が好きなだけ』
「それはないわ、わたしを助けてくれるし」
ストーカー男が捕まって安心であるが、代償は落合を亡くした。
それならストーカーされ続ければよかった。そのほうが彼も生きていて幸せだったのかもしれない。
『それは知り合った子が困っているからだよ』
「ありがとうです。そうだ、祝ってもらったので初任給で食事をおごらせてください」
『えっ、いいの!』
耳に響いた。落ち着いている藤岡が驚く声を出すのでこっちがビックリした。
「い、いいですわ。今までのお礼です。コーヒーだけと言わないでたくさん食べてね」
『ありがとう、楽しみだよ。いつか仕事っぷりを見に行くかもよ』
「それはまだちょっと恥ずかしい」
これは店員の宿命なのか。知人が店に来るのは慣れてからがいい。
『声は掛けないつもりだから、こんなおじさん来たらほかの店員が変に思うからね』
それもそうだ。パンチパーマに恐持て顔で、黒ワイシャツの者と知り合いでは変に思われる。
「フフフ、そうね。じゃ、こっそり見てください。あっ、藤岡さんって写真撮影に興味ない?」
『写真? んー、ないかも』
「彼のカメラを形見にもらったので、わたしもチャレンジしようかなって思ってるよ。最初ひとりで行くのいやだから、休日に藤岡さん付き合ってくれないかなって」
せっかくもらったカメラなので、趣味のない自分もコンテストへ応募しようと思った。そうすれば天の落合もきっと喜ぶだろうから。
『そういうこと。わかった、一度休みを合わして付き合うよ。写真家になるの?』
「違うよ、彼のためだわ」
『一途で偉いね。相当好きだったんだ、なんか妬けるよ。でもいいことだからチャレンジもいいな。じゃ、また電話するよ。入社日だから早めに出ないとね。きょうはがんばってください』
藤岡にお礼をいい電話を切った。彼が付き合ってくれるなら心強い。またストーカーではないけど、変なことになれば安心する。
藤岡のことを嫌っていた落合だが、わたしに変なことをするわけではない。彼も天界で見守っているため、最初だけなら許してくれるだろう。
落合の形見を活用しなければ、やっぱ彼が悲しむのではないかとカメラを磨くときに募った。でもこれで行動が確実になったので朝から気分がよくなった。
きょうから新しい道が開く。落合の勤めていた店にわたしも入ることと、趣味になるかわからないが、形見のカメラで撮影をすることである。落合はいないが、これからの道を彼に見守られながら生きて行こうと思うところでもある。
「じゃ、行って来まーす」
「しっかりとがんばってきな」
自転車を出すとまたがった。向かえの大沢おばさんが玄関の軒下を掃除していた。あいさつをしてきたのでわたしも頭を下げた。
そういえばわたしの話題はどうなったのか。整形したなどだれからも聞かないので、ダイエットの合宿を信じているのかもしれない。
「スーツ着てどうしたの?」
「仕事変えましたので」
「そう、スーツお似合いよ。美人になったから」
深入りさせないため、愛想よくし急ぐ振りをした。
「ありがとう、じゃ、行ってきます」
といい、この場をあとに駅へ向かった。
駅に着くと思い出した。そういえば落合の自転車はどうなったのか。通夜のとき駐輪場にはなかった。葬式のときも母たちはなにも言わない。ということはまだ駅にあるはず。あるとすれば最後に乗った自転車になる。今夜探してあれば、落合家に伝えることにした。
そしていらないのならもらいたい。彼が最後に乗った自転車になり、落合の細い背中が忘れられなかった。
(了)




