第2話 冷えた茶と、鋭い目の檻
人は極限の緊張に晒されると、恐怖よりも先に苛立ちを覚えるものらしい。
正殿の冷たい石床を踏みしめながら、頭から被せられた薄絹の帳越しに、薊はただひたすら己の選択を呪っていた。正殿の空気は、医官所の生薬の匂いとは程遠い。焚かれているのは高価な白檀の香膏だ。だが、その甘やかな香りの中に、独特の嫌な匂いが混じっているのを、薊の鼻は見逃さなかった。
(――砒霜、いや、角霜の類か。微量だが、誰かの服に付着している)
後宮とは、華やかな衣装を着た人間たちが毒を撒き散らす庭なのだと、改めて実感する。
「凌家の候妃、顔を上げよ」
頭上から降ってきたのは、先ほどの低く涼やかな声――後宮管理官、珂月の声だった。
薄絹の向こうに透ける影を見る。仕立ての珍しい漆黒の官服。背筋が恐ろしいほど真っ直ぐに伸び、その立ち姿だけで並の宦官ではないとわかる。
(この男、ただの管理官じゃない)
市井で薬を売っていた頃、薊はさまざまな人間を見てきた。目線一つ、指先のわずかな震え一つで、その客が嘘をついているか、あるいは人を殺してきたかが分かった。珂月という男から放たれているのは、圧倒的な「狩る側」の気配だ。
「……恐れながら、珂月様。掟により、候妃が帝の御前以外で顔を晒すことは叶いません」
帳の内側で、薊は声を一段低くし、淑やかに振る舞ってみせた。声質まで偽る余裕はないが、うつむき加減に話せば、薄絹が音を吸収して少しは誤魔化せる。
「掟、か」
足音が近づいてくる。一つ、二つ。ゆっくりと距離を詰め、珂月は薊の目と鼻の先で足を止めた。薄絹越しに、彼の鋭い眼光が突き刺さる。その瞳は夜の池のように深く、冷たい。
「確かに掟はそうだ。だが――薬臭い候妃というのは、我が凰朝の歴史上、貴女が初めてかもしれんな」
一瞬、薊の心臓が跳ねた。
(ばれた――!?)
「手の甲だ。指先に微かに残る、附子と龍脳の匂い。凌家の令嬢は、自ら生薬を調合するのがお好みとお見受けする」
珂月の言葉に、周囲の女官たちがざわついた。薊は固まりそうになる指先を、広袖の陰でそっと握りしめる。
(落ち着け、まだ「すり替わった」と断定されたわけじゃない。ただの薬オタクの候妃だと思わせればいい)
「……身の嗜みとして、養生茶を嗜んでおりますゆえ」
「ほう。養生茶、か」
珂月はくすりと短く笑った。だがその瞳は一切笑っていない。
「ならば、一つ問おう。本日、貴女の膳に供された『薬膽』――あれに仕込まれていたのは、何だ?」
空気が凍りついた。
周囲の女官や下級官吏たちは何のことか分からず顔を見合わせている。だが、薊の脳裏には今朝の毒見の記憶が鮮明に蘇っていた。
(あの養生茶……不味かったのは、生薬の組み合わせのせいだけじゃない。あの独特の、舌の奥に残る微かな苦みと粘り……)
珂月は、芙蓉が倒れた原因を知っている。いや、試しているのだ。目の前にいる「凌家の候妃」が、ただの飾り物か、それとも己の害になる存在かを。
ここで「何も知りません」と知ぬぐいを決め込めば、無能な候妃として切り捨てられるか、あるいは「本物ではない」と勘ぐられて取り調べを受ける。逆に、答えを当てれば――毒殺未遂の渦中に自ら飛び込むことになる。
生き残るための計算が、頭の中で弾き出された。
「……曼陀羅華の葉の、絞り汁」
薊は粛々と、だがはっきりと口を開いた。
「微量であれば痛みを和らげる薬となりますが、量を誤れば強い眩暈と昏睡を引き起こします。今朝の薬膽には、人の命を奪わぬ程度、しかし数時間は動けなくなる絶妙な量が混ざっておりました。……違いますでしょうか、管理官様」
静寂が正殿を支配した。
珂月の眉が、わずかに跳ねる。薄絹越しでも、彼が放つ雰囲気が「疑念」から「強烈な興味」へと変化したのが分かった。
「……お見事だ、凌候妃」
珂月は静かに手を叩いた。
「そこまでの知識をお持ちなら、話が早い。本日、予行はここまでとする。――凌候妃、貴女には特別に、私の執務室で温かい茶を振る舞いましょう。体調の優れぬ貴女のために、特別な『薬』を用意してある」
それは招待などではない。事実上の尋問であり、捕縛だった。
(逃げられない……!)
「……お心遣い、感謝いたします」
薊は深々と頭を下げながら、密かに歯を食いしばった。
正殿を後にする際、離れた廊下の陰から、自分を青ざめた顔で見つめる一人の女官の姿が視界に入った。倒れた芙蓉の側仕えだ。その手には、小さく丸められた紙切れが握られていた。
芙蓉が倒れたのは、単なる過労でも、突発的な病でもない。明確な意志を持った「誰か」の毒殺未遂。そして、その身代わりとして引きずり出された自分。
「……夕餉どころか、命の保証すらないじゃないの」
薄絹の内側で、誰にも聞こえない小声で毒づく。
だが、薊の唇の端は、わずかに上がっていた。危険な薬を調合する時と同じ、ゾクゾクするような高揚感が胸の奥で燻っている。
「上等よ。毒でも嘘でも何でも食べて、絶対に生き残ってやる」
偽りの候妃と、鋭利な刃のような管理官。二人の危険な企みが交錯する後宮で、毒見の娘の生存劇は、まだ始まったばかりだった。




