第3話 執務室の罠と、冷えた毒
後宮管理官の執務室は、正殿の華やかさとは対照的に、まるで冷厳な監獄のようだった。
壁一面の書架には古びた記録や書物が整然と並び、部屋の隅には香炉の煙が静かに棚引いている。
「掛けなさい、凌候妃」
珂月は漆塗りの机の前に腰掛け、薊に席を促した。薄絹の帳をかぶったまま座ると、目の前の卓上にひとつの茶碗が置かれる。
立ち上る湯気から漂ってきたのは、清々しくも微かに尖った香りだ。
「宮廷特製の露草茶だ。体調が優れぬとのこと、気を整えるのに丁度良かろう」
珂月は涼やかな顔でそう言いながら、自分も茶に口をつけた。
薊は薄絹越しに茶碗を見つめる。指先をそっと茶碗の縁に触れさせ、立ち上る蒸気を鼻腔に導く。
(――……これは)
鼻孔を突いたのは、露草の甘香に隠された、わずかな青くさいエグみ。
ほんの微量だが、山中に自生する毒草「烏頭」の精製液が仕込まれている。劇薬である附子と同種の、舌を麻痺させる毒だ。死に至る量ではない。だが、一口でも飲めば数時間は声が出なくなる。
(試している……わたしが本当に毒を見分けられる薬師か、ただのハラハラと怯える令嬢かを)
「……いかがされた? お気に召さぬか」
珂月の目が、帳越しにこちらの挙動を鋭く追っている。断れば「候妃としての無礼」を問われ、飲めば声と自由を奪われて調べ上げられる。
薊は心の中で溜息をついた。
(まったく……この城の人間は、朝から晩まで毒を盛ることしか頭にないのかしら)
「――ありがたき幸せにございます」
薊は静かに茶碗を持ち上げた。
そして、袖で口元を隠すフリをしながら、指先に忍ばせていた「あるもの」を、茶の表面に一滴だけ落とした。
それは今朝、医官所で密かに調合しておいた解毒用の「甘草と紫蘇の濃縮粉」だ。毒の成分を素早く中和し、胃に届く前に毒性を殺す効果がある。薬師としての意地と、日頃の備えがここで実を結んだ。
そのまま、薊は躊躇なく茶を飲み干した。
一瞬、珂月の瞳に微かな驚愕の色が走る。
毒が入っていることに気づかず飲んだのか、それとも確信を持って飲んだのか――彼の計算が狂った瞬間だった。
「ごちそうさまでした、珂月様。大変、質の良い露草でございますね。……少々、烏頭の葉の風味が強く出ておりましたが」
茶碗を静かに卓に戻し、薊は涼しい顔で言い放った。
「なっ……」
控えていた下級宦官が息をのむ。
珂月はしばし無言で薊を見つめると、やがて呆れたように、しかし口元を吊り上げて笑った。
「……見事だな。毒が入っていると知りながら飲む度胸、そして即座に中和してみせた手腕。――貴女は、一体何者だ? 本物の凌芙蓉は、このような芸当ができる女ではない」
ついに核心を突かれた。
帳の内側で、薊は背中に冷や汗が流れるのを感じる。だが、ここで動揺を見せれば終わりだ。
「……本物か偽物か、それが管理官様にとってお気になさるほどの問題でしょうか?」
「なに?」
「本物の芙蓉様は今、何者かの手によって毒を盛られ、倒れ伏しておられます。もし、予行の場に凌家の候妃が姿を現さなければどうなっていたか……。選妃の儀を前に、後宮の管理不行き届きとして、珂月様ご自身の責任が問われていたのではございませんか?」
薊は言葉を重ねる。相手の痛いところを突く――これもまた、毒で毒を制する生存術だ。
「わたしはただ、急場を凌ぎ、お互いの利益を守っただけに過ぎません。芙蓉様が回復されるまでの間、わたしが『候妃』としてここで悪意の毒を弾き返して差し上げる。……それの何がご不満でおありですか?」
静寂が執務室を包み込む。
珂月は肘を机につき、組んだ指の上に顎を乗せた。その瞳は、獲物をじっと見定める肉食獣のようだ。
「……面白い。自分を囮にして後宮の毒を炙り出そうというわけか」
「生き延びるための、ただの『処方箋』でございます」
「いいだろう」
珂月は立ち上がり、ゆっくりと薊の目の前まで歩み寄った。
「その狂気、買いましょう。だが忘れるな、偽物。正体がバレれば即刻首が飛ぶのは貴女だ。そして――私が貴女の毒見役となり、監視し続けてやる」
「……お心強いことで」
二人の視線が、薄絹の帳を挟んで激しく火花を散らした。
その夜、あてがわれた豪勢な候妃の部屋で、薊は一人、冷めきった夕餉の膳を前にぽつりと呟いた。
「……結局、今日もまともなご飯にありつけなかったわね」
お腹の虫がくうと鳴いた。
毒だらけの後宮で生き残るための戦いは、まだ始まったばかりだった。




