第1話「毒見の朝、人違いの夕」
一日の始まりは、大抵、誰かが盛った毒の量で測られる。
薊はそう思っている。ちなみに本人に自殺志願はない。むしろ健康にはいっそ意地になるほど気を遣っているし、今日も生きて夕餉にありつくつもりでいる。ただ、彼女の朝はいつも、匙の先に乗った白い粉から始まるのだ。
「附子、三厘。舌先が痺れるまで、数えて十二」
呟きながら、薊は指先の粉をひとつまみ舌に乗せ、数を数える。十二を数え終える前に唇の端がじんと痺れ始めれば、それは「本物」の証だ。偽物の附子――つまり毒にも薬にもならない、ただの澱粉――では、この痺れは起きない。今朝の分は、正真正銘の毒だった上等な附子だ。ちなみに同じ根が、量を違えれば冷えた腰を温める灸薬にもなる。毒と薬の境は、たいてい匙一杯ぶんしかない。
「薊、生きてるか」
声をかけてきたのは、宮廷医官の桂翁だった。白髪頭に丸眼鏡、指先はいつも生薬の匂いがする。薊が痺れの引かない唇のまま「生きてます」と答えると、桂翁は「そうか」とだけ言って、次の膳を寄越した。この職場の朝の挨拶は、だいたいこの二言で完結する。
薊は元来、市井の薬師の娘だった。父の急死で行き場を失い、桂翁に拾われて宮廷医官所の下働きになったのが二年前。以来、毒を見分け、薬を調じ、時には死体の臭いから死因を当てる——そういう仕事を、淡々とこなしてきた。感情より先に「これは何の毒か」が気になる性分は、周囲には気味悪がられる。もう慣れた。
その日の毒見は、凌家の候妃・芙蓉に供される薬膽(やくたん、茶と薬湯の間のような養生茶)だった。今年、月華宮に上がる候妃は三人。そのうちの一人が芙蓉である。味は正直、美味くない。だが不味さと毒性は別の問題で、薊はそれを見分けるのが仕事だ。
異変は、昼を過ぎてから起きた。
「凌家の芙蓉様が、お倒れに!」
悲鳴じみた声が回廊に響いたとき、薊はちょうど毒見結果を伝えに向かう途中だった。駆けつけてみれば、芙蓉は東屋の椅子でうなだれるように倒れ、女官たちは真っ青な顔で右往左往している。
「毒ですか」
薊が真っ先に聞いたのはそれだった。女官の一人が涙目で首を振る。「わかりません、でも――今日は選妃の儀の予行が。このままでは、芙蓉様が出られません……!」
選妃の儀。五家の候妃が初めて帝の御前に並ぶ、後宮でもっとも重い儀式。今日はその予行で、衣装合わせと立ち居振る舞いの確認のため、候妃たちは正殿に召される予定だった。しかも候妃の顔は、儀式の当日までは誰にも見せてはならないという古くからの決まりがある。だからこそ全員、儀式用の薄絹の帳を頭からかぶって移動する。顔を見られるのは、帝と一部の高官のみ。
薊は倒れた芙蓉の脈を取り、瞳を確かめ、口の中を覗いた。唾に苦みも痺れもない。中毒の兆候はなし。ひとまず一命に別状はない――そう判断してほっと息をついた、その時だった。
「――ああ、良かった。まだ帳の中でいらっしゃいますね」
背後から響いた声に、薊は振り返る。立っていたのは見覚えのない宦官装束の男だった。「予行のお時間です。凌家の候妃様、こちらへ」
「いや、あの、わたしは」
「大丈夫です、緊張なさらずとも。皆様、最初は皆そう仰います」
言い終わる前に、両脇から女官たちの手が伸びて、するりと帳を被せられる。ちょうど薊は芙蓉のすぐ隣にしゃがみこんでいたのだ。薄絹の向こうで、女官たちの誰も、帳の中身が本物の芙蓉かどうかまでは確かめていない。確かめる必要がなかった。候妃の顔は、誰も知らないのだから。
(――これは、まずい)
薊の脳裏に、綺麗に並んだ選択肢が浮かぶ。
一、「人違いです」と叫ぶ。結果、凌家は候妃を予行に出せなかった不敬を咎められ、なぜか下働きの自分がここまで担ぎ込まれた経緯まで洗いざらい調べられる。共倒れ。
二、黙って予行だけやり過ごし、隙を見て本物と入れ替わる。この場さえ乗り切れば、あとは芙蓉の女官たちと口裏を合わせればいい。
三、この場で毒でも呑んで倒れる。……これは自分の首を絞めるだけなので却下。
消去法で残るのは二番だ。生存率の高い順に並べれば、いつもこうなる。毒見と同じ回路である。
「……緊張してるだけです。少し、時間をください」
気づけば、薊はそう答えていた。声は自分のものとは思えないほど落ち着いていた。
帳の中、薊は倒れている本物の芙蓉にそっと囲うように囁いた。「すぐ戻ります。少しだけ、借りますね」
芙蓉は薄く目を開け、何かを言いたげに唇を動かした。だがそれより先に、女官たちが「芙蓉」の背を支え、正殿へと促してしまう。
正殿に着くと、薄絹越しに、居並ぶ官吏たちの影が見えた。中央、一段高い場所に立つ人影が、ゆっくりとこちらへ顔を向ける。輪郭だけでもわかる、恐ろしく整った所作だった。
「凌家の候妃、遅れて到着か」
低く、涼やかな声だった。宦官にしては場慣れしすぎている、と薊は場違いなことを思う。
「珂月様、申し訳ございません。少々、体調が優れぬようで」
女官が取り繕う声に、珂月と呼ばれた男は「そうか」とだけ返し、しばし黙った。薊は帳の内側で、自分の心音がやけに大きく響くのを聞いていた。
やがて珂月が、静かに続けた。
「――脈が乱れているようだな。薄絹越しでもわかる。……ずいぶん、面白い候妃殿だ」
帳の内側で、薊は密かに舌打ちした。
(――これは、思っていたより長丁場になりそうだ)
毒は、量を誤れば薬にも刃にもなる。人違いも、たぶん同じだ。使いようによっては、これは薊にとって唯一の――生き延びるための劇薬になる。
そう思い定めて、薊は帳の中で、静かに息を整えた。
ちなみに、この日の夕餉に薊はありつけなかった。生き延びる算段より先に確かだったのは、ただ、腹が減ったという事実だけだった。




