第63回 なごり雪
目を覚ますと、舞子が僕の胸に鼻先をちょこんと付けて眠っていた。
敷き詰めたクッションと毛布。
それは、今までに何度も繰り返してきた光景だった。
高速のパーキングで、白浜の海岸で、琵琶湖畔で、僕と舞子はいつもこうやって車の後ろでくっついて寝ていた。
それは男と女ではなく、友達でもなく、兄妹でもなく、ましてやただの同居人でもなく、いつの間にかお互いに不可欠な、まるで最初からそういう形だったみたいに、切り離せないものとして、ずっと続いていくと無意識に思い込んでいた。
でも今日が始まれば、僕は大阪へ、舞子は軽井沢へ。
それぞれの場所に離れていく。
僕は舞子の顔をじっと見つめ、額にかかった髪をそっと指で持ち上げた。
「ん…あ、ハルくん、おはよう」
「おはよう。寒くなかった?」
「大丈夫。ハルくんあったかいから」
舞子はそう言って、大きな目を細めて笑った。
「電車何時?」
僕はその笑顔が眩しくて、わざと事務的に訊く。
朝の光がフロントガラス越しに車内を暖かく照らしていた。
「名古屋で『特急しなの』がお昼前だから、九時十五分の新快速かな」
「ほな、まだちょっと余裕あるな。京都駅まで車で送って行くわ」
舞子は首を振った。
「ううん。最後に、鴨川デルタ行きたい」
そう言って、いつもの方角を指さす。
「歩いて行こ。そこから河原町今出川でバス乗る」
「……そやな」
僕らは車を降りて、アパートの駐車場を出た。
もう何百回と歩いた道なのに、今日は少しだけ歩幅が揃わない。
荷物は、舞子の背中のリュックひとつだけ。
二年前、冬の夜にこの前でうずくまっていたときと、同じリュックだ。
「軽なったな」
「うん。だいぶ捨てたし、送ったし」
そう言いながら、舞子はリュックの肩紐をきゅっと引いた。
いつもの道を歩く。
三月半ばの空気は、まだ冷たいのに、どこか軽かった。
冬の名残が指先に残っているのに、息を吸うと、ほんの少しだけ草の匂いが混じる。
空はよく晴れていて、柔らかな光が降り注いでいた。
春が、遠慮がちに様子をうかがっているみたいだった。
川が見えた。
鴨川デルタ。
何度も、何度も来た場所。
夏には草に座り込んで、秋には夕方まで喋って、冬には手袋越しに手をつないで、春には、ただ何もせずに川と桜を眺めていた。
今日は、全部が重なって見えた。
デルタの縁に立つと、水の音がはっきり聞こえる。
冷たい流れと、日差しの温度が、同時にそこにあった。
舞子は川のほうへ一歩踏み出して、立ち止まった。
「……ここさ」
「うん」
「いつ来ても、ちゃんと同じだね」
「そうやな」
同じで、でも、同じじゃない。
それを言葉にしなくても、分かっていた。
川面に光が跳ねて、目が眩む。
風が吹いて、舞子の髪が少し揺れた。
「最初に来たとき、覚えてる?」
「覚えてる。銭湯の帰りやったな」
「私、ここ、ちょっと怖かった」
「なんで」
「こんな大きな三角州、初めて見たから」
舞子は笑った。
「今は、落ち着くのにね」
「時間やな」
「うん。たぶん」
少しだけ沈黙が落ちる。
気まずさじゃない。
話さなくても、足りている時間。
僕はデルタを見渡した。
ここで笑って、怒って、黙って、眠くなって、
そうやって、二人で過ごしてきた。
「……なあ」
「なに?」
「ここ、また来る?」
舞子は、少し考えてから答えた。
「来るよ。たぶん」
それ以上は言わなかった。
"一緒に"とも、"いつか"とも。
でも、それでよかった。
川の向こうを、学生が自転車で走り抜ける。
日常は、何事もなかったみたいに続いている。
「行こか」
僕が言うと、舞子は頷いた。
「うん」
デルタを背にして歩き出す。
振り返らなかった。
もう一度見たら、
きっと、足が止まってしまう気がしたから。
鴨川デルタは、そこに残る。
僕らがいなくなっても、
春も夏も秋も冬も、変わらずに。
◇ ◇ ◇ ◇
京都駅、東海道本線。
朝の通勤ラッシュが終わり、観光客が動き出すにはまだ早い時間、上りのホームは空いていた。
舞子が乗る新快速がやってくるまでは、まだ十分ほどある。
「朝ごはん、食べてないけど大丈夫か?」
「うん。名古屋で何か買って、特急で食べるよ」
「なあ、行くのやめへん?」
僕がそう言うと、舞子は笑い出した。
「何言ってるの!無理だよそんなの!もう荷物も送っちゃったし、部屋も用意してくれてるんだよ!無理だよ…そんなの…」
だんだんと声が小さくなり、最後は涙声になった。
分かっている。
そんなの無理だ。
勝手な話だ。
「あ、雪」
舞子が手のひらを上に向けて手を差し出した。
小さな雪がひとひら、ふたひら、ゆっくりと舞い始めていた。
「珍しいな、京都で三月半ばに。滋賀県ならともかくな」
「そうだね…」
「なんかそんな歌あったな」
「イルカだね」
初めて銭湯に行った時の神田川といい、相変わらず妙に古い歌を知っている。
やがて、構内アナウンスのくぐもった声が、間も無く舞子の乗る電車がやってくることを告げた。
「舞子、行くな」
「行くよ。ごめんね」
「舞子がいいひんかったら、僕は…」
「ハルくんは大丈夫。私が保証する」
そう言って舞子は、背伸びをして僕の首の後ろに両手を回して、耳元で言った。
「大好きだったよ、ハルくん」
「過去形、なん?」
「ううん。間違い。大好きだよ、ハルくん」
そう言って舞子は、僕の唇に唇を重ねた。
舞子がやってきて二年と少し、初めてのキスは、とてもしょっぱかった。
「じゃあね」
そう言って舞子が電車に乗る。
コンプレッサーの音がして、ドアが閉まり、電車はゆっくりとホームを出て行った。
小さな窓から、手を振る舞子の残像を残して。
ホームには、季節外れの雪が降り続けていた。
頭の中に、イルカの『なごり雪』が流れ出す。
確かに、幼かった舞子はいつの間にか大人になっていた。
僕が気づかないままに。
そして、春が来て、去年よりずっときれいになっていた。
さよなら、舞子。
さよなら、僕たちの二年間。
この日、こうして僕は、ひとりになった。




