第64回 置き去りにされた時間
京都駅は、低くて、広かった。
横に長い屋根が、視界を押さえつけている。
コンクリートの梁は黒ずみ、壁の案内板は色が抜けている。 空間はだだっ広いのに、どこにも逃げ場がない。
構内に、アナウンスが流れる。
発車時刻。 行き先。
「新快速」という言葉だけが、やけに通る。
速い。便利。 それだけの電車。
舞子は、あれに乗った。
さっきまで、同じ場所に立っていたはずなのに、 もう、その新快速はここにいない。 名古屋へ向かって、信州に向かって、この駅を、きっぱり切り離していった。
スーツケースの転がる音。 観光客が立ち止まり、駅員が淡々と答える。 修学旅行生の列が、白線の上をぞろぞろ流れていく。
誰も、別れた人間のことなんて気にしない。
京都駅は、人を送る場所であって、残される側の居場所じゃない。
胸の奥が、じわっと冷える。 泣くほどじゃない。ただ、ここに立っているのが、しんどい。
僕は、改札を背にして歩き出した。
これから大阪へ向かうでもなく、舞子が待つアパートへ帰るでもない。行き先が、初めて完全に空白になった。
地下鉄に乗る気はしなかった。
京都タワーの前を過ぎ、河原町通から鴨川を渡る。さっきまでの雪はもう止んでいた。
雲の切れ間から、春みたいな光が落ちている。
水面がきらきらして、風も穏やかだ。それなのに、指先はまだ冷える。
橋の上で立ち止まり、川を見下ろす。 穏やかな流れが、今はかえって他人行儀に見えた。さっきまで一緒だった時間だけが、ここに置き去りにされたみたいだった。
歩き出す。
東へ向かう。
東大路通へ出ると車の音が増え、道はまだ平らなままだ。
なのに、呼吸だけが少しだけ乱れる。
清水坂に入ると、足元の石畳が不揃いになる。
観光客の声が混じり、土産物屋の軒先から甘い匂いが流れてくる。
前に来たときは、賑わいへ向かって静かな高台寺道から下りていった。
今日は逆。 石の角が丸い坂道を、僕はひとりで上っている。
「急に観光地だね」
舞子が、ちょっと楽しそうに言った、あの声が聞こえる。
雪はもうとっくに止んでいるのに、鴨川のほうから吹き上げてくる空気は、まだ冬の名残を含んでいた。 春めいた光が差しているぶん、その冷たさだけが、妙にはっきりする。
舞子は店先をひとつひとつ覗き込み、
「帰りに寄ろうね」
そう言って、何度も振り返っていた。
──帰り。
その言葉だけが、胸に残る。
今は、歩くだけでいい。戻る約束のない坂を、僕は黙って進む。
観光客の笑い声が、背中を追い越していく。 賑わいも、甘い匂いも、全部知っているはずなのに、それらはもう、僕の記憶の側にしか存在していない。
変わったのは── この道を、舞子と一緒に歩くことがもうできない、という事実だけだった。
僕は、石畳の先を見て、もう一度だけ深く息を吸い、仁王門まで歩いた。
そこで引き返してまた石畳を降りる。 三年坂、二年坂、舞子と歩いた道を辿る。
やがて朱色の楼門が現れる。
八坂神社。
夏には茅の輪をくぐり、大晦日にはをけら火をもらってくるくる回しながら歩いた。
夏越大祓の水無月を買った鍵善良房。
コンチキチンの祇園囃子を聞きながら、浴衣姿の舞子と歩いた四条通。
年越しそばとお雑煮の材料を買いに行った錦市場。
今日は、どこまで行っても、思い出しか拾えない。
春も夏も秋も冬も、この辺りのすべての風景の中に、舞子がいた。
僕が歩くたび、過去の笑い声が蘇り、今日の僕を追い越していく。
「さて、懐かしい曲にリクエストをいただきました」
寺町通りの電気屋の店先のラジオから、ばんばひろふみの歌声が流れてきた。
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♪四条通をゆっくりと
君の想い出残したとこを
黒いダッフルコート着て
背中丸めて歩いてます
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アーケードを抜け、三条大橋から鴨川を見下ろすと、今日もカップルが等間隔で並んでいた。
「ねえ、あれ、乱したらどうなると思う?」
舞子の声が聞こえた気がして、僕は思わず涙がこぼれそうになって、ティッシュを取り出し鼻を噛むふりをしてごまかした。
もう、この街の思い出に捕まってはいられない。
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♪青春色の京都の街を
静かに静かに歩いていました
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ばんばんの声がずっと頭の中でリピートする。
僕は川端通を、駆け出すように、ただ北に向かって歩いていった。
この道を二人で自転車に乗って何往復したんだろう?
疎水を越え、丸太町を越え、やがて賀茂大橋の向こうにあの三角州が見えてくる。
僕たちの場所、鴨川デルタ。
僕たちの、ひなたぼっこ。
永遠に続くと思っていた時間。
◇ ◇ ◇ ◇
「お世話になりました」
部屋からゴローちゃんを回収し、最後の鍵を閉めて大家さんに返しに行った。 カチリ、と鳴った鍵の音は、僕と舞子の共同生活を、一冊の分厚い本として閉じるような音だった。
もう、あの部屋に、舞子と暮らしたあの部屋に戻ることはない。
「さ、行こか、ゴローちゃん」
僕は車のドアを閉め、エンジンを掛けた。 ゴローちゃんが小さく「にゃ」と鳴いた。
助手席に置いた道路地図には、新しい住所に赤鉛筆で丸がつけてあった。




