第62回 好きなままで
ストーブの上のヤカンが、しゅう、と小さく鳴っていた。
さっきまで規則正しく聞こえていたその音が、今はやけに間延びして感じられる。
「私ね」
舞子は、畳の縁を見つめたまま言った。
「大阪には、一緒に行かない」
それは拒絶というより、決定事項だった。
迷いのない声で、でも強くもない。
僕は、その言い方がいちばん堪えた。
「……なんでや」
自分の声が、思ったより低かった。
舞子は少しだけ間を置いてから、ゆっくり顔を上げた。
「ハルくん、今、すごく楽しそうだよ」
それは責める言い方じゃなかった。
むしろ、確かめるみたいな声音だった。
「仕事も、バンドも、ラグビーも。やりたいこと、全部ちゃんと手に取ってる感じがする」
僕は何も言えなかった。
否定できる要素が、ひとつもなかったからだ。
「私はね」
舞子は続ける。
「その邪魔をしたくない。ハルくんが、もっともっと、のびのび好きなことをやっていくのを、横で止める存在にはなりたくない」
ストーブの火が、小さく揺れた。
「それに……」
一瞬だけ、舞子の声が揺れた。
「私がここに来たのって、ハルくんだけの理由じゃないんだよ」
「……京都、やから?」
舞子は小さく頷いた。
「うん。京都だったから。この街の空気とか、時間の流れとか。ここに"来てみたい"って思えたから」
それから、はっきりと言った。
「大阪には、正直、あんまり興味ない」
その言葉は静かだったけれど、逃げ場がなかった。
「でもね」
舞子は、少しだけ笑った。
「ハルくんのいない京都には、いても仕方ないとも思う」
胸の奥で、何かが音を立てて崩れた。
その瞬間、僕はようやく気づいた。
これは流れなんかじゃない。
──僕は、舞子が好きなんだ。
友達としてでも、同居人としてでもなく。
失うことを、はっきり怖いと思えるくらいに。
「……好きや」
思ったより、素直に言葉が出た。
舞子は驚いた顔をしなかった。
むしろ、少しだけ安心したように目を伏せた。
「知ってるよ」
そう言った舞子の声は、少しだけ泣きそうだった。
「私も、ハルくんのこと、恋愛として好きだよ」
一拍。
「だから、一緒に行けない」
その理屈は、残酷なくらいきれいだった。
「一緒に行ったら、私、きっと我慢する。ハルくんが忙しくなるたびに、分かってるふりをして、少しずつ自分を小さくする」
舞子は、自分の胸に手を当てた。
「そしてハルくんも、その内にそんな私に気づいて、気遣って、我慢するようになる。ハルくんも、少しずつ自分を小さくする」
舞子の大きな目が潤んでいくのが分かった。
「それ、たぶん、長く続かない」
僕は何も言えなかった。
否定したかった。
でも、できなかった。
「私、軽井沢に戻る」
「……蕎麦屋?」
「うん。あそこなら、ちゃんと働けるし、ちゃんと暮らせる。
ハルくんの隣じゃなくても、私、自分の足で立てる気がする」
しん、と部屋が静まる。
「離れて、暮らそう」
舞子は、僕を見た。
「好きなままで」
その言葉が、いちばん痛かった。
僕は、やっと頷いた。
「……分かった」
声が震えなかったことだけが、救いだった。
大阪へ行く僕。
軽井沢へ戻る舞子。
同じ時間を生きながら、違う場所で暮らすことが、静かに決まった。
ストーブの火が、また小さく鳴った。
ヤカンの音が、元の規則正しさを取り戻す。
世界は何も変わっていないのに、僕らだけが、少し遠くなってしまった気がした。
◇ ◇ ◇ ◇
それからの日々は、拍子抜けするくらい、僕らが「何事もなかったフリ」を続ける時間だった。
僕は相変わらず出版社のバイトに通い、朝の出町柳から京阪に乗り、御堂筋線の人波に押され、夜は終電か、時々そのまま大阪で泊まる。
ただ違うのは、仕事中も、ふとした瞬間に「軽井沢」という単語が頭の片隅をよぎり、胸を冷やすことだった。
部屋探しは、一からやり直した。 前に決めかけていた一LDKと同じ、庄内。
条件を削って、削って、料理ができる最低限の台所と、風呂と、ペット可。
最後に残ったのは、ワンルームだった。
それで十分だと思った。 というより、それ以上を望む理由が、もうなかった。
卒業式は、驚くほどあっさりしていた。 スーツを着て、証書を受け取って、写真を撮って、解散。 広研の追いコンも、顔を出して酒を飲み、笑って、「お疲れさまでした」と言って帰った。
会社に行き始めてから、足が遠のいていた二十四時間カフェのバイトには、最後に一度だけ入った。
タツヤ、ヒロくん、マサキ、タカトモ。 いつもの深夜シフト、朝まで。
コーヒーを淹れて、灰皿を替えて、くだらない話をして、いつもと同じ時間が流れていく。
昨夜、交代の時間、夕方シフトのサキチと会った。
何も聞かずに、顔を見た瞬間に、彼女が泣き出した。
「……なんで泣くねん」
そう言った僕の方が、先に声が詰まった。
僕らは、涙が出そうになるたびに、それを笑いに変えていた。
笑って別れたはずなのに、帰る場所だけが少しずつ空っぽになっていった。
舞子の荷物は、少しずつ減っていった。軽井沢へ送る段ボール。シナコさんに「使って」と渡す服。粗大ごみに出した、もう使わない棚。
部屋は、日に日に静かになっていった。
ソファーベッドだけは、僕がもらうことにした。大阪に持っていく。
あのベッドだけが、僕らが出町柳で共有した時間の、唯一の証拠品になるような気がした。
ゴローちゃんも、僕と一緒だ。
舞子は「ハルくんには仕事があるから大変だ」と言ったけれど、僕が「猫は家族や」と押し切った。
猫までいなくなったら、僕の世界は形を保てないと思った。
三月半ば。
引っ越し屋が来て、あっという間に荷物を運び出していく。
段ボールの奥から、普段は見えなかった畳の変色や、壁の傷が見えた。
最後の箱が出ていったあと、部屋に残ったのは、何もない空間だった。
「……こんなに広かったんやな」
思わず、そう呟いていた。
僕らが二人で暮らしていた空間は、こんなにも空虚な、たった一部屋だったのか。
舞子が、窓際に立ったまま振り返る。
「ね、それはいいけどさ」
少し笑って、
「今夜、どこで寝るの?私、軽井沢行くの明日だよ?見送ってくれるって言ってたよね」
一瞬、答えに詰まって、 そのとき、思い出した。
──車。
後ろに積んだままの、クッションと毛布。
「あ」
舞子も同時に気づいた顔をして、
「……ね」
少し悪戯っぽく、
「今夜、駐車場の車で寝ようよ」
昔みたいに。
この車で、色んな場所に行った。フルフラットにした後部座席で、クッションを敷いて、毛布にくるまって。
「……その前にさ」
舞子が言った。
「最後に銭湯とテンイチ、連れてって。銭湯行ってから、テンイチ食べたい」
断れるはずがなかった。
僕らの始まりの味。共同生活の証。
そして、ビートルズのかかる銭湯。
赤いタオルを首に巻いて、毎日自転車で通ったあの銭湯。
久しぶりのテンイチ。 カウンターに並んで座る。
いつもと同じ味。いつもと同じ、チャーハン定食と餃子。
一口目を啜った瞬間、なぜか、急に視界が滲んだ。
「……っ」
堪えようとしたけど、無理だった。
箸を置いたまま、涙が、ぼたぼた落ちる。
「ちょ、ちょっと……」
舞子も、顔を伏せて、
「……ずるい……」
声が震えて、次の瞬間、舞子も泣き出した。
ラーメン屋の真ん中で、二人揃って、どうしようもなく泣いた。
周りの客の視線も、店員の困った顔も、もう、どうでもよかった。
泣きながら、麺を啜って、泣きながら、笑って、泣きながら、「美味しいね」と言った。
これが、最後なんだと、誰も口にしなかったけれど、二人とも、ちゃんと分かっていた。
この、脂と塩気と炭水化物のかたまりみたいな一杯が、僕らの別れの餞別だった。
店を出ると、夜は静かだった。
アパートの駐車場に戻り、後部座席を倒して、クッションを並べ、毛布をかける。
並んで横になり、天井を見上げる。
ゴローちゃんが、僕と舞子の間に丸くなった。
「ね」
舞子が、小さく言う。
「いい夜だね」
「……ああ」
それ以上、言葉はいらなかった。 翌朝が来ることだけが、もう決まっていた。




