第61回 冬の終わり、春のすれ違い
二月に入った京都は、一月までの冬とは少し質が違う。 寒さはまだ居座っているのに、正月の緩みだけがきっぱり消えて、街の輪郭が急に硬くなる。
「ねえ、今日さ」
舞子がダッフルコートの前を押さえながら言った。
「吉田さん、行こう。節分でしょ。今年はちゃんと見てみたくて」
「ん?行きたいけど、舞子バイトやろ?金曜日やで」
「マスターが御所八幡さんの当番らしくてお店休みなんだよ」
「なるほど」
吉田神社の節分祭は、どこか"冬の区切り"みたいな顔をしている。 正月の名残を、火と音で一気に追い払う行事だ。
出町柳から東へ歩くと、空気が少しざわつき始める。 屋台の呼び声、油の匂い、甘酒の湯気。 夜の冷えた空気の中に、祭りの熱だけが浮かんでいる。
鳥居をくぐった瞬間、舞子が小さく息をのんだ。
「わ……火、きれい」
境内の奥で、松明の炎が揺れていた。
赤と橙が重なって、夜の闇に濃い色を塗り込めていく。
鬼やらいの太鼓が鳴ると、人の流れが一瞬だけ静まる。鬼を追い払う儀式だと分かっていても、あの瞬間の空気は少しだけ異質だ。
舞子は口を結んだまま、目を離さずに見ていた。
やがて儀式が終盤に差しかかると、今度は舞台の空気が、すっと乾く。
桃の弓が掲げられ、葦の矢がつがえられる。
誰かが息を止めたのが分かった。 次の瞬間、
ヒュッ。
細い音が、夜気を裂いた。 矢は闇へ溶けるみたいに飛んでいって、目で追う前に消える。
鬼が追われるのと同時に、あの異質さもまた、境内の外へ押し出されていく気がした。
鬼が退き、拍手が起こる。 その拍手の音で、境内の緊張がほどける。
「なんか……面白いね」
舞子がそう言って、ふっと笑った。
僕らはそのまま屋台の並ぶ方へ流れた。焼きとうもろこし、たこ焼き、甘酒。
舞子は迷った末に、湯気の立つ甘酒を選ぶ。
「あつ」
と言いながら、嬉しそうに両手で持つ。
「こういうの、冬の終わりって感じする」
「暦の上ではもう明日から春やからな」
舞子は頷いて、もう一口飲んだ。
帰り道、境内を出ると、街はまた静かだった。 でもさっき見た火の色だけが、まだ目の奥に残っている。
二月の京都は、こんなふうに、
何かを終わらせて、何かを始める顔をしている。
鬼を追い払う火を見ながら、
僕はきっと、自分でも気づかないうちに、
もう次の季節の方ばかり見始めていたのだと思う。
社会に出ること。
仕事を覚えること。
新しい部屋を探すこと。
舞子と並んで歩いているつもりだった。
でも実際には、
僕の時間だけが、少しずつ先へ進み始めていた。
あの火の色が、まだ目の奥に残っていた頃から。
◇ ◇ ◇ ◇
一月の終わり、内定先の出版社から、来月からバイトに来ないかと誘いがあった。
版下整理、入稿、原稿整理、その他雑用などなど。
「勉強なるで」
という編集長の言葉に、僕は一も二もなく「行きます」と答えた。
大学で、広研でやってきたことを、実際の出版の現場で学び直す。それは、とてつもなく魅力的だと思った。他の同期よりも先んじて四月からの職場に顔を覚えてもらうこともできる。
節分明けの月曜日から、僕の生活はがらりと変わった。
朝の出町柳はまだ静かで、叡電のホームに立つ人もまばらだ。
改札を抜け、京阪に乗り、大阪へ向かう。
学生の頃から何度も乗った路線なのに、その日からは景色の見え方が少し違った。「通学」じゃなくて、「通勤」になっただけで、街は妙に大人びて見えた。
出版社の編集部は、想像していたよりも雑然としていた。
机の上にはゲラと原稿が積まれ、赤ペンと灰皿とコーヒーカップが無秩序に並んでいる。
電話が鳴り、ファックスが唸り、誰かが「締切ヤバいぞ」と笑いながら叫ぶ。
版下整理は、正直言って地味な作業だった。写植を順番に並べ、赤字を確認し、ノンブルをチェックする。でも、その一枚一枚に「本になる前の時間」が詰まっている気がして、触るたびに胸が少し高鳴った。
印刷所への入稿も、最初は緊張した。大きな茶封筒に入れた版下を抱えて、言われた住所を地図で確認しながら歩く。
扉を開けると、インクと紙の匂いがして、「ああ、ここがゴールなんだ」と思う。
自分が社会に役に立っている気がした。
気がつくと、毎晩、帰りは遅くなっていた。
「悪いな、もうちょいだけ手伝って」
そう言われると断る理由なんてなかったし、むしろ嬉しかった。時計を見ると二十二時を回っていて、京阪の終電を気にしながら原稿を束ねる。
それでも、仕事が終わる頃には妙な達成感があって、疲れよりも興奮の方が勝っていた。
ある週末、先輩が声をかけてきた。 「今日、ちょっと飲んで帰らへん?明日休みやし」
そう言われて時計を見ると、もう二十二時を回っていた。 確かに翌日は土曜日で、大学もない。
「行きます」
即答だった。
会社の近くの居酒屋は、編集部の延長みたいな空気だった。
昼間はゲラを囲んでいた人たちが、今度はジョッキを片手に同じ話をしている。
締切の話、ライターの話、失敗談。 笑いながら聞いているうちに、気がつくと終電の時間はとっくに過ぎていた。
「まあ、今日は泊まっていけ」
先輩に連れられて入ったのが、駅前のカプセルホテルだった。
天井の低い箱の中で横になり、狭いはずなのに、妙に落ち着く自分に驚いた。
翌朝、少しだけ酒の残る頭でシャワーを浴びながら、 「社会人って、こういう感じなんやな」と思った。
それが最初の一回だった。
それからだ。 平日でも、仕事が長引いたり、 「ちょっと一杯だけ」が二杯、三杯になったりして、 帰れない日が少しずつ増えていった。
泊まる場所も、もう迷わなくなった。 カプセルの受付で名前を書く手つきが、いつの間にか慣れている。
終電に間に合った日も、アパートに帰ると、舞子はもう寝ていることが多かった。
「おかえり」
朝にそう言われるだけで、特に何も言われない。
その「おかえり」は、僕が昨日どこで何をしていたかを尋ねる言葉ではなくなっていた。
ただ、帰ってきた人に向けて置かれる、静かな定型句みたいになっていた。
それを、僕は「大丈夫なんやな」と勝手に解釈していた。
そう解釈した方が、都合がよかった。
仕事は面白くて、毎日が新しくて、 気がつけば頭の中は、次の締切や、次に任されそうな仕事のことでいっぱいだった。
二月の京都は、まだ寒い。
でも僕は、その寒さよりも、自分の世界が少しずつ広がっていく感覚のほうに、夢中になっていた。
バイトの合間を縫って改稿を仕上げた卒論は教授のOKを貰い、口頭試問も問題なく通過した。
後は卒業を待つだけになった。
平日は会社、週末はバンドやラグビーの予定でいっぱいだった。
舞子の誘いにも、どれも応えることができないほどに。
「ね、ハルくん、バレンタインデーにどっかでご飯食べない?私ご馳走するよ」
僕は顔を上げて、自分の手帳を確認した。
言ってから、しまった、と思うより先に、手帳の予定を確認する癖の方が勝っていた。
「ごめん、タツヤらと木島平に滑りに行く予約取ってしもた」
舞子は小さく俯き、「そう…」と呟いた。そしてすぐに、いつもの笑顔を顔に戻して、
「了解!怪我しないでね!」
と返した。僕はその笑顔に安堵し、このところ感じていた微かな違和感から、またしても目を逸らした。
ラグビーもバンドもスキー場も、一緒にくればいいのに、と誘っても、
「私はいいや。シナコさんと遊んでる」
と首を横に振る。まあ、あのお姉さんと一緒なら寂しくはないだろう。
そんな生活と並行しながら、二月が後半に差し掛かる頃には春から住む部屋探しもしなければならない。
バイトの合間に許可をもらって、『週刊住宅情報』を頼りに不動産屋を回る。
職場へのアクセスが良くて、駅からなるべく近くて、今度は部屋に風呂もあって、二口のガスコンロが置けるちゃんと料理ができる台所がある物件。あと忘れちゃいけないペット可。
もちろん舞子は一緒に来るだろう。
そう思い込んでいた。
彼女の新しいバイト先や、家具の配置を考えるだけで胸が高鳴った。
当然、一LDK。その分家賃は上がるが、僕が稼ぎ、舞子が大阪でバイトを見つければ無理はない。
僕はそう信じて疑わなかった。
何件もの釣り広告に翻弄されながら、僕はやっと条件に合う物件に巡り合った。
阪急宝塚線庄内駅徒歩五分、築十年の一LDKマンション、もちろん風呂とトイレは別で何と入口にはオートロックまでついている。
駅前には昔ながらの大きな市場があって、マンションの一階はレンタルビデオ店だった。歩いて三分の場所にコンビニもある。
会社のある中津までは阪急で七分。職場から近過ぎないのがいい。
それでいて、豊中市の中では下町だから、家賃も予算内だった。
「明日、正式に返事して手付打ちます!」
そう言って、意気揚々と不動産屋を後にした。
◇ ◇ ◇ ◇
「私、大阪には一緒に行かない」
喜んでくれると思った舞子の返事は、僕の期待を裏切るものだった。
ストーブの上のヤカンがシュンと音を立て、ゴローちゃんがみじかく「にゃ」と鳴いた。




