第60話 雪の出町柳の豚汁定食
「論としてはこれで大丈夫」
年末に書き上げた僕の卒論は、教授からOKを貰った。
ただし、
「このままじゃ増築を繰り返した家みたいに、変な渡り廊下や不要な階段や行き止まりの扉なんかがツギハギになっているから、整理して清書してきなさい」
という新たな課題も渡された。
やれやれだ。
また机で原稿用紙に向かう日々。
ただ違うのは、もう積み上げた資料は必要なく、自分の書いた文章を推敲しリライトするだけだということだった。
正直言って退屈な作業だった。
新しい文章を書くわけじゃない。
書いたものを削り、並べ替え、つなぎ直していくだけの日々だった。
タバコの本数と、冷めたコーヒーだけが増えていく。
年末は舞子におんぶに抱っこだった料理や買い物やコインランドリーも、この苦行から逃れたくて率先して僕がやる。
机から逃げるたびにゴローちゃんへカリカリを入れていたら、ゴローちゃんは少し太ってしまった。
「ねえハルくん、久しぶりにテンイチ行かない?」
ずっとしかめっ面の僕を慮って、舞子は僕が喜びそうな提案をちょこちょことしてくれる。
銭湯に行けば、ジョンが
『できないことなんて、あなたには何もない』
と元気づけてくれた。
うん。僕には何でもできるはずだ。
◇ ◇ ◇ ◇
「ねえハルくん!ハルくん!窓の外すごいよ!」
舞子の声に目を開けると、窓の外がやけに眩しかった。
起き上がって窓の外を見る。
昨夜、いつの間にか降り始めた雪が、出町柳の街を真っ白に染め上げていた。
「ねえ、デルタ行こうよ!絶対キレイだよ!」
舞子はそう言いながら、いそいそとマフラーを巻き、ニットキャップを被り、手袋をして出かける気満々だった。
──外は昨日までとは別世界だった。
ゴローちゃんは、いつものように尻尾をピンと立ててアパートの外まで付いてきたが、雪に足を一歩踏み出した途端に「みゃ」と小さく鳴いて部屋に戻っていった。
ドアの前で「早く開けろ」と怒っている。
舞子と歩く。
出町柳の駅前に出た瞬間、音が一段落ちた気がした。
改札を抜ける足音も、車の走る気配も、すべてが雪に吸い込まれて、街は白い膜の向こう側にあるみたいだった。
駅のすぐ横を走る叡電の線路も、枕木とレールの境目が曖昧になり、
線路なのか、ただの白い帯なのか、遠目には判然としない。
踏切の警報機は黙ったままで、赤いランプだけが雪をかぶっている。
「……音、しないね」
舞子が声をひそめて言う。
鴨川デルタへ向かう道は、見慣れたはずなのに、どこか借り物みたいだった。
アスファルトの黒はほとんど見えず、歩道も車道も、同じ白でつながっている。
歩くたび、靴の下で雪がきゅっ、きゅっと小さく鳴る。その音だけが、今ここに自分たちがいる証みたいだった。
河原に降りる階段は、一段一段の輪郭が溶けて、どこまでが段で、どこからが地面なのか分からない。
慎重に足を置くと、雪がわずかに沈み、また静かになる。
デルタに立った瞬間、街の気配が完全に途切れた。
川面に落ちた雪は、触れた瞬間に溶けて消える。
水は音も立てずに流れ、境目だけが、くっきりとそこにあった。
背後の山は、輪郭を失い、薄墨で描いた山水画みたいだった。
比叡の方角も、ただ白と灰色の境目としてそこにあるだけで、距離の感覚が狂う。
「……鴨川じゃないみたい」
「うん。名前変えてもええくらいやな」
舞子はしばらく何も言わずに、雪に沈んだデルタを見つめていた。
手袋越しに、そっと僕の袖をつかむ。
「ねえ……ここ、夢の中だったらさ」
「うん」
「起きたら、全部元に戻っちゃうのかな」
「なるやろな。雪も、音も」
舞子は足元の雪を、靴の先で軽く蹴った。
「でも……今ここにいるのは、本当だよね」
「それは間違いない」
吐く息が白く膨らみ、すぐにほどける。
遠くで、橋を渡る車の音が一瞬だけ聞こえたが、それもすぐに消えた。
出町柳は、ほんの少しの間だけ、時間から切り離された街になっていた。
ここには僕と舞子しかいない、そんな錯覚さえ生まれる。
──ぼふっ!
そんな僕の感傷は、首筋への冷たい感触とともに吹き飛ばされた。
振り返ると、舞子が満面の笑みで次の雪玉をこしらえているのが目に入った。
僕もすぐに臨戦態勢、舞子の雪玉をいくつかわざと受けながら、足元に次々と雪玉のストックを積み上げていく。
「わー、手袋の中に雪がー」
舞子が一瞬の隙を見せる。
反撃開始。
ストックした雪玉を、浴びせるように次々と投げつける。
舞子のニットキャップが真っ白になり、顔も雪に塗れて頬が紅潮していくのが分かる。
「ずるいー!退却ー!」
そう言って遠くに逃げる舞子に狙いをつけて振りかぶった瞬間─
右肩に激痛が走った。
十二月に三度めの脱臼をした僕の肩は、もう力いっぱい物を投げることはできなくなっていたようだ。
「いてて…」
動きを停めてうずくまった僕に舞子が駆け寄る。
「ハルくん!大丈夫?また肩外れた?」
「大丈夫。投げようとしたら痛かっただけで、外れるとこまでいってない」
「良かった…」
安心して舞子が空を仰ぐ。
ぼふっ!
そんな隙を僕が見逃すはずがない。
足元の雪をたっぷりと両手で掬って、上から顔に投下してやった。
「みゃー!!!なにするの!人が心配してあげてるのにー!」
僕が大笑いすると、舞子は
「もう!マフラーの隙間から雪入ったよ!冷たいー!」
とまだ騒いでいる。
「ほな、そろそろ戻ろか。寒いし、お腹も空いてきたし」
「うん!あ!あのね」
舞子の大きな目がキラリと輝いた。
「豚汁食べたい!熱々の豚汁!それと炊きたての白いご飯!」
それは素晴らしい提案だった。
僕達は出町橋にあがって、商店街に向かった。
◇ ◇ ◇ ◇
「さ、作るで。舞子も手伝いよろしく!」
「うん!野菜切っていくね」
豚バラスライス、大根、にんじん、しいたけ、こんにゃく、里芋、ごぼう、お揚げさん、白ネギ。
並んだ材料だけで既にお腹がぐぅと鳴る。
「ほな、僕はご飯炊いて、あとお出汁取っとくから、大根とにんじんはいちょうに切って、しいたけは適当にスライス、お揚げさんは短冊にお願いなー。こんにゃくは手でちぎったらええから」
「はーい。あ、ごぼうと里芋ってどうしたら?」
そういう舞子に、ササガキと六方剥きのやり方を教えて、僕はお米を研いだ。
昆布とカツオでお出汁もとった。
「ササガキ難しいー」
そういう舞子から包丁をバトンタッチしてシャッシャッとごぼうをささがく。
里芋も六方に剥いたら、いよいよ調理開始だ。
じゅうといい音を立てて豚バラがごま油で炒められると、香ばしい香りが立ち上がった。
「うわ!この匂いだけでご飯食べられるね!」
舞子の声に笑いながら、里芋と白ネギ、お揚げさん以外の具材も入れて一緒に炒める。
お出汁を注ぐと、一気に白い湯気が立ち上がった。
「ほな、三十分くらいこのままやな。沸いたら火ぃ落として」
僕はそう言うと、少し残しておいたササガキごぼうと、にんじんを千切りにして、きんぴらを作った。
やがて、鍋の中の大根とにんじんが柔らかくなった頃合いを見て、里芋と白ネギとお揚げさんを入れ、味噌も半量。
「里芋、柔らかくなるまでにご飯やな」
そう言って土釜をコンロに置いて火を点けた。
豚汁の根菜の香りと、ご飯の甘い匂いが満たされていく。
「ああ、もうたまんない!」
舞子がそう言い出した頃、里芋にも火が通り、醤油とみりんを少々に残りの味噌を入れて味を整えたら出来上がり。
ご飯もちょうど炊きあがった。
「あ、蒸らしてる間に私、卵焼き作るね!」
舞子の絶品卵焼き。
僕ももう一品欲しくなって、冷蔵にあった赤ウィンナーを六本足のタコさんに切ってフライパンで炒め始めた。
──できた。
豚汁、きんぴら、卵焼き、タコさんウィンナー、そして白いご飯。
立派な豚汁定食だ。
ホカホカと上がる湯気が、窓の外からの白い光に反射して光る。
「「いただきます!」」
箸を伸ばすより先に、湯気が顔に触れた。
味噌の匂い、豚の脂、ごぼうの土っぽさが混ざり合って、鼻の奥をくすぐる。
「……あっつ」
舞子がそう言いながらも、嬉しそうに豚汁の椀を両手で包む。
白い湯気の向こうで、頬がほんのり赤くなっていた。
まずは一口。
「……はぁ……」
声にならない息が、そのまま溶けていく。
大根は噛むとじゅわっと出汁を吐き、
里芋は舌の上でほどけるみたいにねっとりと崩れた。
豚バラの脂が味噌と出汁をまとめて、口の中で丸くなる。
「……これ……しみる……」
舞子がぽつりと言う。
「さっきまで、雪の中いたからな」
「うん。なんか……体の中まで戻ってくる感じ」
ご飯を一口。
炊きたての白い粒が、ふわっとほどけて甘い。
そのまま豚汁を追いかけると、
冷えていた体の奥に、じわじわと熱が灯っていくのが分かる。
きんぴらのごぼうは、しゃきっと歯切れがよく、
甘辛い味が舌を引き締める。
卵焼きは、舞子らしく少し甘めで、
噛むたびに出汁が滲んだ。
「……この卵焼き、やっぱり好きやわ」
「知ってるよ」
舞子は微笑んで、次の瞬間にはタコさんウィンナーを箸でつまんでいた。
「……あ。足、六本ある」
「タコさんウィンナーの足は六本。日本国憲法に書いてある」
「そんなワケないじゃん」
「そういうことにしとこ」
二人で笑うと、
さっきまで外にあった静けさとは違う、
台所だけの小さな音が戻ってきた。
箸が器に触れる音。
味噌汁をすする音。
湯気の向こうで、舞子が息を整える気配。
窓の外では、また雪が降りはじめた。
白くなった出町柳は、相変わらず別世界のままだ。
でも、この部屋の中だけは、しっかりと現実で、ちゃんと生きていて、ちゃんと温かい。
「……ね」
舞子が、ご飯を半分ほど残したところで言う。
「今日、デルタ行ってよかったね」
「うん。寒かったけどな」
「でもさ、そのあとにこれ食べられるなら、また行ってもいいかも」
「そうやな」
舞子はくすっと笑って、
最後の一口を大事そうに口に運んだ。
外は白く、
部屋は湯気に満ちて、
僕らはただ、黙々と食べ続ける。
それだけの時間が、なぜかとても確かなものに思えた。




