第59回 白い村と、火の朝
しんと静まり返った深夜の村は、街灯の白い光が雪に反射してぼんやりと明るく、
僕と舞子のさくさくという足音だけが響いていた。
村中に張り巡らされた用水路の水面は今にも凍りつきそうになりながら静かに流れ、時折吹く僅かな風が垣根の山茶花を揺らす。
「なんか、違う時間の違う国に来たみたいだね…」
舞子が白い息を吐きながら囁いた。
僕は子供の頃から慣れ親しんだこの風景と空気が、たった四年の京都暮らしで既に懐かしく感じることに驚きながら、小さく頷いた。
オカンが「持っていき」と渡してくれた懐中電灯の光が雪に白い楕円を描いている。
やがて細い路地のコンクリート塀の向こうから、子供達のわいわいとした声と、あの囃子唄が聞こえてきた。
♪ お粥が煮えたもう煮えた~
♪ 中出のお粥はもう煮えた~
♪ 南のお粥はまだ煮えへん~
♪ 北出のお粥は真っ黒け~
「ぷ。何あれ?」
舞子が吹き出す。
「ん?歌うたいながら供えて回るて説明したやん?」
「そうだけど…まだ煮えないとか真っ黒けとか」
舞子は笑いが止まらない。
「ああ、自分の"出"のお粥はもう美味しく炊けてお供え回ってるけど、他の"出"のお粥は失敗してるていう囃子唄や。今の子ぉらは中出の子ぉらやな」
「なんかもう、民話の世界だね」
そう言われるとそうかも知れない。
子供の頃は当たり前で、何も考えずに歌っていたけど、今こうして『外部から来た人』として聞くと、この歌も、風景も、もっと言えばこの行事そのものが、民俗学の資料映像みたいだ。
榊の葉にお粥を載せて村中の地蔵や道端の祠に供えて回る。
それは、古来には間違いなく"祈り"だったはずなのだが、それを現代に継承した子供にとっては、公認で子供だけで夜更かしして外を出歩ける、ただの楽しい遊びでしかない。
遠くで、何かが揺れている気配がした。
それが歌だと分かるまで、少し時間がかかった。
子供たちの笑い声が近づいてきた。
もう、そこの角のむこうにいるだろう。
「よし、舞子、ちょっとこっち」
僕は小さく囁いて懐中電灯を消し、舞子を手招きした。
次はここに回ってくるであろう小さな祠の陰に二人でしゃがむ。
「どうしたの?」
見上げる舞子に、唇に人差し指を立てて静かにする事を伝える。
♪ お粥が煮えたもう煮えた~
祠の前まで囃子唄が来た時、僕は懐中電灯を顎の下に当て、僕と舞子の顔を下から照らした。
「「「うわぁぁぁぁぁ!!!!!!!!!!」」」
子供たちが悲鳴を上げてひっくり返る。
走り出して雪で滑った子供もいた。
笑いをこらえきれない舞子と、こらえるつもりもない僕が立ち上がると、子供たちはいっせいにブーイングを浴びせてきた。
「なんやー!ハルヒトにいちゃんやんけー!」
隣の家の又従兄弟、マモルがそういいながら僕にキックを浴びせようとしてくるのを避けながら、舞子の手を握って逃げた。
大成功だ。
「ハルくん、酷いねー」
息を切らしながら、そういう舞子も笑いが止まらない。
ふと雲が切れ、東の空に細い細い月が顔を出した。
僅かな光で、村中が淡く発光したように浮かび上がる。
まるで古い日本画のような風景の中を、僕と舞子は手を繋いで神社まで歩いた。
神社では、子供たちも少し静かだ。
笑い声も囃子唄も聞こえない。
静かに、静かに、灯籠のひとつずつに榊の葉を置き、お粥を乗せていく。
最後に拝殿の柱の足元にお供えをしたら満了だ。
「終わったー。帰ってペトロポリスの続きやるぞー」
「ドバイとオマーンは俺のもんやー!」
ほんのひと時の神妙さから、あっという間に小学生に戻って追いかけっこをしながら子供たちは散っていった。
「ほな、僕らも帰って五時前まで寝よか」
「うん。──ね、あれ何?」
舞子が神社の横の遊具の並んだ公園を指さした。
「ああ、あれが左義長の竹組んだやつや。明日は朝からあれに火ぃ燃やすねん」
「へえー。すごそう。じゃ、寝坊しないように寝なきゃね」
僕達はまた手を繋いで、実家への道をさくさく音を立てながら歩いていった。
◇ ◇ ◇ ◇
朝五時、まだ真っ暗な中に、半纏をまとった男たちの咥えるタバコの火が、季節外れのホタルみたいに宙に赤い線を引く。
左義長の竹の組まれた回りには、次々と村中の人達が集まってきた。
腰の曲がったおばあちゃん、受験生らしき高校生、お父さんに手を引かれるおかっぱ頭の女の子、パンチパーマのヤンキー。
村中全員が顔見知りだから、みんな世間話をしながら、でもその表情には普段とは違う神妙さが滲んでいる。
皆の注目が集まる中、今年の自治会長が藁束にライターで火を点けた。
「あれ?ああいうのって普通、お焚き上げの火とかから点火するんじゃないの?八坂さんのをけら火みたいに」
舞子が不思議そうに訊いた。
「まあ、そのへんの緩さが、この神事の謎なとこやな。誰も、謂れも目的も知らへん。ただ、ずっとやってるからやってるだけやねん」
「そうなんだー」
そういう舞子の顔に、オレンジ色が映り込んだ。
藁束を足元に置かれた左義長は、あっという間に燃え上がり、広場を赤々と照らしていく。
やがて、パン!パン!と竹の弾ける音が絶え間なく響き、火の粉が舞い上がった。
「ね、あれ、火事になったりしないの?」
舞子が僕の顔を見上げる。
「なんかよう分からんねんけどな、この左義長の火だけは、どんだけ舞い上がって飛び散っても、火事になったことないらしいねん。誰も確かめたことはないねんけどな」
「へー。なんか聞けば聞くほど、ほんとに昔話みたい」
火が少し落ち着いて、山が崩れてくると、子供たちが竹の先に書き初めをした長い半紙を差して、火の上に掲げ始めた。
半紙はあっという間に火に巻かれ、上昇気流に乗って空に舞い上がる。
「あれな、上まであがったら字が上手くなる言われてるねん」
「へー。また日本昔ばなしだ」
そう言いながらじっと火を見つめる舞子の表情は、いつもの無邪気な顔だけではなかった。
どこか憂いを含んでいて、何かを決めようとしているようにも見えた。
少しずつ白々と明るくなっていく空に、ひときわ高く燃えた、誰かの書き初めが舞い上がった。
◇ ◇ ◇ ◇
「ハルヒト、舞子ちゃん、こっちこっち」
左義長の終わったあと、村の集会所にはところ狭しと人が溢れていた。
オヤジの横に二人で座ると、すぐに割烹着を着てほっかむりをした近所のおばちゃんが、お粥のつがれたお茶碗を僕達の前に並べた。
「お箸はそこ、お茶は勝手にヤカンから入れて。湯呑そこな。梅干しとか漬けもんとかも、その辺の勝手に取ったらええさけな」
「ありがとう。いただきます」
そう言って手に取ったお粥は、別にこれと言って特別なものじゃない。
特に美味しいわけでもないし、ごくごく普通のお粥だ。
でも、この小正月の朝、左義長の後で寝不足で食べるこのお粥は特別なものだ。
普段は意識しないお米の甘みや旨味をしみじみと感じる。
「わ、この梅干し、いつもハルくんが出してくれるのと一緒だ!すっごい酸っぱくて塩辛くて」
「ああ、最近出回ってる減塩とかはちみつ漬けとかの紛いもんと違う、梅と塩と紫蘇だけでできてるホンマモンの梅干しやからな。アパートに置いてるのも、実家からもろてるやつやし」
舞子は頷きながら、少し梅干しをかじってはお粥を口に運び、たくあんを少しかじってはまたお粥、と忙しく食べている。
「舞子ちゃん、おかわり入れよか?」
オカンがやってきて舞子のお茶碗を受け取る。
僕も一緒に渡しておかわりを貰った。
「なあ、ハルヒトくん、横のその女の子、カノジョ?」
幼馴染のサトシが声を上げた。
それまで触れないように遠巻きに見ていた他の顔見知りも、その声に反応して注目が集まる。
「嫁ハンや嫁ハン! 鮎の飴炊きも赤こんにゃくも知ってて、鮒ずしまで食べよるんやぞ!」
オヤジが大きな声でそう言い、集会所にどよめきが起こった。
なんてことをこんなトコでいうんだ、このバカオヤジは!
舞子は耳まで真っ赤になって、慌てて残りのお粥をかきこみ、
「ごちそうさまでした!ハルくん、行こ!」
と立ち上がって僕の手を引いた。
「ひゅーひゅー!!!」
「式には呼んでやー!」
「可愛い(かい)らしい子ぉや!」
大騒ぎの集会所を這々の体で逃げ出す。
やれやれ、これはもう当分この村には顔を出せそうもない。
僕と舞子は実家まで走って戻り、こたつに入ってお茶を飲んで、やっと落ち着いた。
「ごめんな…田舎やからみんな遠慮とかなくて」
そういう僕に舞子は
「大丈夫だよ……嫁ハンか……そんなこと、あるのかな……」
と、なぜか寂しそうな顔で呟いた。
さっきの集会所の笑い声が急に遠くなった気がした。
「バカオヤジの言う事なんか気にせんでええから!」
そう言いながら、なぜか胸の奥が少しざわついた。
「うん!」
舞子はそう言って、大きな目を細めて笑った。
◇ ◇ ◇ ◇
「ほな、帰りは立木さんお参りして帰るわー」
さすがに寝不足で、こたつで寝てしまった僕と舞子は、お昼すぎに目を覚ますと、昼ご飯を食べていけというオカンの焼いた鏡割りのお餅を砂糖醤油ときなこで食べ、
モロコや稚鮎やゴリの飴炊きのタッパーをごっそりと貰って、実家を後にした。
「ありがとうな」
「ありがとうございました」
舞子が頭を下げる。
「ほな、気ぃつけてな。舞子ちゃん、またいつでも来てな」
「はい。ありがとうございます」
再びぺこり。
「あ、オカン、オヤジにあんまり変な噂流すな言うといてな」
「手遅れかも知れんけどな。今も本家で飲んではるわ」
苦笑いをしながらオカンに挨拶して、実家を後にした。
まんが日本昔ばなしみたいな雪の村は、すっかり晴れた太陽の光で、眩しいほどに白く輝いていた。
車のドアを閉めた時、後ろから屋根の雪が落ちる「ドサァ」という音がした。




