第58回 雪の家で、古い唄を待つ
僕が育った村には、毎年冬になると、小さな灯りのように受け継がれてきた神事がある。
戸数百戸足らず、人口三百人ほどの小さな農村、
その小さな村の中で、もっと昔のなにかの名残なのだろう、村の中にはさらに「北出」「中出」「南出」と呼ばれる三つの出があり、秋の村内運動会などでは、その三つの「出」対抗で競ったりしていた。
その村で毎年、小正月の前夜になると子どもたちで行われるのが、「お粥の会」と言われる神事だ。
北、中、南の各"出"の中の一軒が持ち回りでその年の担当の家になり、その家に各"出"の小学生の子供達が全員集まる。
そして、深夜零時をまたぐタイミングで、その家の人が炊いたお粥を鍋に入れ、昼間のうちに集めておいた榊の葉を持って村の中のお地蔵さんや灯籠などを周り、榊の葉っぱの上にお粥を置いて供えて回るのだ。
みんなで囃子唄を歌いながら回る。
♪ お粥が煮えたもう煮えた~
ゴールは神社。
そこでも各灯籠にお粥を供えて周り、最後に本殿に供えて満了。
この行事から卒業した中学生が、美術の時間に紙粘土で作った頭部像に蛍光塗料を塗ったものを拝殿の隅に仕掛けてたりして、そりゃもう大騒ぎなんてこともあった。
この夜だけは、子供たちは集まって朝まで遊ぶことが許されていて、どの家にもある大きな仏間の隅に布団が積み上げられ、ボードゲームやお菓子やみかんを持ち寄って大騒ぎ。
時々「襲撃」等と言って他の出の担当の家に押しかけてお菓子を強奪しあったり、それはそれは楽しくて、僕は毎年この「お粥の会」を心待ちにしていた。
「今年こそは朝まで起きてる!」
と毎年心に誓うのだが、やがて眠気の限界が来て積み上げられた布団を出して雑魚寝になる。
でも、翌朝(というかその夜の続きの朝)は五時に神社の横の空き地に集合しなければならない。
そこで、左義長(どんど焼き)が行われるからだ。
まだ暗い内から火がつけられ、パンパンと竹の弾ける音とともに徐々に空が白んでいく。
長い竹竿の先にその年の書き初めを刺して火に掲げ、火がついた半紙がうまく上空まで舞い上がったら字が上手くなる。
その後は、村の集会所に村人全員が集まって、早朝から婦人会の人たちが炊いたお粥をみんなでいただく。
だから毎年十五日は昼過ぎまで爆睡。
僕の実家ではその後、午後の遅めの時間から湖南の立木さんに、長い階段を登ってお参りに行くのが恒例だった。
大学生になった僕は、考えてみると非常に面白い神事だなと思い、実家の両親とか村の年寄とかにその由来を訊いたことがあるのだが、なんと誰一人その謂れを知らないという。
なぜやるのか、なぜ続いてるのか誰も知らないけど、ずっと続いてるからやってる神事、それがこの「お粥の会」なのだ。
そしてそれは、今も毎年開催されている。
子どもたちはワクワクしてこの日を待っているだろう。
僕らが何も考えずに守っていたその習わしは、いま思えば、ほんのりと湯気をまとった記憶の匂いがする。
◇ ◇ ◇ ◇
「なんか…昭和どころか、もっと昔の日本みたい」
こたつでみかんの皮を剥きながら、舞子が言った。
ストーブの上ではヤカンがシュンシュンと音を立て、窓は真っ白に結露している。
ゴローちゃんが興味なさそうにあくびをした。
「うん。僕は小さい頃から当たり前にあった行事やから不思議に思ったことないけど、どう考えても民俗学とかの話やな。誰も謂れ知らんけど」
「ね、ハルくん」
舞子の大きな目がキラリと光った。
「もしや、『見てみたい』とか言い出す?」
「うん!ほら、今年は日曜日だよ、その『お粥の会』の日」
そう言って舞子はカレンダーの方を指さした。
確かに。
舞子はその日はバイトは休みで、翌日の十五日も成人の日で祝日だ。
「寒いで?」
「大丈夫」
「真夜中やで?」
「起きてる」
舞子の顔中に「ワクワク」と書いてあった。
「夜中に歩く村って、どんな風なんだろう?」
「OK。明日、実家に電話しとくわ」
「ん?勝手に行っちゃダメなの?」
「子供らが回るのは深夜零時、そこから朝までどうするん?」
「あ、そうか。私たちは朝までゲームしてるわけじゃないんだ」
「うん。それに、朝のお粥、食べたいやろ?」
「え!?いいの!?」
「ほやから、その分のお米を出さなあかんから、連絡しとかなあかんねん」
「なるほどー。…って、私、ハルくんの実家泊まるの?いいの?」
いいも何も、正月にお祖母ちゃんとこに連れて行く口裏合わせで、うちの家族には舞子は「カノジョ」として紹介してしまっている。
朝の左義長や集会所で会う地元の親戚連中や同級生達は…まあ、滅多なことでは顔も合わせないだろうから、好きに言わせておけばいい。
そう言うと、舞子は
「走るー走るー俺ーたーちー♪」
と、妙なテンションで踊り出した。
ゴローちゃんが慌てて台所に避難した。
◇ ◇ ◇ ◇
途中越の峠道は、大原を過ぎあたりから雪だった。
天気予報によると、滋賀県も金曜から降り続いた雪で積雪があるという。
舞子は正月以来雪に慣れてきたのか、前のように大騒ぎすることはなくなった。
時々滑るタイヤに合わせて僕が逆ハンドルを切っても、「キャッ」という声を上げることもない。
融雪剤が撒かれた琵琶湖大橋をチャリチャリとチェーンの音を立てながら渡る。
僕の実家へ近づくほどに、空気の温度がひとつ、またひとつと落ちていく。
取付道路から農道に曲がると、どこが路肩なのか怪しくなり、道の真ん中を通っていった。
既にあたりは薄暗いが、外灯の少ない村道は、雪をまとったぶんだけわずかに明るい。
実家の駐車場に車を停め、車を降りた瞬間、雪の匂いと土の匂いがまじり合い、胸の奥の古い記憶を呼び起こした。
「……静かだね」
舞子がダッフルコートの襟を立てる。
「京都と違うやろ。音、なんもない」
耳を澄ませば、自分たちの靴が雪を踏む音だけが世界の全てみたいだった。
実家の玄関の引き戸を開けると、オカンがすぐに出てきた。
「ああ、ハルヒト。それに舞子ちゃん。よう来たなあ」
「ただいま。夜中出たり入ったりするけど、泊めてもらうな」
「もちろんええよ。舞子ちゃん、寒かったやろ。上がってな」
舞子は軽く頭を下げて、「お邪魔します」と言った。
あいかわらず礼儀正しいけれど、年末の挨拶の時より、今日はどこか柔らかい。
「おお、舞子ちゃん、毎度!」
こたつではオヤジが既に一杯やりながら笑点を観ていた。
「ほら、二人ともコタツ入り」
オカンがそう言って湯気の立つほうじ茶を差し出すと、舞子は嬉しそうに手を添えた。
「ほんとに…優しいね、ハルくんのお母さん」
僕は少し照れながら笑った。
「ほな、晩ご飯用意するさけ、ちょっと待っててな」
そういうオカンに、舞子が
「あ、お手伝いします」
と立ち上がって台所に向かった。
「ええ子連れてきたな」
ほろ酔いのオヤジがいらんことを言う。
「そんなんちゃうし」
台所からはオカンと舞子が何やら楽しそうにしている声が聞こえてくる。
話の内容まではわからないが。
やがてコタツの上に、オカンと舞子が皿を並べていった。
大皿に山と積まれた子持ち鮎の飴炊き、赤こんにゃくの煮物、ぜいたく煮、えび豆、そして鮒ずし。
ご飯の横にはしじみの味噌汁と日野菜の漬物。
やがてオカンの「ごはんやでー」の声に弟が二階からズルズルと階段を下りてきた。
「お、兄ちゃん帰ってきとるやん。…あれ?こちらは?」
「舞子ちゃん。ハルヒトのカノジョさん」
オカンにそう言われて、
「あ、はじめまして、舞子…さん?ちゃん?」
急に声がワントーン高くなる。相変わらず分かりやすい。
「こんばんは。遅くにお邪魔してます」
舞子が軽く頭を下げると、弟はなぜか肩をピンと張り、ぎこちない動きで座布団に座った。
「はいはい、熱いうちにな。ほら、舞子ちゃん、これ鮎の飴炊き。そっちは赤こんにゃくの炊いたん。それから、えび豆も食べて。しじみの味噌汁は冷めんうちやで」
「わぁ……全部いい匂い……」
舞子は、見覚えのある料理に次々と笑顔を浮かべた。
鮎の飴炊きに箸を入れながら、
「これ、ハルくんが前に作ってくれたやつと同じ味だ……美味しい……」
と嬉しそうに頬をほころばせる。
赤こんにゃくをつまんで、
「これも、大好き」
と迷いなく口に運び、
えび豆は、
「これも知ってる……味がしみてて好き」
と、ひと粒ずつ丁寧に噛みしめている。
オカンはそれを見て目尻を下げた。
「ほんまにええ子やなあ、舞子ちゃんは。よう食べてくれるわ」
その時、舞子の箸が、見慣れない煮物の前で止まった。
「えっと……これは……?」
「ああ、それ"ぜいたく煮"。漬物のたくあんを水にさらして塩抜きして、それを炊いたやつや。このへんのごちそうやで」
舞子は目を丸くしながら、
「たくあん……を、煮るんですか?」
と興味津々で尋ねた。
「そや。ほれ、一口食べてみ」
オカンが小皿に少し取って渡す。
舞子はおそるおそる口に運び、噛んだ瞬間、瞳がぱっと開いた。
「……美味しい!ぜんぜん漬物っぽくない……なんだろ……優しい味がする……」
「それやそれ。昔の滋賀の味やな」
オカンが満足そうに笑う。
そこへ、オヤジが焼酎のお湯割りを片手に、ニヤリと口元をゆがめた。
「ほな、舞子ちゃん。これはどうかな?」
わざとらしく小皿を差し出す。鮒ずしだ。
オカンが「ちょっと、そんな意地悪なすすめ方せんとき」と言う間もなく、
舞子の顔がぱっと輝いた。
「あっ、鮒ずし!嬉しい!」
何のためらいもなく、一切れを箸でつまみ、すっと口に運ぶ。
「うん……やっぱり美味しい……この、鼻に抜ける香りがたまらない……」
オヤジと弟が同時に固まった。
「お…おお?え?食べられるどころか……喜んでる……?」
「兄ちゃん、いつの間にこんなん仕込んだん……?」
「だから"嫁に来られる"言うとるやろが」
オヤジが笑いながら焼酎をぐいっと煽った。
舞子は言われた瞬間、箸を持ったまま耳まで真っ赤になり、僕の方を見もせず、
「ち、違います、そういうのじゃなくて……!」
と慌てて否定したが、誰も信じていなかった。
オカンが笑いながら、
「ほな、シメいこか。うちは正月でも平日でも最後はこれや」
と炊飯器を開け、二杯目のご飯をよそい、急須に熱い番茶を注いだ。
日野菜の漬物が、小皿に可憐な薄紅色で盛られる。
「これが……日野菜?」
舞子はしばらく眺めてから、茶漬けの上にひとつまみのせ、そっと口に運んだ。
噛んだ瞬間、目がまん丸になる。
「……あっ、辛い……でも、そんなに辛くなくて……ほんのり苦い……」
もう一口。
もう一口。
「……美味しい……すごく好き……これ……!」
その食べっぷりに、家族全員が声を立てて笑った。
「舞子ちゃん、ほんまに滋賀の味、全部いけるんやなあ」
「ええ嫁になるで、こら」
「ちょ、ちょっと……!」
舞子は両手で頬を隠し、ますます真っ赤になった。
僕は茶碗を持ったまま、その横顔を見て、胸の奥がふっと温かくなるのを感じていた。
雪の匂いがまだ少し残る実家で、
家族の笑い声と滋賀の味に包まれながら、
舞子は確かに、僕の"故郷"の中へすとんと溶け込んでいた。
家の外では、雪がまだ音もなく降り続いていた。
遠い昔から続く儀式の気配が、
この家ごと、僕らをそっと包んでいくようだった。




